第61話 月のクレーター
穏月が生まれ落ちたのは月が半分欠けた夜だった。黄泉国の黒松の根本に意識を覚醒し、細い葉の隙間から夜空を見上げたのが一番最初に心に刻みつけた光景であった。
穏月は時代こそ移り変われど、自らの姿かたちを変えることはほぼなかった。長身と黒い外套を身にまとうことは一度たりとも辞めなかった。うつしよから姿を隠すようであり、真昼に姿を誇張するようであった。
彼の両親は霊であった。父は風霊、母は猫神であった。片親は霊というよりは現象に近く、故に穏月は父の顔を知らなかった。猫神は穏月を孕むつもりはなかったので、常に我が子には背を向けた。故に穏月は母の顔を憶えていなかった。
穏月を生んだ猫神はとんだ怠け者であった。とはいえ穏月は神の子であった。猫神の排斥した事の数々は代わりに穏月が引き受けた。何をすることがあったかといえば、通行人みちゆくひとの安否を見守るだけの地蔵のような日々を送るだけである。
穏月は街道を渡る人の姿を見に写すたびに考えた。この世は神が見守るだけの価値のある大地だろうかと。
母が自由奔放を体現した遊び人なのは、人類に愛想を持たぬからではないか。
人はろくに命を弄ばない。丁度このごろ、幕府が一つ倒れる大事があった。だと言うのに、未だろくに将軍も決まりもしない。
そういったいい加減な佇まいをあげつらうならば、母の気持ちもわかるのだ。我が子にすら愛情を注がぬ霊であるがゆえ、穏月は日々自分の保つ役割に疑問を抱えて過ごした。
しかし穏月には人を見捨てきれない理由を2つ両脇に抱えていた。1つはこの世の法則を知っていたためである。人は神に縋らずには生きて行けない弱い生き物であったが、神は人間なくしては生まれることもかなわないひ弱な異き物であるからだ。
神の根源は人の願いと信仰である。人が願ったから神は生まれ、畏れ敬うから霊体を形象化して保ちつづけることができるのだ。
人は神によって生み出されたと逸話が残るが、その逸話すら最初に生み出したのは人間である。穏月らにとって人間は、もっとも根本的な創造主だった。
よって鬼の目の涙ほど稀ではあるが、穏月は人を見守り続ける理由を見出していた。
そしてもう一つの理由が9割9分を占める。それが紫暮晶樹の存在であった。
初めて紫暮晶樹に出会ったのは生まれて139回目の冬であった。白い雪の積もるなか、黒い外套は否応にも目立った。紫暮晶樹は白銀の世界でも構わず、見紛うことのない銀の鱗を輝かせていた。
この世には『
紫暮晶樹は禍を喰う霊であった。食料にしているわけではなく、紫暮晶樹には喰った禍を大地に還元する役割があった。還元された禍は新たに草木として、春に命を芽吹かせる。故に
どの日も紫暮晶樹は気まぐれに大地を横断しながら、禍を喰っていた。不思議なことに、まるで煙草をふかす粋人のように、目に見えない何かをうまそうに口へ入れていた。
穏月は紫暮晶樹に憧れていた。見てくれの美しさだけではない。彼女の心の美しさに憧れていた。人の禍をいくら吸っても汚れない高潔な魂と、心の黒い部分にばかり触れているのに人を見限らない情愛。穏月自身とは似ても似つかない在り方。己にないものを持つ者というのは輝いて見えるものだ。けれど、それを求めはしなかった。穏月にとって、彼女は過ぎたものだったからだ。穏月は遠くのものを見るように目を細めて、紫暮晶樹を見つめていた。
*
穏月が人を見守る役目も忘れて、紫暮晶樹の有り様に見惚れて2年が過ぎた。
紫暮晶樹の方から穏月へと、まだ足跡のない白い道を渡ってずいと歩み寄ることがあった。雲ひとつない晴天。雪が大気の埃を洗い流して、心なしか空気が澄んでいるように感じる昼下がりのことだった。
穏月にとって驚くべきことであった。2年以上互いを置物のように目の隅に入れていただけであったというのに、風の向きが変わるような軽薄さで距離を詰めたからであった。
紫暮晶樹は座り込む穏月を見下ろして、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。そして素直に聞いていたら若い芽が巨木になっていそうなほどの速度でゆっくりと言った。
「届かないものに手を伸ばしても卑しいだけ。なんて思っているのかい?」
穏月は困惑した。そしてすぐに憤った。
「馬鹿にするのはよしてもらおう」
「馬鹿になんてしちゃあいないさ。ただ君、ほら、ええと、あれだよ。あれあれ。そう。いつも物欲しそうな目で私を見るだろう?うーんと、なんだっけ、ああそうだ。いい加減待つのに疲れちまってねえ」
紫暮晶樹と言葉をかわすのはこれが初めてだが、真面目に話すつもりがないのかと穏月は思った。頭の中で考えをまとめてから話せば良いものを、おかげで穏月も何の話をしているんだかわからなくなりつつあった。
「思い上がりも甚だしい。貴様の禍を喰う様子が煙を吸い込む煙突のようなのが滑稽なだけだ」
穏月は嘘をついた。紫暮晶樹があまりにも真っ直ぐだったため、そして惚れていることを見透かされているのが気に食わず、おいそれと肯定するのは自尊心が許さなかった。
「よくもまあ、飽きもせず見てられるものだ。よっっっぽど暇なのだね。じゃあ、それにはどう言い訳する気だね?」
「それ、とは」
「それと言えば、それしかなかろう? あれだ。おいしいやつ。うーんと、うーんと、いつも喰ってるだろう。見てるだろう」
「うまいかどうかなど知る由もないが、貴様の言っているのは禍のことか?」
「そう、それ!おまえからもまろびでているじゃあないか。いい匂いだ。腐りかけの恋の匂いだ。それ、誰に向けているんだね? うん? 知ってるんだったかな。あの町娘でなし、あのお姫様でなし・・・・ええと、あっ、私かぁ! そうだ、で、何の話だっけ?」
穏月はとうとう付き合っていられなくなった。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、などとは世迷い言であるらしい。口を開けば座禅草ザゼンソウとでも書き加えればよいと本気で思った。数年の茫熱も冷めるというものだった。
「馬鹿も休み休み言え。吾から禍が? そもそも味などと、食料にしているわけでもあるまいに、よくもまあそれほど霊体に悪そうなものを際限なく喰らえるものだ。それだけは敬服に値すると言っていいだろう。だが貴様の話にはついていけぬ」
「禍を生むのは人だけとは限らぬよ。心を持つものはみな禍を生む。事実、君は心を病み禍を放っている。ああ、思い出した。だから君に話しかけたんだった。あれ、何を言おうとしたんだっけ。思い出せてないね。いや、ちゃんと思い出すよ。とかく、君は一体誰だね?」
穏月はすべてを諦めた。今世紀最大のため息を吐いた。紫暮晶樹とは3歩歩けば物を忘れる鶏頭であるらしい。そして今まで胸にいだいた思いはかくも幻想であったと思い知らされた。高潔なのではなく、ただ何も考えていないだけなのだから、魂も汚れようがないのだ。唯一の救いは、話の通じない相手ではないことだけである。一方通行だが。
「・・・・
「いいじゃあないか。それで不都合なかっただろう。ところで思い出したよ。今度こそ思い出した。だから安心してほしい。そんなに嫌そうな顔をしないで聞いておくれよ。ああ、今思い出したのに、君がそんな顔をするから!」
「いいからさっさと言え!」
「もう、怒んなくったっていいじゃあないか。そら、まァた禍が出ている」
「貴様のせいだ!」
穏月は怒りを顕にした。必ず、この狂気痴呆の神の頭蓋を開いて、漢方の一滴も垂らしてやらねばならぬと決意した。
「あっはっは! そうかい。そりゃすまなかった。それで、どうするんだね?」
「何をだ!」
「君は私に惚れてるんだろう。はっきりさせて欲しいのだ」
穏月は今後、この時のことを終生憂うことになるのだが、紫暮晶樹に幻滅したことに手のひらを返しその場限りの本心を告げた。
「貴様なんぞに惚れなどしようものか! 話せば話すほど鼻持ちならぬ!」
「あっはっは! そうかね。勘違いしてすまなかった。まぁ、いいとも。君の眼差しは、実はいくらか心地よかったのだが」
そう言うと紫暮晶樹は軽快な足運びでくるりと踵を返す。だが、すぐに思い出したように穏月に向き直り穏月の頭上に顔を近づけた。
「そうそう、いけないな。また忘れるところだった。君のそのそれだけ貰っていこう。それ、ああ、また名前を忘れてしまった。うん、そう、ま・・・ま・・・禍だ!」
もはや態と忘れたふりをしているのではとも疑い、穏月は無言で業を煮やした。紫暮晶樹は穏月の禍を吸い込むと、口の端をにやけさせた。首を高くもたげ空を見た。
「っふ・・・っくくく、ははは! あっはっはっは! こりゃあ、たまらない。これだから禍を喰うのは辞められんのだ!」
最後には高らかに、狂ったように笑いながら、またどこかへ歩き去っていった。
*
穏月は思い悩んだ。考えても見れば、紫暮晶樹になぜあれほどの羨望の眼差しを向けていたのだろう。たった一瞬のうちに印象を変えられてしまうほど、穏月は紫暮晶樹に対して蒙昧であったと言う他ないが、あの出来事の後にも何一つ変わらない日常が続いたので、穏月は悔恨の念に苛まれつつあったのだ。
何一つ変わらなかったのだ。そう、何一つ。それは、穏月が人に向ける思いも、紫暮晶樹の立ち振舞も、そして穏月の紫暮晶樹に対する憧れすらも。結局、あれは美しいものだと、紫暮晶樹を見つめるだけである。
時間が巻き戻ってしまったと錯覚するほど、一切の変化がなかったのだ。
決して忘れたわけではない。紫暮晶樹の馬鹿が感染ったとは断じて認めるつもりはなかった。しかし、なのにどうしてか未練がましくぼうっと熱を孕んでいる。
紫暮晶樹も相変わらずだった。気まぐれに風のように眼前に現れては、なにもないところをウロウロとふらつく。紫暮晶樹がこの場によく姿を表すのは、このあたりは禍の溜まりやすい場所だからなのか、想像に任せるしかないのでそう結論づけざるを得なかった。専門家ではないのだから仕方ない。
*
年が何度か巡った。数えては居ないが60年は過ぎたであろう頃、また紫暮晶樹が語りかけてくることがあった。今度はにこやかな表情であった。穏月は黒い外套の、頭巾を正面まで隠すほど深くかぶり込み応対した。
「御機嫌よう」
「用などなにもないはずだ」
「いいや、私がある」
そう言うと、草の根まで鼻先をこすりつけ真下から顔面のある位置を覗き込んだ。
「どうして私は、君に好かれているのだね?」
「何を」
「だって、そうだ。私らは、うん、あれのはずなのに、君のあれはそういうあれがする」
「考えてから話せ」
「すまない。どうも、この頃は」
一呼吸置いて、紫暮晶樹は言った。
「つまり私らは、初対面ではないのだね?」
穏月はその言葉を聞いたときすべてを理解した。紫暮晶樹がこの辺りをうろつく理由も、ひたすら禍を喰い続ける理由も、記憶力が悲惨な理由も。
紫暮晶樹が痴呆を患っているのは、禍を喰いすぎているせいだった。
禍を還元する能力と言えど万能ではなかった。紫暮晶樹は禍を喰うとき、その負の念を発した心ある者の感情の断片を垣間見る。この世に何万何億といる人間、あるいは霊の負の念を吸い続ければ、いずれ還元する能力にも限界を来す。それでも紫暮晶樹は限度を超えて、態と禍を喰らい続けていた。
誰かを愛するがゆえの第三者への嫉妬、自身の子供を傷つけさせまいがための作為的忌避、友の悪逆を矯正せんがための憤怒、片思いの相手を強引にでも振り向かせんとする陰謀など。それら全てはだれかの本音だ。
紫暮晶樹は禍が好きだった。黒い念と言えど、嘘のない想いであるからこそ、喰らっては記憶を垣間見、楽しんでいたのだった。しかしあらゆる記憶を見たことが仇となった。
穏月は問うた。
「なぜ、初対面ではないとわかる?」
紫暮晶樹は子をあやす母のような、温かい目で答えた。
「だって、君は私に惚れているじゃあないか。ううんと、そうだ、こう言いたかったのだ。君の禍は、そういう味がする」
穏月は口を開くことを諦めた。この霊は、なんと言おうが禍を喰うのを辞めないだろう。そして、今度こそ穏月ははっきりと認知した。紫暮晶樹に惚れたその理由を。
彼女の邪悪さは、万人を食い物にする点と、それゆえに人をこよなく愛するところだ。似ても似つかぬはずだ。彼女に人に向ける情愛は、穏月の得ることの叶わなかった、慈母のそれなのだから。
穏月は首を振った。愚かなものだと思ってしまった。自分には手の届かない大した霊だと思いこんでいたが、それは全くの誤解であった。
「・・・・はっきりさせてくべきだ。問おう。貴様は吾をどう捉える?」
紫暮晶樹は首を持ち上げると、穏月の方のあたりに髭を垂らした。目を閉じ、肌で感じようとし、それからゆっくりと答えた。
「・・・その姿は、正確の二面性を表しているのだね。夜に姿を隠し、昼に誇張する。顔を隠すくせに、感情を隠す気がない。好意と敵対の天邪鬼だ」
「そうではない」
穏月は紫暮晶樹の顔を両手で抱えると正面を向かせ、頭巾の下の暗闇をよく見るように促した。
「貴様が吾をどう思うのか問うているのだ」
「ああ、そっちかね」
紫暮晶樹は嬉しそうだった。嬉しそうに頭巾の下の暗闇の奥へ顔を寄せた
「君の好意はとても心地が良い。なにせ、積年の腐敗した恋心だ。ものを覚えられない私にずうっと、こんな思いを発酵させてくれていたのは君だけだ。この禍の味だけは何故か忘れられなかった」
「60年前の問に今一度答えよう。吾は汝に憧れている。手の届かぬものに手を伸ばさぬのは、その行為が卑しいと思っていたからだ。だが・・・思い上がりは、吾の方だったな」
紫暮晶樹は笑った。
「60年も前から知り合いだったのだね。そんな
穏月は悪いことをしたと謝った。そして、紫暮晶樹と2つの誓いを立てた。一つは紫暮晶樹のために、穏月が記憶を引き受けるということ。もう一つは紫暮晶樹は限界を超えて禍を食わぬということ。
それはまるで西洋の婚姻の儀式のような、白銀の雪上での出来事だった。
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