第63話 つづら折りラヴァーズ
風呂に入るのも一人ではままならない。だから困ったことに、俺と芙蓉の二人で一緒に入るのは日常化していた。服を脱がすのも体を洗うのも全部芙蓉に任せるばかりなのは汗顔の至りだが、ウリョシカは水に弱いし、むーさんに頼むわけにも行かないし、とっくに裸を見せあっている芙蓉が適任なのは他に言いようのない事実だった。
しかし、何度一緒に入るにしても慣れる気は全くしなかった。体を自由に動かせない都合上、湯船に鎮める体の向きも芙蓉の裁量次第なのだけどやっぱり背を向けさせてはもらえない。
二人で一緒に湯船に浸かっていると、どう顔をそらしても緊張してしまう。合理的ではあるのだけどリラックスできないのは頭痛の種だった。
芙蓉は風呂の時はやたら元気だった。芙蓉は持ち前の怪力で軽々と俺を持ち上げると腰掛けに座らせて背後に膝立ちする。俺が目をつむるのが合図だった。芙蓉はシャワーで俺の髪を濡らしてから、わしゃわしゃとシャンプーの泡で包み込んだ。適度な力で丁寧な手付きだった。
「んふふ、私この時間結構好き」
芙蓉はそう言ってくれるけど、俺はどうしても申し訳なさが募って仕方なかった。募った思いが大きくなっていて、俺は途端に謝らずにいられなくなった。
「......ごめんな、芙蓉」
「もう、最近謝ってばっかり」
そうだろうか、そんな自覚はまるでなかった。無意識にどんなに謝っても足りないと思っていて、いつの間にか口癖になってしまっていたのかもしれない。芙蓉は気にするなと言わんばかりの口調でいたけど、声のトーンを落として言った。
「ねえ、よもぎ。私ずっと考えてたんだけどさ」
神妙な様子だった。俺の髪を洗ってくれる手も止まった。
「私、やっぱり穏月様のところへもう一度行こうと思う」
「・・・・それって、つまり・・・」
「うん。穏月様を説得して、紫暮晶樹様の魂をよもぎに返してもらう。そうすればよもぎは、今までどおり元気になれるでしょ」
俺はなんていうべきか迷った。芙蓉の好意はありがたいし、こうなった今、五体満足というのがいかに恵まれたものであるのか身にしみて実感している最中だ。もう一度2本足で立てるというならそうしたいし、いざ治せる治療があると言われれば、迷わず俺は願うだろう。
けど、手段として芙蓉の案を認めて良いものか俺は迷わないわけには行かなかった。
「それは・・・・・・だめだ。芙蓉」
「なんで? どうして・・・?」
「俺の体は、これでいいんだ。だって本当ならこの状態が正しいのに、紫暮晶樹様に頼って仮初の自由を維持していただけなんだろう」
「けど、紫暮晶樹様が望んでやったことだろ。よもぎに生きていて欲しかったから、力を貸してくれたんじゃないのか?」
「それは・・・」
本当にそうだろうか。俺にはそうと思いづらい。紫暮晶樹様が身代わりになったとき、俺には意識があったはずだし、大きな外傷はなかったはずだ。なのに紫暮晶樹様が俺の中に魂を潜めた。もしもそれが紫暮晶樹様自身の延命の手段となるならば説明はつく。・・・ならばあの時のすべてを諦めたような遺言は一体なんだったのか。ひょっとしたら、俺がまだ思い出していない記憶があるのかもしれないが・・・。
「それはわからない・・・けど俺は穏月様の気持ちも無碍に出来ないんだ。もしも芙蓉が蒸発なんてしたら俺も穏月様みたいに、きっと何年かけても探すと思・・・わぷっ」
言い切る前にシャワーを掛けられた。洗ってくれているときのような丁寧さはなく、雑に泡を流した。
シャワーが止まるのを確認すると俺は動く方の手で顔を拭い・・・そのままの格好で硬直した。
ぴたりと、背中全体に人肌のぬくもりと感触が張り付いたからだった。俺の体にはない圧倒的物量の柔肉が覆いかぶさる。肩にまだ濡れていない茶色の髪がかかり、その肩越しに声がする。
「・・・よもぎは本当に優しいなぁ」
芙蓉の腕がぐるりと回って、俺の体をやさしく抱きしめた。撫でるように髪をすいた。愛でるように頬を寄せ、俺の体温を感じようとして擦り寄せた。
体重をかけられているわけじゃないからバランスをとる必要もないが、たちまち体が充血して真っ赤になって、少し前かがみになった。
「ふ、芙蓉・・・!」
「あ・・・・・」
振りほどく力は俺にはない。だから芙蓉が俺の体のどこを触ろうと、ただエスカレートしないよう祈ることしか出来なかった。
「やっと・・・・反応してくれた? あは、ここまで長かったなぁ・・・。じゃあなんだ。いつも洗ってあげるとき、ずっとやせ我慢してたの? ・・・・可愛いなあ、よもぎは。ほんとに可愛い・・・・」
なにか、スイッチをいれるようなことをしただろうか。芙蓉が年上の女に見えた。俺はただ、自分以外のことも大事にしたいと言っただけで、わがままに何も解決しない現状に甘んじているだけだ。
俺は優しいことを言っただろうか。自己犠牲みたいな持論に酔っているだけじゃないか。芙蓉と一緒にいたいといったくせに、実際今後のことはほとんど考えていない。死んだらその時だと、最初から諦めてることに変わりもない。むしろ明確な死期が見えたことにあっさりと馴染んでいるあたり、ようやく終わりが来たと安らいでさえいたかも知れない。
すべて自分の死を正当化する言い訳じゃないだろうか。その証拠に俺は穏月様の意思をダシに使った。もし俺が本当に優しいとしたら、真っ先に「俺が薄命の死を迎えるのは、芙蓉だって覚悟していたはずだ」と言うべきだった。
どうすれば良いのかわからない。元から芙蓉と俺の間には種族的な寿命の壁はあった。今このときになって、その事実が現実味を帯びたに過ぎない。
これでいい。これで正しい。間違ってはいない。けど、納得もしたくない。そういうナイーヴな発想ばかりが俺を蝕んだ。
「そうじゃないよ」
芙蓉は俺を持ち上げると、湯船の中に放り込んだ。乱暴な扱いに小さく悲鳴を上げた。ざぶんと水飛沫が上がり、一緒に芙蓉も湯船に浸かる。そして今度は正面から肌の隙間なく密着された。
ついに城壁が崩壊してしまったような実感を得た。認めざるを得なかった。今まではただのがさつな女でしかなかったが、今の芙蓉には目を疑う色気があった。俺が芙蓉に告白した日も一緒に風呂に入ったような気がする。水が滴ると綺麗に見えるのは、どうやら男だけではないらしかった。
「よもぎが優しいのはね、悩むからだよ。他人のことだけじゃない、自分のことも同列に考えてる。それは自分に甘いんじゃない。たしかに優しさなんだと思うよ。よもぎに足りてないのは自分でそれを信じることだ。忘れたか? だから私、お前のことが好きなんだよ。頭では理解してる。だから悩む。寿命が短くても、前向きにそうしようとするとこ。人間臭くて、すごく人間ぽくない。霊っぽくもない。そのへんてこさが好き」
「結局、何が言いたいの?」
「自分でもわかんなくなっちゃった」
もう論点がどこにあったのかも思い出せない。俺が言いたいのは、穏月様と紫暮晶樹様はそっとしておきたいということ。芙蓉が言いたいのは俺が出した結論ならば従うということ。・・・でいいのだろうか。
何一つ解決らしいこともないけれど・・・。有耶無耶になってどうとも言えなくなってしまった。けれど芙蓉は嬉しそうにぱちゃぱちゃと尻尾を揺らして水を跳ねさせており、それを見ていると悩むことなんてどうでも良くなってきてしまった。
長らく経っても芙蓉はまだ離れようとしなかった。もみくちゃにされないだけ良いけれど、目の置きどころはおろか心の置所もないのは如何なものか。感触は気持ちいいせいで、嫌な気がしないのがなお厄介だった。
「・・・・・ねえ・・・よもぎ」
芙蓉は狐のくせに猫なで声で甘えた。
「ちゅーしたい。舌をすっごい絡めるやつ、してみたい」
目的をはっきり言う割には、目を合わせようとしなかった。大胆かつ繊細・・・とは違うか。芙蓉は俺の肩に顔を埋め、完全に体重を預けてじっと返事を待った。
俺は芙蓉に視線を落とす。まるで眠るようにもたれかかる芙蓉の髪が、湯船に浮いているのを見てそれをすくい上げた。その瞬間、芙蓉の心臓がドキッと跳ねるのが胸越しに伝わった。
「・・・ひょっとして実は照れてた?」
「・・・・・・お、思っても、言うな! そういうこと!」
声が吃っているので図星だったようだ。不覚にも、そんなことで芙蓉を可愛いと思ってしまった。それが俺の中の何かを焚き付けた。右手に絡んだ芙蓉の髪を乱暴に引っ張り、無理やり顔を上げさせた。
「あぐっ」
「あ・・・悪い・・・。痛かった?」
「・・・へへ、ちょっとだけ。でも乱暴されるのも憧れてた」
「っ・・・! ああ、もう!」
俺は自分で自分を呪った。髪を引っ張るなんて乱暴を働いてしまうなんて、一番やりたくないことだったはずなのに。
絶対、芙蓉を大切にする。改めてここで心にそう誓う。
「・・・芙蓉、目閉じて。舌出して」
ぽうっと赤くなった顔で芙蓉は頷いた。今度は髪を引っ張るのではなく、顎を持ち上げることで口を俺の方へ寄せた。
ゴクリと生唾を飲み込む。ぬらりと妖しく光る唇と舌。二枚貝の殻の隙間からちろりと軟体の足が出るように、先端だけをのぞかせた舌。俺を求めて、待ってくれている。
そこに俺同じように瞼を下ろして、同じものを近づけて触れさせた。
ぴちゃ、と小さな湿った音。それに俺も胸を弾ませながら、舌と耳でも芙蓉を感じようとした。
「ぶええっ!」
「ぐえっ!」
したら、突き飛ばされた。打ち付けた後頭部を摩りながら一体何があったのか芙蓉の様子を確認すると、全身の毛を逆立てて肩を抱いていた。
「おえっ! 気色悪っ! 他人のベロってこんな感触すんの!? どぅるって! くちゅって! 思ってたのと違う!! ナメクジ喰ってるみたい! おええ!」
「その反応、すごく傷つくんだけど・・・」
してって言うからしたのにそりゃねーよ。ていうか、乱暴はどっちだオイ。さっきまでの色気もどっか行っちゃったし、もったいない。なんか散々だ。
「だってエロビじゃもっと気持ちよさそうだったんだもん」
エロビて。
「そんなに憧れるもんでもないよ。俺だっていい思い出もないし」
「あ・・・・そっか。よもぎは・・・・誘拐されて・・・」
暴漢どもの唾液の味ならさんざ味わった。目隠しされてたから余計にはっきり覚えてるのが皮肉だ。あの最悪の記憶は俺の中に鮮明に残るものだけど、俺は男なのにその後も何度も何度も色んな男に欲しがられて身を護るために体を売ってきたせいで、トラウマらしい感覚は麻痺してしまっている。
「嫌なら嫌って言えばいいのに」
芙蓉はそう言って自分の行いを省みた。けれどそうではなかった。そんな事は決してない。
「思い出してみろよ。さっき俺が芙蓉に何をしたか」
「え、べろちゅー?」
「その言い方やめようね。もっと前。髪の毛引っ張っっちゃったでしょ。無理やりしたくなるくらい、俺だって芙蓉とキスしたかったんだよ」
「よもぎ・・・・」
安心したようにはにかんで芙蓉は言った。
「ムラムラしたんだね」
「だからその言い方やめようね」
「ね、よもぎ。やっぱり、もっかいちゃんとしよ」
いつもの調子に戻った芙蓉は、また息のかかるほどの距離へ詰め寄ってきた。
「芙蓉のほうがすげえ嫌そうだったのに?」
「頑張るからちゃんとしよっ! ほら口開けて舌出せ」
やっぱり本音は嫌なんじゃないか。ちょっと拗ねて、わざと芙蓉から顔をそらしていたら最終的に力任せで唇を奪われた。昔の記憶のせいか反射的に抵抗しようとしてしまったが、しかし芙蓉の顔が目の前にあるのを見たら安心して、自然と力が抜けた。
子供が棒付き飴を舐めるように、うっとりとしながら唇を舐める。そして唾液を潤滑油にするように、俺の唇と歯の隙間を縫って芙蓉の舌が滑り込んできた。
いっぱい舌を絡めたい、という芙蓉の心象が唾液とともに流れ込む。口の中を余すとこなく舐め尽くそうとせんと一生懸命に暴れまわる。
びっくりしたのは、芙蓉の舌の長さだった。イヌ科の動物の舌を見て、長いなあと思うことは度々あったが、芙蓉のそれもずいぶんと長くて、喉の奥まで舐め上げられた時は、俺のまだ知らない刺激に驚いて、思わず悲鳴にも似た嬌声を上げてしまった。
たっぷり1分は舌を擦りつけあっただろうか、ようやく解放された頃には、俺も芙蓉も息が上がっていた。口の中はすっかり二人の唾液でいっぱいになって、なにか喋ろうとするとこぼれてしまいそうだった。
こくっ・・・こくっ・・・と少しずつ、ぬめりのある液体を味わうように嚥下するして、ようやく俺は深呼吸で酸素にありついた。
「はふ・・・・・フーッ・・・フーッ・・・あ、あたま・・・ぽーってしちゃった・・・」
「わ、私も・・・・なんか慣れてきたら、だんだん気持ちよくなっちゃって・・・夢中になっちゃった・・・・人のキスって、すごいね・・・」
お互いに粗い息を整えながら、落ち着くまで舌の代わりに指を絡めあった。
「てかお前・・・ふぅ・・・ふぅ・・・舌、長すぎ・・・・・・息でき、なかったじゃん・・・」
「でも・・・気持ちよかっ、たでしょ? どう・・・? 昔の、男のこと忘れれた?」
その言葉を聞いて、ますます俺の頭は蕩けてしまいそうになった。芙蓉はそんなことを考えて・・・。たまらずもうずっと密着してるのに、更に抱き寄せようと芙蓉の背中に腕を回した。右腕しか動かせないのが悔しかった。足りない左腕ぶんは、芙蓉の首元に口づけすることで補った。
「そう・・・良かった・・・」
芙蓉は満足そうに、喉を鳴らして・・・信じられないことを言った。
「じゃあ今度はよもぎの番ね」
「は?」
「よもぎが私に舌入れる番!」
何いってんだろうかこの狐様は。もうたっぷりしたじゃん、と思っていると芙蓉は俺を抱えて今度は俺が覆いかぶさる形になるように逆方向に倒れ込んだ。
もうすっかりハマってしまったらしい。もしかして俺は芙蓉にやばいことを憶えさせてしまったのではないだろうか。ニコチンやアルコールに中毒になるよりよほどまずい中毒を・・・。
けど、芙蓉が甘えて耳元で「もっと、もっとぉ」と切なそうに囁くのを聞くと、まるで操られたように思考が蕩けてくる。
結局求められるままにその後も、何度もキスを繰り返してしまった。キスをやめてもまだしばらく芙蓉の味を感じてしまうくらいに、頭が麻痺してしまっていた。そして・・・
*
「・・・・もう、お二人でな~にしてたら真っ赤になるまでのぼせちゃうんスかねぇ」
「い、いや~・・・あはは」
俺と芙蓉は、呆れ顔でむーさんに叱られてしまった。
気づくと俺はリビングのソファで、扇風機の風を受けながら涼んでいた。頭に氷のうを載せて、ぐったりと体を横たえていた。芙蓉はピンピンしてるのが、ちょっと納得行かなかった。また心なしかつやつやしているようにも見える。もしかしてキスと見せかけて、こっそり霊力でも食われてたのではないかとあらぬ疑いを持ってしまった。
それにしてもだった。
「・・・・ホントに、すっかり上書きされちゃった・・・」
冴えない頭で、そんなことを思った。今まで口づけの感触と言えば生ぬるく生臭く、ザラリとした張りのない雑巾のような感触や、硬い髭でなぞられる記憶ばかりが思い起こされたが、もう今日のことが頭に染み付いて離れない。キスと聞いたら思い出さずにはいられないほどに鮮烈に心に刻みこまれてしまった。
薄い目で芙蓉を見ると俺の視線に気づいたらしい。にへらと笑って、そばで腰を下ろすと耳元で囁いた。明らかに看病しようとする雰囲気ではなかった。
「また・・・しよーね♪」
「・・・お前がこうしたんだからせめて
口答えこそしてみるけれど、勘弁してくれ、とは言えなかった。
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