第58話 裏の裏
こんな夢を見た。何十年か前、オレが出会った男とのちょっとした思い出の夢だ。
ある日のことだった。
「ちぇ、今日も硬い餅だけだ。たまにはカリカリの衣のついた天麩羅の一つも持ってきてもらえねえもんかなぁ」
小さな苔むした祠に背を預けながらオレは、そこに供えられていたカチカチの餅を手に取ると匂いを嗅ぎ、仏頂面で歯を立てた。餅であると言うのにそれはせんべいのように割れ、ボロボロと塊を崩れさせる。
噛み砕いて喉の奥に流し込むだけならばこの程度の硬さはどうってことはないが、味にも食感にも少しも満足はいかず、オレは作業的に咀嚼を続けた。
餅はたいてい数日に一度、定期的に供えられていた。
その日は雨だった。しとしとと静かに大地を濡らす。その割に気温は高く、湿り気が尻尾の毛並みを荒くするのだけは気が滅入った。どのみち早く食わねば餅も
「まったく、残飯処理でも任されてんじゃねえのか?オレぁ」
そんな愚痴を吐いて欠伸をした。
またある日のことだった。
その日もついで硬い餅だった。何かものを寄越してくれるだけでも十分ありがたいのだが、オレは不服を言いながら黴びる前にそれを食っては胃袋を満たしていた。
その日は風の強い日だった。ざわざわと鳴る枝の擦れる音と、風に千切られて舞う木の葉に掴まれて、自分の心もどこかへ飛ばされるのではないかと言うほど、己の精神から手を離しかけていた。
自分は何のために生まれ、何のために死に、どうして神になぞなったのだったか。吹かれれば飛び散りそうなほどぼんやりとした煙のような妄想をばかり捗らせていたのであった。
人になるのはまっぴらだと言った。自分を殺した人間なぞには、食うためでなく身を護るためでもなく、ただ一発の鉛で殺すために殺せる人間にはなるべくもないと拒んだのだ。
だからといって神にされるとは寝耳に水な話であった。狐として生まれた自分が、しかし拒んだはずの人ののような姿で生まれ変わらされ、神の一存で神をやらされているのだから。己のことも嫌いになろうというもの。
一度はこの身をとことんまで嫌悪し、髪と喉を掻き毟ったことがあった。自ら死のうと思うことさえあった。しかしそれこそまるで人間のようではないか。そこまで堕落しては神の、いや獣の恥だ。我が生命への冒涜だと考え死んだようにありながらも生きることはやめまいと誓ったのであった。
向かい風に打たれながら、オレは欠伸をした。
あるときオレは餅を齧りながら思った。
そう言えば、この餅を供えてくれているのは、一体どんな人間だろう。
オレはあまりに退屈を極めない限り惑和山から出たことはないし、そもオレを祀る祠からもほとんど離れたことがない。
一度海藍という街に降りてみたときには
餅は雨の日も風の日も、オレが寝てる間に供えられているから、てっきり西洋の羽つき妖精が餅つき、運んでるんじゃあるまいかとメルヒェンな想像に駆られたこともあった。
オレは人間は嫌いだが、餅もまずくて嫌いだが、たまには感謝の一つもせねばなるまいと生前から持ち越したる義理を担いで、供え物を運んでくれる人間に会いたくなった。
しかしある日、ぷっつりと餅が供えられるのが途絶えたことがあった。
最初こそ風邪でも引いたのだろうと思っていたが、それからも一向に餅が届く気配がない。空腹という空腹を感じるでもないが、代わりにネズミを捕らえては歯で皮を剥ぎ、血の味を熱を感じながら肉を喰らっていた。その間も顔も知らぬ人間の安否だけは心配を感じていた。
またまた数十日後のことだった。
この山で一番背の高い木の上で惰眠を貪っていると、微かに人の気配を感じた。うっすら目を開けると両手で苗色の皿を持った人間が山の中に入ってくるのを見た。まだ若い少年であったように見えた。その少年は人の足に踏み固められた道路とも呼べない道を通ってまっすぐオレの祠に向かって歩いていった。
オレは木の上を渡って祠の前に先回りした。すると先に見た少年が歩いてくるのが見えた。よく見れば皿の上に硬そうな餅を乗せているではないか。あの少年が、餅をいつも運んでくれているのか。
男らしいガタイに頬骨の浮き出た顔で、唇の端に小さなほくろがあり、しかし若いからかかわいらしい顔をしているように思えた。そう思ったオレは木の上から声をかけた。
「よう、あんたがいつもそいつを届けてくれていたのか?」
興味本位で聞いただけだ。どうせ相手は人間、オレは霊だ。見えるわけはない。そう高をくくっていた。だが少年は明らかにオレの声に反応してみせ、木の上に顔を向けた。
「いいや、俺はここに来るのは初めてだ。いつもここに餅を届けてた婆さんは寿命で死んだよ。68だった。長生きできたのは神様のおかげだと喜んで逝った。だから俺が代わりにここへ来たんだ。頼まれてな」
オレは驚きを隠せなかった。もとより隠す芸当なんて持ち合わせるはずもないものの、少年に声が届いたことも、普段餅を供えてくれていた人間が死んでいたのにも、衝撃を受けた。
68と言ったら今のオレの半分以下だ。狐の頃は5年と生きられなかったが、今となっては100年程度じゃ長いとも思わなかった。1年なんて寝てたら過ぎる。そんな時間感覚だった。
「へえ、そうか。じゃあ、ついでにもう一つ代わりを頼まれてくれねえか。その婆さんの墓に礼を伝えといてくれ。今までありがとうと」
「そのくらいならお安い御用だ。だがよ、一つ解せねえことがある」
「なんだ?」
「衣の端から、あちこち柔肌が見えちまってる。ちったあ
「なんだ、見た目通りのガキか。オレが見えて驚かねえからとんでもねえ担持ちかと構えたぜ」
「霊は見慣れてる。女の体は見慣れてねえ。それだけさ。じゃあな」
「ああ、それともう一つ頼みがある」
「なんだ?」
「次からは天麩羅もくれねえか」
「そいつぁ、すこぶる解せねえな」
それから、オレと少年の交流は始まった。交流と言っても1日のうち数分顔を合わせ数回会話を交わす程度だった。それも月に数度だけだった。
更にそれから数十日後のことだった。
また少年がオレに餅を供えてくれた。少年が届けてくれるようになってから4回目のその日は、初めて椎茸の天麩羅があった。
「なんだあ?ご馳走じゃあねえか。昨日はハレの日か?」
「長女の姉が旦那に迎えられたんだ。これはそのお下がりさ」
「神に対してお下がりたあ、順序が逆なんじゃねえの?」
「生憎うちで崇めてんのはあんたじゃないんでな。感謝なら熱田神宮の神様に言ってくれ」
「天津神様はみんなこぞってお忙しいこって。」
「婆さんにも見せてやりたかったよ」
「草葉の陰から見てるとも」
「神様からそう言われりゃ、安心だ。婆さんも文字通り足が地につかなかろうよ」
「上手いじゃねえか。お前、物書きの才能があるぜ」
「よせよせ、おだてたってこれ以上天麩羅は増えねえよ」
オレは嬉々として天麩羅を噛み締めた。カリカリの衣の天麩羅を望んだが、日が経ってしんなりとしていた。しかし滅多に食えないものなので、うめえ、うめえと涙を流した。
ともすれば数日後である。
いつしか舌は硬い餅の味を覚えてしまって、またずうっと少年が来るのを待った。少年が来ると喜んで飛びついた。正確には、供え物に飛びついた。珍しいことに柔らかい餅だった。
「どうした。」
珍しいことに少年は硬い表情だった。神妙な様子であった。
「なんでもねえよ」
「ほう、さては気になる女でもできたか」
「なっ!」
「なんだ、図星か」
思ったとおりではつまらなかった。オレは皿ごと餅をひったくるともちゃもちゃと噛めば噛むほど甘いそいつを噛み締めた。日の高いなか、木漏れ日の優しい光が点々と足元を照らすのを、どこかうっとおしく感じた。
「差詰め両思いになったが抱き方がわからねえで困ってるってとこだろう」
「てめえさん、心を読むたぁもしや神か」
「神だよ。まァた図星かよ。押し倒して穴に突っ込みゃ後は本能でどうにかなるさ。そうだ、何ならオレで練習すりゃあいい」
「・・・・ちぃっと揺らいだが、冗談は面だけにしてくれ」
「ハッ、意志の強え野郎だ。ンじゃあなにも心配いらねえよ」
餅を食い終わると、オレは皿を突き返した。また来ると言って、少年は帰っていった。この日くれた餅ほどには柔らかい表情をして帰っていった。
ゆるぎなく数十日後だった。年に数度の大雨だった。葉のたっぷりと生い茂る季節だったので、山の中は比較的雨宿りのしやすい環境にあった。
その日、少年は訪れた。ずぶ濡れで、風邪をひくに違いなかった。餅は持っては来なかった。
「なんだ、手ぶらの信者に用はねえぞ」
オレは鼻を鳴らして手の甲を揺らしてみせた。少年は言葉をつまらせながら、言いづらそうにして言った。
「俺、もうここには来れねえかも」
「そんなことか」
オレはやれやれと肩をすくめた。聞いてもないのに、少年は経緯を告げた。
「オレにはあんたみてえな霊が見える。霊力があると。だから、それを神官が買ってくれた。これからは離れた土地の神社で厄介になることになったんだ」
「よかったじゃねえか」
「あんたにもう餅を供えるこたあできねえが、あんたと話すのは楽しかった。それだけ伝えたかったんだ」
「そういうのはなにか供えて言いやがれ。気の利かねえ坊主がよ」
数日前からなにか悩んでいるようなのはわかっていた。もしかすればこいつのことだからオレと離れることを悩み惜しんでいるのではないかとは考えが及んでいた。
オレは祠の裏に足を向けると、腕を伸ばした。そこからあるものを握ると、少年に向かって放って寄越した。
「餞別だ。持ってけ。」
少年は宙でうまく掴むと、まじまじとそれを見つめた。
「これは・・・・・数珠?」
「
「・・・・・そうか。あんたは・・・・恩に着る」
「いい神に仕えろよ」
「なあ、もしも二度と会えなかったらどうする」
「知るか。オレにしてきた献身を他のやつにでも注いでやれ」
「・・・・ああ、そうする」
その会話を最後に、オレと少年は別れた。
「湿っぽい別れにならなくて助かったぜ。じゃあな・・・・・ええと」
少年はとっくに山を降りていた。別れの挨拶らしい言葉も交わさず、それはオレの独り言に成り果てていた。
「・・・・そういや名前を知らねえと不便だな。次からくる人間には聞いとくか」
それから供え物を運ぶ人間は一人も来なかった。少年と会うことも二度となかった。
数日、数ヶ月、数年、数十年が過ぎ、いつだかそんな少年が居たことも忘れていた。
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