第42話 いつか苦楽をともにして

「しかしなんだ。いざ一緒に入るとなると、ドキドキしてくるね。」


 曇りガラス越しに脱衣所の芙蓉はそんなことを言う。ドキドキしているのは俺だって同じなわけで、言い出しっぺがそんなこと言わないでほしいものである。


 俺は男で、芙蓉は女だ。異性との裸の付き合いっていえばあれこれ想像してしまうもので、余計に緊張するしいらんところまで固くなりそうになる。


 こういう時だけ自分の体が女だったらなあなんて、都合の良い妄想をする。


 俺は浴槽の端で伸ばしていた足を膝を曲げて抱え、水面に顎をつけた。


 別に狭い風呂ではないし、最近の一般家庭のものと比べても十分広い方だと思う。俺が十分に足を伸ばせるのだ。だが流石に二人が入れるほどスペースに余裕があるわけではない。だから、隅に座るのは予め芙蓉が入るスペースを開けておくためだ。決して縮こまってるわけじゃない。


 一方、芙蓉は鼻歌なんか歌いながら衣服を脱ぐ。


 曇りガラスの向こうのシルエットは、海底で潮に揺られるわかめのようにくねくねしていて思わず眉根を寄せるが、恐らくひとりストリップショーでも嗜んでいるのだろう。


「なぁ、それ一人のときもそんな風にして脱いでんの?」


「してるわけねえだろ馬鹿じゃねえの?」


 なお、指摘した場合理不尽な怒りを買う模様。


 そのやりとりのすぐ後に、入るよと言って芙蓉は浴室に進入してきた。ドキドキしてくる、なんて口にしていた割に躊躇無く戸は開かれる。彼女に対して恥じらいの心なんて微塵も期待してはいなかったが、おかげで芙蓉の一糸まとわぬ姿を何のフィルターも無しに正面から見てしまった。何しろ仁王立ちである。


 サンドロ・ボッティチェリが現代に居たならば見せてやりたい。これがヴィーナスの誕生であると。


 俺は口まで湯船に沈めて、ブクブクとあぶくを吐いた。


 そしてやはりというか、わかってはいたけれど二人で入る浴槽というのは窮屈だった。


「はぁ~、やっぱお風呂は気持ちいいね~・・・。流石に二人も入るとちょっと狭いけど。」


 背中の方で、肺の空気が全て吐き出されるほどのため息が漏れる。


 つん、と俺のお尻のあたりに足の爪先が触れる感触。たった一瞬の接触にも、妙な緊張感が走る。


「なんでこっち向かないの」


「それは、だって。・・・お前、目のやり場に困るんだよ」


「それはお互い様だろ。・・・・私も蓬のその傷、ちょっと直視しづらいもん・・・」


 弱々しく芙蓉は言った。


 俺の体表には牛鬼蛇神が住み着いている。そんなことは確認しなくても芙蓉は知っている。この場にあれば嫌でも目にすることなど、百も千も承知の上だろう。三日三晩で忘れられるような生易しい衝撃ではなかったのだから。


「・・・ごめんな。ホントはもっと褒めたかったんだ。女みたいだけど肩幅広くて体はちゃんと男っぽいなとか、最低限だけど筋肉あるなとか思うところはあったんだ。けど、その傷を無視して言えないや。」


 正直な女だと俺は思った。実際は頭に浮かんだことがそのまま口に出ているだけなのだろうが、芙蓉はいつもそれだけはブレない。


 しかしきっと、だからこそ好ましく思うのだろう。今ではそれに羨望を示すこともあるし、尊いことであるとも理解している。ただ、臆面もなく言われると足の裏がむず痒くなるので、極力胸のうちに留めるくらいにしてほしいものだ。


 そうしてまごついていると、背中を頭板状筋から広背筋にかけて何かが這う感触に意表を突かれ、思わず声を裏返した。


「ぅヒあっ!?」


「ここぞとばかりにあざとく鳴きますね、蓬さん」


 どうやら芙蓉が指で、背中の傷のひとつをなぞったらしい。傷跡は完治しているものの、皮膚が削れて薄くなっているために神経が露出しているのか触覚に妙に敏感である。


 あざといとの見解を受けたが専ら自然の反応であり断じて平常だ。未曾有の体験に背筋を震わせながら、首だけ芙蓉にの方へよこして恨めしげに文句をたれた。


「夜討ち朝駆けとは何たる卑劣・・・・」


「ただの背文字に大げさな。それともずうっとそうやって壁に話しかけ続けるつもりか?私がいるのに。」


 本当に今日の芙蓉はあらゆる意味で容赦がない。いや、隙がないと言うべきか。ぐうの音も出ない正論に言葉をつまらせる他ない。


 しからば目をつぶっていようかとも思ったが、この期に及んでそう情けないと芙蓉に本当に甚だしく思われてしまうだろう。俺は居直りを決めてその場でよいしょと方向転換しまっすぐ芙蓉と相まみえると、かえって呆れた声で言われてしまった。


かてえ、固えよ表情が。面接じゃねえんだぞ。」


「油断したらのぼせそうなんだよ。」


「直前に襲うのなんだの言ってた野郎のセリフかよ。いっそう不甲斐ないなぁ。まぁ、そのツラのお陰で女々しさも似合ったもんだ」


 けらけらと肩を揺らす芙蓉に、俺は口をヘの字にして肩をすくめた。それが関の山なのだ。もどかしいもので手を伸ばせば容易く触れられるというのに、心が歯止めを掛けている。下心があり、後ろめたさがあるためだろう。芙蓉を好いているくせに、いや、好いているからこそ意識して意識せぬようにしているのだから、女々しいと言われるのも道理であるのだ。非常に安直なジレンマ、矛盾である。というのも、『前科あってのこと』なのだが遅れてやってきた思春期ということにしておこうと思う。


 俺は時々生唾を飲みながら芙蓉と正対し、妙に対抗心を燃やして対峙した。


「お前はもう少し恥を知れ。男勝りも度を過ぎれば下品でしかねえんだぞ。俺は男で、お前は女だ。自覚あんのか」


「知るかよ。私は私のあり方があるんだ。誰かに指図されるなんてまっぴらゴメンだね。下品で大いに結構。べっつにぃ?人間となんて蓬以外と?仲良くするつもりなんてそうそうねーし?」


「キンギョが泣くぞ」


「ナシ。今のナーシ!何事も例外はつきものってやつだ。」


「・・・・・あっさり手のひら返しやがって・・・なんだよあり方って、ブレブレじゃねえか。」


「まあそう言うな。気まぐれなんて神様の専売特許さ」


「結構なウリ文句で。そうでなきゃ人間だってご機嫌取りのために舞ったりしないだろうさ」


 せいぜい崇めろよ、なんて芙蓉は目尻に雫をこさえて腹を抱えた。ひとしきり笑ってから芙蓉はまるで煙草で一服した面で、またあらぬ方向から話をしだした。


「蓬、小説家目指してるんだっけ?」


「ああ、それが何か?」


「いくつか読んだ。いや、全部ウリョシカに朗読させた。」


「生き地獄だな、ここは。さしずめ釜茹で地獄のような。」


「さすが、たとえが上手いな物書きは。自慢していいぞ」


「この程度でいきり立ってたら今頃出版社には出禁食らってるよ。で、ご感想のほどは?」


「ああ、それなんだけど。まぁ何だ。変に文学臭くて所々にポエムが出るわ、濡れ場はねえわで正直退屈だった。読んだ時間返せ。」


「ふうん、そこまでわかってて1つでも読み切ったのか。よくやるな」


「んでだ、作品全部に共通点があるって気付いた。」


「お、なんか探偵っぽい。」


「言葉ん中で登場人物誰彼問わず、死に場所探ししてるみてえだった。ビデオの巻き戻しみたいに後ろに向かって走ってんだ。たまに前向きなやつ見つけたと思ったらとっくに来世に期待してるんだ。つまるところ死生観だ。ウリョシカから聞いたよ。小説が表す倫理観は、『しばしば書き手の鏡でもある』って・・・・。」


 芙蓉が言うかどうか迷うようにまごつく。この様子では、きっと気づかれてるだろうなと、俺は直感した。


「どうせ、裸の付き合いだ。腹は割ってるだろ?なら包み隠さず話してほしいんだ。」


 芙蓉は次第に苦すぎるコーヒーを口にしたように顔を歪めていき、鼻を垂らす寸前で拳を握っていた。自らの膝を打って、少しずつ言葉を紡いだ。その瞳は嘘を望んで潤んでいた。


「・・・・お前、ひょっとして永くねえのか・・・?」


 できれば、芙蓉から問われたくないことであった。しかしその瞳から逃げることだけは、許されない。


「・・・・・まぁ、ひとまず大人にはなれるっぽいよ。」


 こういうのは、良い知らせから語るに限る。


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