俄雨

第5話 朝、露、水の音

「おはよう」


この言葉を家で言うのは、何年ぶりになるだろう。


普通の人が聞いたらきっと驚くだろう。


だって、「おはよう」って当たり前の挨拶だから。


朝起きて、おはようって言う。


おはようが、自分に返ってくる。


それが当たり前であって、かけがえの無いものだ。


でも、俺にはその当たり前がなかった。


おはようは、自分に返ってこなかったのだから。


いつも、おはようと言ってくれた人は、俺の前からいなくなるから。




      *          *          *




「芙蓉。朝だぞ」


朝だ。朝が来た。それはもう清々しい快晴の朝が。


陽光は暖かくも柔らかく包み込むように部屋に差し込む。


小鳥がさえずる音は耳に心地よく、朝らしい、少し湿気を含んだ緑の匂いが肺をいっぱいに満たしてくれる。



ああ、清々しい。本当に清々しい朝だってのになんで俺はこんなにいらいらしてるんだろう。

場所は我が家の一階茶の間の中心、さらに細かに言えば狐娘の眠る枕の西側に10cm。いい加減起きくだされ駄狐さんや。呼んだぞ、お前。何回名前呼んだと思ってる。10回以上呼んでるし、揺さぶっても反応なしと来たらこれ以上は何をすればいいのか。せっかく朝飯作ったのに冷めるだろ。


「おーい、起きろー。朝だぞー。」


「・・・・・・・うにゅ・・・・・」


「媚びた寝言出すな」


がくっ・・・・と俺はとうとう脱力する。なんだか、無理やり起こそうとしてるこっちがアホくさくなってきた。

はぁ、と短くため息をついて、その場にしゃがみ込む。会った時から思ってたことだけど、どんな時でも自由マイペースなやつだ。


しかし、俺としてはそれでは困るのだ。とりあえずこいつの着ている寝間着を洗濯したいし、布団も干したい。なんとしても起きてもらわねばならなかった。

どうしたものかと、芙蓉の寝顔を眺める。もう一度揺さぶってみるが、やっぱり起きなかった。


あどけない寝顔は、崩れぬままだ。起きている時の強気な表情は、そこには微塵もない。


「・・・・・・黙ってれば、可愛げの一つもあるのになぁ」


気づけば、そんなことをつい口にしていた。どうせ聞こえてないのだろうけど後からセクシャルハラスメントの可能性に気づき、起訴を危惧して一応言い訳だけ予めこしらえておく。

なんて気楽に構えていたのだが




ぴくっ




「・・・・・・・ん?」


不意に芙蓉が若干動いたような気配がしたので、視線をそちらに戻す。


ぴくっ ぴくぴく


見れば、狐耳がなんとなく動いているようにみえる。


「・・・・・・・・・芙蓉?」


ぴくんっ


「・・・・・・・もしかして、起きてる?」


びく!


気のせいか、表情にも若干陰りがあるように見える。




まさか・・・・・こ、こいつという奴は。


引きつった表情で、俺はそいつの名前を読んだ


「ふ・・・・・・・ふーーーーーよーーーーーーうーーーー?」


こらえきれず、俺は芙蓉の狐耳をぎゅっと摘んだ。


「ひゃうっ!!?」


ぐっすり寝ているかと思われた芙蓉は、俺が耳を摘むと同時に妙に艶っぽい声を上げて両目を見開いて飛び起きた。


「お前、狐のくせに狸寝入りかよ」


耳を掴まれたことがそんなに驚いたのか、芙蓉は布団を跳ね飛ばし即座に俺から数歩離れる。自分で耳を守るように頭を抱えると、口元をわなわなさせながら俺を見る。


「や、だ、だって、お、お布団、気持ちよくて、こんなの、だって、っていうか、お前、私のみ、耳・・・・!」


よほどビビったらしい。芙蓉のろれつは回ってなくて、思考もまとまってないらしい。狐って耳を触られるのがそんなに嫌なのだろうか。


「まぁ、布団が気持ちいいのは同感だけど、朝だから起きろな?」


「あ、朝ってお前」


芙蓉は枕元の時計を見やり、それから言った。


「まだ6時じゃねーか!」


「それがどうかしたか?」


「どうかしたかって、全然早いと思うんだけど。」


「俺はもう1時間早くに起きてる」


「早寝早起きだと!?超健康的な生活しやがって気色ワル!」


「したらダメなのかよ。なんでもいいけど、朝飯出来てるから着替えたら台所に来いよ。」


「飯!?あざーす!」


思ってた以上にゲンキンだった。



ところで、『可愛げがある』とか言ったの、聞かれていたりするだろうか。冗談めかしていった言葉だが、どうにも恥ずかしいセリフをこぼしてしまったものだと、顔を赤くせずにはいられなかった。


ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー


「ごちそーさま!」


芙蓉は朝食を平らげてご満悦の様子だった。今朝のメニューも白飯と味噌汁だけという、芙蓉からしてみれば二食連続で同じ献立だが、彼女はそれでも文句を言わずに食べてくれた。


・・・・それにしても、芙蓉の食いっぷりは見ていて感嘆さえする。白飯のなくなる速度の早いこと。ちゃんとかんで食べてるかどうか逆に不安になるくらいだった。


勿論、昨夜ほど食わせてはいない。あのペースで毎度飯を消費されては、こっちの家計もたまったものではないからだ。・・・と言いたいところだが、そもそも芙蓉が今朝はそれほど食べようとはしなかった。



どうやら昨夜に限って極端にお腹が空いていたらしい。聞けば、数日間まともに食事を取れなかったとか。それで、アレほど暴食の極みに至ったというわけだ。おかげで今日の芙蓉は消極的で、茶碗2杯しか白飯を食していない。そのことを聞いた直後に、


「私食いしん坊キャラ違ぇし!勘違いすんな!」


と釘を差されてしまったわけだが。


さて、食事を終えて一息入れる俺と芙蓉。今日は日曜日で、特に用事もない。

俺はコーヒーで一服しつつ、朝刊を広げて時間をつぶす。俺の真正面に座る芙蓉は、コーヒー牛乳を飲んでまったりしている。ブラックは無理らしい。だがコーヒー牛乳は至高であるとのこと。なのにコーヒー牛乳にするためのコーヒー豆にはうるさいというなんともコメントしがたいこだわりがあるようだ。


時刻は7時半。俺の日曜日は毎週、こんな様子でのんびり過ごされる。一週間の疲れとかを忘れるように、特に何も考えず、時間を無為に過ごすのだ。俺にとって、それが一番至福であって、幸福だった。


対する芙蓉はマグカップを口につけつつも、どことなく落ち着かない様子だった。キョロキョロと台所を見回したり、廊下の奥に目をやったりしている。


「・・・・・どうかしたか?」


なんとなく気になって、俺は芙蓉に話しかける。


「・・・・・・いや、なんて言うか、どこ見てもボロいなと思ってさ。」


芙蓉さん、それはストレートすぎやしませんかね。俺だってボロいのは認めてるけど、そこまで直球で物を告げられると、家の所有者としてはものすごくフクザツな気分になる。

ちょっぴりショックを受ける俺。その心中を悟ったか否か、


「いや、別に悪く言ってるわけじゃねーんだ。味があっていいんじゃねぇの?」


芙蓉はそう言った。


表情を見るからに、どうやら本心であるらしかった。一切の悪気なしといった顔に、一体何を疑おうか。

・・・けど、そうまっすぐ言われると、どこか気恥ずかしいというか、むず痒くなる。

俺というやつはこんなに照れ屋だったろうか。否、単純なだけかもしれない。

どちらであっても嫌だけど。


織上芙蓉のストレートな物言いには、ただ「そうか」と、特に捻りもない返事しかできない。


芙蓉は続けて言った。


「それにしても、この家広いな」


その声はどこか楽しげだった。


芙蓉は生まれてこのかた野宿生活続きであったという。屋根の下自体彼女には珍しくて、例えば俺の家みたいに広めの家には案外驚きは大きいのかも知れない。ちなみに、芙蓉は狐神らしいので、俺は芙蓉が野宿生活を続けていた理由に特に興味を持たなかった。狐神なのだからそういうこともあるだろう、くらいの気持ちでいた。

だが、逆に芙蓉は俺の生活には不思議と興味津々のようだった。


「なんでこんなに広いんだ?」


なんでと言われても困る質問だが、俺は少し考えて


「さあな。ウチが神社だからだと思うけど、詳しいことはご先祖様にでも聞いてくれ」


そう答えることにした。投げやり感が否めないがそれ以上の回答を持ち合わせていない。


「へぇ、神社なのか!何を祀ってるんだ?」


どうやら興味は絶えないらしい。芙蓉は至って楽しそうである。

神社というからにはなにか祀ってるんだろう?と、芙蓉は加えて問う。

狐神ってことは、こんな姿をしててもこいつは神様ってことなんだよな。狐神として、神社に祀られてるものは気になるものなんだろう。俺はそんなふうに解釈した。


「水神(みずがみ)様だよ」


俺は単刀直入にそう答えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます