第52話 フラップポケット
どうやらモノレールの乗車券がそのまま入館チケットになっているようで、降りてからその後はスムーズであった。
「広い!(天井が)高い!そんでやっぱり人が多い!!」
シャトルモノレールを降りるやいなや、芙蓉は感動を全身で体現した。わちゃわちゃと手を振ったり尻尾の先を天に向けて振ったり飛び跳ねたりと、細胞一つに至るまで脈動しているような忙しなさである。
家族連れの客が数多おり、小学生未満ほどの小さな子供が興奮に駆け回るのがしばしば目に映る。それに混じってそのまま走って一人で展示箇所すべてを駆け抜けてしまいそうな勢いだった。それ故にこの場所で、芙蓉のそのはしゃぎ方は人目を集めた。そのおかげで周囲から不審を買ったが水族館デートというだけでこれほど喜んでくれるとは彼氏冥利につきるものだった。
俺たちが降り立った先はイルカの巨大な水槽の目前だった。入館より真っ先にお目見えするのがイルカとは珍しいと目を輝かせつつも、俺は芙蓉の落ち着きのないのを諌めた。
「あまり尻尾を振ると、イルカより注目が集まるぞ」
芙蓉は周囲を見回すと、すっと尻尾を真下におろし少し顔を赤らめて言った。
「なんてこった。見物料で高級ホテルのディナーが食えちまいそうだ」
どことなくアメリカンな返しが来るあたり、芙蓉のテンションの高さが伺える。勇み足をこらえつつもゆっくり廻ろうかと、眼前にそびえる高さ10m、幅60mはあろうかという水槽へと歩を寄せた。
「・・・・・・でっか・・・」
「よもぎ。イルカがすげえ小さく見えるぜ」
口を開けば感想といえば「すげえ」だの「でかい」だの「うわーお」だの感嘆詞が漏れるばかりで、口を閉じるのを忘れてしまった。
芙蓉の言うイルカが小さく見えるというのは水槽とイルカの比較による比喩表現とかではなく、奥行きもおそらく30mほどあるだろうため遠近の関係で実際にそう見えるのだ。巨大水槽にはバンドウイルカが7頭ほどが内周を優雅に泳いでいるが、これほど水量があれば窮屈も不自由もすまい。実に快適そうだった。
「玄関からおもてなし精神が溢れすぎてるなあ」
「ほら、玄関が広いとお金が舞い込むって風水的にも言うし」
「しかもこの真上ってあれだろ。確かイルカショーの会場になってんだろ?ウリョシカが教えてくれたぜ」
「さすが芙蓉。リサーチに余念がないな」
俺は感動をダイレクトに味わいたいタチである。特段こだわりがあるほどでもないが、所謂ネタバレご法度勢というやつだ。ネットなりで事前に得られる情報はできるだけシャットアウトしていた。そのため芙蓉がパンフレットを握って直前にそういった情報をくれるのは望外だった。
分厚いアクリルガラスに沿って、イルカに視線を刺したまま順路通りに歩いていると、面白いことにイルカたちが歩く速度に合わせてついて泳いできた。俺がイルカに対して釘付けになっていたように、イルカもまるで俺を興味津々に眺めているようだった。
「お、ついてきてる」
「このイルカの目、よもぎに似てるな!」
「ええ~。そうかぁ?」
「おっとりしてる感じがソックリだぜ。」
「前に死んだ魚の眼とか言ってなかった?」
「言ってない言ってない。そりゃ甘夏だろ」
「そうだっけ。そうだったかも」
そんな他愛のない会話が繰り広げられる。ちなみに甘夏にもそんな悪態をつかれたことはない。全く虚偽の捏造であり濡れ衣である。
こんな何気ない会話が嬉しかった。以前は他人を避けていた俺だが、心のうちでは憧れていた。俺が一番求めていたのは、ただ平和なまま一生を終えることだったから、今この瞬間は夢のようなひとときだった。
俺は今、憧れだった平和を噛み締めている。寧日ねいじつを生きている。その実感が色濃く胸の内を染めていた。
まだデートは始まったばかりだから、こんなふうに感傷に浸るのは早いけれど。
しかし、平和について物思いに耽ると、ふとイルカの視線が気になった。今どき動物愛護団体なんかが声を大きくしている世の中であるが、思えば彼らに平和はあるのだろうか。もとは動物である芙蓉は、展示物として泳がされるイルカを見て複雑な感情を抱かないものか。やはりデリケートな話題にはなるが、芙蓉の価値観を聞いてみたかった。
「うーん・・・・もしもここが動物園で、檻の向こうの狐を見たところで、私はどうもしないと思うぜ。いや、隣の芝は青いって感じじゃねえかな」
芙蓉はこんな話題を前にしても、ドライであることに変わりはなかった。
「要は見世物として生まれてきたことをかわいそうに思うかって聞きたいんだろ?人間の金儲けの道具だって嘆くのかって。
そう思うのは人間だけだ。檻の中の動物にしちゃ広い外は羨ましいだろうし、檻の外からすりゃ中は安全そうで羨ましいさ。毎日飯も食えるし、野生よか寿命も長い。私はどっちもどっちだって思うね。
結局は見世物にするも、可哀想だって反対運動するも個人の都合さ。本質的には人間の自分勝手なのはどっちも同じ。
だからやるからには命賭けろって感じかな。檻の中のやつにとっては管理する人間が世界のすべてだ。だから人間は管理する責任に命をかければいい。その檻の中に命を預かってんだから。檻の中で命が生まれてから死ぬまですべてを看取ってやれ。
それに反対なら人間の住む場所をはっきりさせてくれればいい。下手に環境保全だなんだと言われるよりは野生に手を出さない。住処を侵さない。侵させない。それだけで野生動物は『平和に生と死と隣合わせ』だ。人間の言う本来の姿ってやつさ。それを守りたいっていうんなら命がけで、野生に手を出そうとする人間を止めてくれ。そうやって互いの正義を対立し合う間は、『いいのさ』。それで。人間が悩んでる間は、獣の命は尊重されてるんだから」
力説だった。中立か、と思いきや芙蓉は両方肯定しているようにも両方否定しているようにも思える。
「そりゃそうだ。選り好みして可愛い動物だけ集めるのも、可愛そうだから野生に返せと騒ぎ立てるのも、どっちもえこひいきだ。例えばドブネズミはどうだ?誰が動物園で管理したがる?野生のドブネズミが家庭のゴミ袋を漁るなら駆除するだろ?どっちも住処を奪った責任を棚に上げてさ。けど動物のことを思っても地球上すべての動物をまとめて絶滅危惧種と同じ待遇なんてできないだろって話さ。神様だってお手上げの状態なのさ。良かったな、私達が良心的で。そうでなけりゃ全人類まとめて滅ぼしてたぜ」
さらりと物騒なことを言う。しかし、なんだか俺は芙蓉の言うこともわかるような気がして、神様が人間を見限ったときのことを想像した。
「・・・・まぁ、芙蓉に滅ぼされるなら悪くないかな」
言って、満更でもない気持ちになる。きっとアホらしいことなのだけど、芙蓉になら・・・なんて。俺の一存で全人類滅んじゃったら大ヒンシュクを買ってしまうが。晴れて世界中の人間が敵である。
芙蓉は俺のつぶやきにものすごく困った顔をした。
「は、はぁ?冗談に決まってんだろ。私達は人間を殺せない」
「わかってまーす」
「なっ・・・お前いつからそんなにいたずらっぽく笑うように・・・・」
芙蓉は更に困ったような、しかしどこか口の端を緩めて言った。俺はそんな表情をしていたろうか。もしそのようにできていたのなら、それは芙蓉のおかげだ。
芙蓉はぷくっと頬を膨らますと、俺の手をとってずんずんと前を歩き始めた。飼い主に縄を引かれる犬のように俺はついていく。イルカの水槽を超えるのにはそれでも歩数を要した。
歩きながら芙蓉は言った。
「私だってわかってるさ。水族館だって生き物を苦しめたくて飼育してるわけじゃないってことも、結果的に苦しめてるかもしれない現状に心を痛めてる人がいるのもま、とにかくこういう施設に複雑な感情を抱いていないことはわかったろ。だから気を使うことはないぜ。私は今の世の中を楽しむことしか考えてないからな」
なんと、芙蓉は俺の唯一の心配事に気づいていたらしい。
俺は驚きとともに心の中でほくそ笑む。
その間も、ずっとイルカは俺たちの様子を見つめ続けていた。
ー*ー*ー*ー
芙蓉が不意に足を止め、ばっと背後を振り返る。
その視線は俺には向けられていない。ずっと寄り添うようについてきていた、イルカに注がれている。不自然な挙動や、意味深な表情に俺は混乱する。
「・・・・?どうかしたのか、芙蓉」
「・・・い、いや、今、イルカが・・・・・・」
言われて、後ろを振り返る。確かにずっとついてきてることは不思議だが、それ以外はどこもおかしくはない。何の変哲もないイルカがそこにいる。
「気の・・・所為か・・・?」
訝しげにイルカを眺めると、すぐに芙蓉は行こうと再び俺の手を引いた。
「・・・・・・・し・・・ぐり・・・・しょうじゅ・・・?」
ボソリとつぶやく芙蓉の言葉に俺は首をかしげるのみだった。
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