第20話 裏
深夜。静寂に沈む海藍町は、それこそまるで深海のようである。街からは明かりが激減し、足音もほどほどしか残っていない。
「二百余年だ」
低い、男の声が地鳴りのごとく響いた。そこにいたのは、初夏であるにもかかわらず漆黒のロングコートをフードまで深く被った、いかにも怪しげな風貌をした人影だった。それが、コンクリートのビルに背を預けるようにして腕を組んでもたれかかって立っている。
「ああ、気づいていると思うが、
次に聞こえたのは別の声だった。その声は遠く---どこかとても遠く。ガラスの壁を隔てた、別の世界から聞こえるかのような、そんな音だった。まるで空そのものが語りかけてくるような、高く、遠くから降り注ぐような声だった。
地鳴りの声は言った。
「流石に放り出すことはなかったようだな。賢明である」
空の声はそれに返した。
「
「なかなかどうして、お主は人間的思考に左右されるらしいな。精通しているというべきか。なあ、
「ここから飽きるほど人を眺めてみるといい。いかに君でも解するのにそう時間はかかるまい?
「お主の言い分もわかるが、あれも今や立派な神だ。腹は括ってもらわねばならぬ」
「わかってるとも。そのための二百余年だ」
穏月と呼ばれた地鳴りの声の男は空を見上げ、ふうと息を吐いた。フードの奥は夜の空と同じく闇で、その素顔は見えない。口元すら隙間から覗きもしない。
「・・・この街は星の一つも見えぬ」
「珍しく感傷的だね。そんなにあの子が心配かい?」
「・・・・・多少はな」
穏月は多くを語らない。いかにも堅物のような物言いをするが、決して頭が硬いわけではない。彼は彼なりに先を見据えたうえで、今後どうあるべきかを熟慮するのだ。多少の時間をかけても、利害損得なしに最善の結果を求める、彼なりの配慮の所以である。
「
空の声の主と思しき奈渡がそう言うと、穏月は肩の力が抜けたように、声を少しだけ和らげた。
「そうか。未だあれが
「自ずから岩戸を開いたんだ。君のそれは杞憂ということさ。よかったね。」
「ああ。ところで今は?」
「なに、君は何も知らないのか。今は
心外だ、と言わんばかりに奈渡は言う。それを聞いて穏月は鳩が豆鉄砲を食ったように固まり閉口した。
「扇というと、『ヨロト』の神領か。あの場に浮世之式神を預かるものが居るというのか」
奈渡は呆れたような声で問うた。
「・・・・君、ホントに香嵐の治神かい?」
「
ぶつぶつと呟きながら穏月は物を考える。こういう時は穏月が本気で動揺している証拠である。大したことではないのに慌てている穏月に奈渡はほくそ笑む。
「気になるならば自分の目で確かめてみるといい」
それじゃあ、おいは寝るよという言葉を置いて、声とともに奈渡の気配は消え去った。
さぁっと熱くも冷たくもない風が吹き抜けた空間には、穏月の姿しか残らない。勝手な奴めと独りごちると、穏月も同じように風に紛れて姿を消した。
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