第56話 テレストリアル

「すげえ見ごたえだった。人ってイルカの上に立てるんだなぁ」




一幕が終わったあとである。席を立つ者が数十名、余韻に浸るものが大多数。モニターではまだイルカを追ってカメラが回っており、水中の主たちは休憩時間中というのに、まるでファンサービスでもするかのように時たま高く跳躍をしていた。




「俺はシャチがあんなに高く飛べるとは思わなかったよ」




図体のデカさの割に身軽なのだというのを知った。さすがは海のハンター。最強の狩人の名を席巻するだけのことはある。まぁ・・・・




「人に飼われちゃ、海の王者も型なしかぁ」




ショーステージにはイルカたちが軽く身を乗り出す程度が可能な陸がある。そこにはショーの最中こそ格好良かったのに、オフになった途端アザラシのようにだらりと寝そべるシャチの姿があった。




とは言え、シャチを取り扱う上で油断はならないわけだが。彼らは加減を少し間違えるだけで、人をいとも簡単に殺せてしまう。実際水族館におけるシャチによるトレーナーの死亡事故というのは実例が数件ある。腐っても鯛、飼われても鯱なのだ。ただ、シャチには悪気がなく、じゃれているだけという理解はされるべきである。トレーナーとシャチの間にはたしかに絆があるのだから。




「よもぎ、せっかくだからもう少し近くにシャチを見に行かないか?」




「うん、いいね」




シャチの水槽はここに来るまでになかったので、芙蓉の提案にはすぐに乗った。階段を降りていき、水槽の目の前にたどり着く。小さな子どもたちが背伸びしてガラスに張り付くのに交じるのは若干恥ずかしいが、俺だって見たいのだからしょうがない。時刻は日が最も高く登る時間帯。手を額にかざしながら、俺は日の下に出た。




なにを考えているのか知らないが、彼はあんぐりと口を開けていた。シャチの体格はイルカよりも一回り大きい。それに比例してか、歯も長くて大きい。ずらりと並ぶそれはサメをのこぎりと例えるならシャチのはチェーンソーのもののようで、あれに噛まれたらひとたまりもなさそうである。そして口の中はきれいなピンク色であった。




うーん、と芙蓉が低めに唸る。何かとても深いことを考える学者のような表情である。何について考えているのかと問うと真顔で言った。




「シャチのベロってちょっとえっちだね」




「何いってんのお前」




しかも子どもたちの中心で。




「なんかこう、肉厚で」




「変態」




「あうっ・・・そのセリフで満足かもぉ・・・」




この狐、教育的に悪い。周りの子がそういうの覚えちゃったらどうすんの。PTAから訴えられるの俺なんだぞ。




「あなたの家の子のせいでうちの子、性癖が歪んじゃたんです!」




とか責任が重すぎる。むしろ罪が深い。俺たち水族館でデート中だよね?なんでこいつは彼氏に直接アブノーマルな趣味を暴露するんだろう。せめてもう少しオブラートに包んで欲しいものだった。




「それにしても、すべすべな体表してるなあ」




「つるつるてかてかだよなぁ」




この水族館のリニューアル以前にはイルカやシャチのふれあいコーナーが設けられていたそうである。今となっては廃止されている。彼らにかかる負担軽減を思えば当然の帰結と言える処置だったとか。欲を言うとものすごく触ってみたかったが、こればかりはしょうがない。




「パンフレットに一応ちょびっとだけ書いてあるぜ。シャチのお肌は濡れたナスのような手触りです。だってさ」




「あー・・・・あーあーあー・・・なるほど、簡単に想像できる」




主婦的にはこれ以上ない例えである。よく見ると体型も少しナスっぽいか?そう思うと、あの逆パンダのような配色にさらなる愛嬌が付加されるように思えた。




シャチは大口を開けるのをやめると、思い出したように体を転回しまた水中へと潜っていった。それから内縁を回遊しはじめた。




「海で野生のを見たら圧巻だろうなぁ」




イルカは野生でも人懐こいそうである。シャチはどうだろう、そんな事を考えていると回遊をやめ、こちらに寄ってきた。周囲の子どもたちは大興奮してきゃあきゃあと騒ぎ出した。保護者の大人たちはおおーと間近で見るシャチの大きさに驚いているように思えた。




「お、寄ってきてくれた。俺ってひょっとして好かれてるのかな」




イルカのときもそうだったのを思い出して、俺は得意げになった。シャチの瞳は間違いなく俺を見つめている。遠くからだと殆ど見えないシャチの目は、近くで見ると思ってたより怖い。




「・・・・・」




芙蓉は眉をしかめていた。もしかしてヤキモチとか?と冗談めかして思ったが、その考えはすぐに捨てた。芙蓉の目はまるで覗き込むような、人間相手に真意を探るような目をしていたからだ。決して動物を観察するようなものではないと断言できた。




シャチは芙蓉を見なかったが推し量るような視線を受けていた。




どうしてシャチに対してそんな目を向けるのか、俺には全くわからない。




たった今の俺との問答が嘘のように、水槽の向こう側の相手を、警戒しているかのように見えたから。




「お前は違うのか?」




芙蓉は言った。「えっ」と返事をしそうになったが言葉は出なかった。芙蓉の問は俺に向けられてはいなかった。シャチはなおも俺を見つめる。ちょっと恐ろしいが優しい瞳だ。呆然と見ていると、シャチはまたあんぐりと口を開いた。






・・・・想像できないことというのは、この世にはいくらでもあった。




霊の存在なんてのは最たる例で、俺は後に何度も驚くべき体験をした。妖にも会ったし、霊に恋なんてこともした。なにがあろうとこれ以上驚くことなんてないだろう。そういう驕りを持つまで心臓には毛が生えたと思っていた。






しかしそれでも、




驚くべきことは起こるのだった。




大口を開けていたシャチの口が動く。捕食のためではなく、水をのむわけでもなく。動いた。




「・・・・・しぐりしょうじゅ」




「・・・・・・・・・・マジか」




喋った。




水中で、シャチが、喋った。




空気中で人間がしゃべるのと同じように、その声は振動を持って鼓膜を叩いた。そのように聞こえた。




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