第57話 生かすもの
言葉の意味はわからなかった。そもそも言葉かどうかも疑わしい。世界中のどこを探せばそんな言葉があるのか、少なくとも人間の界隈で流通しているとは思い難い。
そして俺と芙蓉以外誰も、シャチが喋ったという事実に気づいたものはいないようだった。表情筋をこわばらせているのは見回すまでもなく俺と芙蓉の二人のみで、どよめきがないことについてはもはや考えるまでもない。
シャチはそれだけで、また回遊へと戻っていった。なんと説明をつければ良いのか、ともかくシャチは確かにこう言った。「しぐりしょうじゅ」と。
「驚かねえのな。すげえわ」
「結構驚いてますけど」
得てして顔に出にくいだけで。
「・・・あいつ、霊だったのか」
俺が唖然とつぶやくと、芙蓉が隣で首を振った。
「いや、あいつは霊じゃない。ただの、なんでもない、普通のシャチだったよ」
芙蓉も、信じられないという様子だった。
「普通のシャチはあんなにはっきり喋らないだろ」
「けど霊力はないし、眷属ってわけでもなさそうだし」
実を言うと『シャチが喋る』なんて世迷い言じみた例が実在することを俺は知っていた。喋ると言っても発声機関が人間のそれとはまるで別物なので、あくまで音程がそれっぽく聞こえるだけであるが、学習能力の高いシャチには言葉を覚えて喋ろうと考えること自体は造作も無いことなのだ。
しかし、あれは間違いなく人の言葉だった。オウムや九官鳥に喋らせる以上に人の声で発せられた言葉だ。少なからず鳴き声とは一線を画す何かではあった。
「じゃあ、『しぐりしょうじゅ』ってなんだ?」
「私にはなんとも・・・・」
あのシャチと対面したときから、芙蓉は訝しんでいたのだろう。思えばイルカのショー、いやそれよりも前から芙蓉はこの水族館の生き物を別の角度から見ていたのかもしれない。
「気づいてたのか?」
「うん・・・水族館の入り口で、イルカが同じことを喋った。他の魚はなにも言わなかった。あ・・・勘違いしないでくれよ?私はここまでちゃんとアミューズメントとして楽しんでたからな」
そんなことで懐疑的になりはしない。すごく楽しそうにしてくれてたのを、俺はずっと見ていたつもりだ。
しかし、だから芙蓉は「お前は違うのか」とシャチに聞いたのか。結局同類であったようだが。
俺はシャチの尾を目で追いかける。衆目を意に介さず悠々としているのが、急に腹立たしく思えた。こちらに言うだけ言って話を聞かないとはマナーのなってない。なんて人間に対して言うような文句を腑中に抱えた。
「もう少し、なにか喋ってくれればいいのに」
回遊中のイルカとシャチが何度か目の前を通り抜ける。しかし再度止まることはなく、これ以上しゃべる気配も見られなかった。誰がどう見ても、ただの水棲哺乳類だ。
「・・・イルカもシャチも、俺に向かって言ったよな?」
「そう・・・だと思うけど」
しぐりしょうじゅ。誰かの言葉を真似ただけだろうか。トレーナーが教えたとかだろうか。いや、そのどちらでもない気がする。なにせ、水中なのに空気中で喋るのと同じくらいはっきりした声だったからだ。それに、俺と芙蓉以外には聞こえてないらしかったし。どれもこれも霊ならありえる特徴ばかりだ。
芙蓉はどうも不安げだった。今まで神だから霊だからと言って片付けられていたことが、今回は説明がつかないからだろうか。普段こそ笑い飛ばしてくれそうな芙蓉がこれでは、俺はどう佇まいを改めればいいやら。
ふむ、と一頻り考えた後、俺と芙蓉は顔を合わせる。もとより霊について知識の浅い俺はいくら引き出しを開けようが中からは白旗しか出てこない。所詮考えるふりをしていただけで身の入った意見などは出てこようはずもなかった。
芙蓉の手が、俺に向かって伸びてきた。柔らかい手のひらで、ぺたぺたと俺の頬や首に触れる。体調を心配した母親が子供にするような表情をしていた。じわりと汗がにじんだ。
「なんともない?」
「まぁ、今は」
色んな意味でなんともないことはない。心のわだかまりはちょっとずつ風船に空気を入れるように膨らむので、破裂したときが大変である。出かける前に芙蓉が言った思い出いっぱい持って帰るは俺にとっても願うところであり、あまり心配をかけるものでもない。
それにこういうのは考え始めるとドツボにはまる。例えば小説家がプロット段階で考えてなかった展開に慌てて設定を練り直すがごとく時間を要するのを、端くれなりに俺は直感していた。
そういうわけで、「何だったんだろうなぁ」と他人事のようにつぶやくことによりキニシナイ、サキオクリ、マルナゲの三点コンボでこの出来事を見なかったことにする必殺技を繰り出すことにした。
考えたって仕方のないことはある。それにこれに振り回されて初デートをおざなりにしてしまっては示しがつかないというのもあった。だから俺は芙蓉にも気にしないのが一番いいよと笑いかけたし、気分が沈みかけるのはお腹が空いているからだと言った。
ご飯にしようと言うと、芙蓉の顔はぱっと明るくなった。呆れるほどちょろい。けどそのちょろさに助けらることもあるのだった。
「飯か!お弁当!?昨日作ってたアレか!やったあ!はやく!は・や・く!た・べ・た・い~!」
今日に備えて作ったお弁当だ。気合を入れて昨日から仕込みしたり、普段作ったことのないものに挑戦してみたり。芙蓉が好きだと言っていたエビチリやチキンソテーとかもたくさん用意してみたり。
喜んでもらえるといいけれど。なんて芙蓉のことを考えるあまり内容が芙蓉の好みに偏ってしまったのは内緒だ。完成直後に全体像を見て我ながら引くほどの少女趣味に考えるのをやめた。遅咲きの恋に狂い咲きなのは誰もが通る道のはずと、己の隠れたる乙女心には見て見ぬふりだった。
「目指すは館内2階のフリースペースだ!」
待ち切れなさそうに芙蓉は駆け出した。人の多いところで先走られるとハラハラした。いつか前方不注意でコケたりぶつかったりありそうで、このときばかりは親心が浮き出ていた。
「もう、よもぎってば歩くのが遅えんだから・・・わっぷ!」
「あっ」という間もなく、芙蓉は他の客に衝突してしまった。ぶつかった反動で芙蓉は半歩のけぞる。
フラグ回収の早いこと早いこと。普段からあれほど注意しろと言っているのにこうなるのだから世話はない。しかし悠長にしている場合ではなく、芙蓉の不祥事は保護者の責任。ぶつかられた側の人は微動だにしていなかったが、慌てて俺は一応、怪我をしていないかと声をかけようとした。
「あっ、芙蓉!・・・すみません、大丈、夫でした・・・・か・・・・?」
声を・・・・かけはした。しかし、それ以上の会話は憚られた。
経験か、直感故か。芙蓉のぶつかった相手。それが俺には『人』ではないもののように見えたからだった。
一人、明らかに異質な存在があった。子連れの家族でもなく、デート中のカップルでもなく、ただの水族館好きな成人でもなく。
雨もふらず、場所にも似合わず、材質が何かも想像できない、すべての光を吸収するかのような真っ黒なレインコートをフードまで深くかぶって、二本足で佇む長身。そんな得体の知れない何かが衆善の中心にあり、あろうことか立ちはだかるのであった。
黒いレインコートの(恐らく)男はフードの下すら真っ暗な闇であった。目元が隠れているとか生易しい話ではない。比喩ではなく闇がある。強すぎる光から生まれた影のような、手を伸ばしたらその先だけ異空間にでもなっていそうな血の気のない穴があった。表情をうかがい知るどころか、その場所に人間の顔があるのかどうかすら疑わしい。
待ち伏せをしていたかのように立ちはだかるそれに、俺と芙蓉は有無を言わさず足止めを食らった。
黒いレインコートの男は、フードの下の漆黒から地鳴りのような低い声を発した。
「・・・・そうか。お主が。その阿頼耶識の内に匿っていたか。道理で残滓すら見当たらぬはずだ。従僕の言葉がなければ、吾でさえそれに気が付かなんだ」
独り言にしては威圧的だし、文句を垂れるにしては的外れだった。ところが顔のない顔の目のない目が見つめるのはやはりこちらであり、存在証明の困難そうな先取りファッションフィーヴァリストの存在は知覚に値しないのか一般人は阿吽の呼吸で暗黙の了解とばかりにシカトを決め込んでいる。
この男の正体ぐらいは不勉強な俺でも察しがついた。纏う風格がこれまで見てきたどんな霊よりもカッコづいている。どういう意図で個人観光などしているのかまでは察するべくもないが、この水族館でイルカショーのアクロバットに興じていたらしきは俺の勘が正しければ神である。
バランスを崩しそうだった芙蓉が背中から倒れるほどのけぞった。距離をとって俺の背後に隠れる。怯えているのか、顔を合わせられないのか。伏せてしまって黙っている。
「ふん、その様子ではその男にふっつと気を寄せているようだ。良い影響を与えてくれたようだな。感謝するぞ、菜丘蓬」
俺の名前を知っているということは、俺にも用があるのだろう。
ぽっと出の重要人物ってのは大抵の場合が物語の破壊者だ。特にライトノベルだと余計なことしかしてくれないので、端くれ小説家的にはこの相手が見てくれだけのハリボテ狂言者であることを願う。ヒッヒッヒといかにもな感じで笑う魔女っぽいババアは怪しいけどたいてい無害なのだ。
「た・・・た・・・・
芙蓉が俺の背後から狐耳だけを覗かせるように体を傾けて言った。
「二百余年だ。
「えっそ、それは・・・」
あ、この様子だと知らないっぽいな。俺がそう思うと同時に、目の前のタマ・・・ええと、タマ様は呆れたように吐き捨てた。
「成る程、どうやら吾の言いつけを守るでもなく怠惰に過ごしていたらしいな。こじらせていた人嫌いと神嫌いを克して漸く自覚を得たかと思ったが、その実人間に依存していただけであったか」
「あ・・・・う・・・」
芙蓉は言葉を失う。代わりに俺が言葉をかわした。
「・・・何の用です?芙蓉とは偶然の再会って感じでもないですけど。」
「うん・・・?ああ、フヨウ。そうか、フヨウか。ふん、
「・・・・え?」
その言葉の意味を、俺は考える。確かに、
「そ、そんなの、呼び方なんて何だっていいだろ!つうか、なんで今なんだ!
「ところがそうも行かぬ」
ゆらりと。タマ様あらため穏月様は俺に近寄る。目的の知れぬ、顔も見て知れぬ。謎そのものが俺の周りでとぐろを巻く。ぞわりとしたが悪寒が、冷たい汗となって背中を伝う。蛇に睨まれた蛙の気分だ。俺は穏月様が次に口を開くまで、指一本を動かすのも躊躇われた。
「汝らが互いをどう呼び合おうが興味はない。汝らがどのような関係を築こうとも容認しよう。
言うやいなや、コートの下から鋭利な爪が姿を現す。芙蓉がそれを認識し、止める間もなくそれは殺気に満ちた悍ましさを以て襲いかかった。
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