僕たちは透明だから

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

 授業中に彼女は黒板の前で担任の前髪に息を吹きかけた。前髪がふわりと浮き上がり、広い額が教室の生徒へ露わになる。


 生徒たちは気付いたものから口を抑えて肩を小刻みに揺らしたり、携帯のカメラを筆箱の横だけ出して撮影するもの、あえて笑って注目しようとした人がいた。


 等の先生は禿げた前髪を意地になって直さないままで、黒板に偉人の名前と年号を書いている。きっと、今日の授業で一番集中力が切れた日になった。


 この教室で俺だけが事情を理解しているから笑うでもなく、悪戯をどう辞めさせようか考える。


【そんなことやってはいけない】

 俺は彼女と目が合ったら首を横に振った。


 明日香さんは息を吹きかけなくなった代わりに頬を膨らませて壇上から降りる。じっと俺のことを睨んだまま風を肩で突き抜けた。彼女には悪いけど、俺は面白くないことを面白くないと嘘つきたくない。


 西城明日香は俺と違ってクラスの中心人物だ。友達を連れて登下校、教室を移動している姿をよく見かける。彼女の周りは笑顔が絶えないし、先生でさえ明日香には態度が緩い。しかし、彼女には誰も信じてくれない秘密がある。それは彼女は透明人間になれることだ。また、その超能力を見破れるのはクラスで浮いている南波ミツル、つまり俺だけだ。


 キッカケはGW開けの五月だ。クラスで浮いている俺は誰にも属することなく授業を受けていた。最初は見間違いかと目をこすったが、違う。輪郭が曖昧な彼女が授業中にうろついていた。普段なら明日香だと注目されたい人たちは静かで不気味だ。透明な彼女は廊下をすり抜けて駆けだしたり、クラスメイトに悪戯を働く。それを呆然と見ていたら目があった。互いに仰天して、このことは秘密にする。



 やがてチャイムが鳴り、クラスメートが立ち上がって挨拶を待っている。彼女は既に透明人間を止めていた。次は昼休みでクラスで自身がどの立ち位置が思い知らされる1時間だ。

 授業が終わったら気付かされる。俺は|明じゃなくても透明だ。


「どうしようかな」


 俺にも邪魔なプライドを保持している。独り言は何もしゃべらないやつだと言わせないための無駄な抵抗で、教室から出て飯を食べるのは味を落としたくないからだ。そうして、俺は俺を納得させながら生きないと学校に通えない。他の学校で俺と同じような人間がいると信じながら俯いた。


 靴を履き替えて中庭に出て行く。教室の窓から隠れて、校舎の裏に進んだ。自分の居場所に到着して腰を下ろす。手にかけたレジ袋を開いた。潰れた焼きそばパンから抜き出して開封する。パンの先端を囓り手前に持ってくる。袋越しにパンを摘まむ。


「それ潰れてるじゃん」

「鞄に入れてたから」

「ここ寒くない?」


 俺は飛び上がった。明日香が隣にいる。


「もう、心臓に悪いって!」

「場所変えようよ。ここ寒い」


 身体は透けており、輪郭が捉えにくい。凝視したら彼女の目線が追えた。


「何でこっち来たの」


 彼女が俺の顔をしげしげと眺める。今になって気付くが、他の女子よりマツゲが長かった。


「いやね、何で私の姿が見えるんだろうねって」

「いまさら言及しなくていいでしょ。俺、約束守ってるし」


 明日香と俺は誰にも言い触らさない条約を結んでいる。もし、俺が暴露したら学校に行けなくなるほど虐めると脅された。


「今日は調子乗るなって釘を刺しに来た」


 彼女にとって透明人間の悪戯は必要らしく、さまざまなストレス発散らしい。


「君は分からないでしょ? みんなと居るという重要性が」

「はいはい。聞きますよ」

「うざい」


 透明な拳が俺の身体をすり抜け、コンクリートに接触する。


「みんな、私が仕切ることを強いるんだよ」

「ごめん、わからない」

「集団ってのは、自分が気に入らないことを集団で気に入らないことにするの。そうした方が安心するからね。それで、私は広告塔のように立たされるの」


 明日香があの先生を気に入らないといったから授業は聞かないようにしよう。明日香が言ったんだから教室はその正しさに習わないといけない。本当はその意見すべて他人が言わせているのに。


「そんな面倒くさいこと無視すれば」

「そしたら、みんなの望む明日香じゃなくなる。私は明日香にならないといけないんだ。だって皆は、お笑い役や天然役を全うしているんだから」


 俺にはとうてい理解できない配役制度だ。何かになろうとすることは理解できる。俺も透明じゃなくてクラスメイトと話せるようになりたい。


「君は頑張ってます」

「おらーっ! もっと褒めろ童貞!」


 俺は焼きそばパンを口に入れた。

 じわじわと後悔がわき上がってくる。女性と話したら緊張して偉そうな態度をとってしまう。上から目線だと会話が続かなくなるというのに。

 これは今までもそうだった。会話でも言葉が続かないと、焦れば焦るほど孤立していく。そして、いつも独りで過ごさないといけなくなる。

 俺はどうして他の人のように当然が出来ない。


「あ、ごめん。無視するつもりなくて……」


 明日香は姿を消していた。


 ▼

 教室に帰ってくると食べ終えた生徒たちで賑わっていた。ある人は騒がしく談笑していて、俺の席は他クラスの人で占領されている。


「あっ、南波くん席を借りてるから」


 相手はその場から動こうとしない。なんて言えば良いか分からないで、机の近くで立ち尽くしていた。


「あ、ねえねえ。南波」


 呼ばれて振り返ると男子が声かけてきた。クラスではお調子者で、一発ギャグをいつも振る舞っている。


「このギャグみて」


 男子は床に寝転がって下半身を浮かせた。そうして残酷なことを言い放つ。


「18禁で転んだお前」


 周囲の人々は爆笑した。不協和音のような豪雨が教室に伝染していく。皆が笑い出した。


「あ、あれは君が行かせたじゃん」


 男子は俺の失敗を掘り返した。

 俺の家は兄貴がいて、彼はエロ本を購入して帰ってくる。兄貴のいない間に、俺はエロ本を読むことがストレス発散だった。エロ本が俺の癒やしで、誰にもいえない趣味だ。すると突然、兄貴はエロ本を捨てだした。母親が不健全だと捨てさせたらしい。


 そこで、我慢できなくなった俺はエロ本を探す。そこを男子に目撃され撮影された。男子は面白がって18禁コーナーに歩かせた。集団のノリが恥をかかせる行為に傾いて、俺の意見は押し潰された。


「は?」

「あ、え、えっと」

「急に何言い出すんだ。なあ?」


 クラスの目線は明日香に注がれる。砕かれた自信を引きずって、俺も同じようにした。

 明日香の訳は、皆が言えないことをいう。そのためだけの役者だと教えてくれた。


「当たり前じゃん。つうか、エロいの買う時点で気持ち悪い」


 彼女は自分の演技を遂行した。


「明日香よくいった!」「ていうかさー、よく学校これるよね。恥ずかしくないの」「ときどき、私たちを変な目で見てるよね」「キモイ。キモイ!」「てか、昨日のテレビみた?」「みたみた」


 クラスは大盛り上がりで、そして冷める。俺をいじることに飽きたらしい。


 彼らにとってこれは遊びだった。誰かを磔にする正義感を共有したい。クラスで孤立する人たちは見るからにオタクの人間や、ぼっちをつるし上げるだけ。その犠牲になっただけだ。誰にも期待しないから目立つ奴らの標的にされる。俺を傷つけるのは誰も苦しまないから。だって、エロ本のコーナーに足蹴無く通う気持ち悪い死んでしまえば良い人間。君が知っていても言わないで欲しかった。


 オタクが俺と目が合って逸らす。クラスで俺だけが見えなくなっていた。


「ミツル君。ごめん」

 透明な彼女が俺の横で立ち尽くしている。


 クラスメイトは明日香の消失に疑問を抱いたが、お手洗いだろうと辻褄あわせした。。


「明日香は俺のこと嫌いなのに話しかけるんだ」


 俺は教室の真ん中で契りを破った。驚いた彼女を忘れないように見つめ返す。その滴のような瞳と、手入れの行き届いた肌。俺に怯えて震える唇。


「ごめん。本心じゃなかった」

「あ、続けるんだ。透明だってばれるけど良いの」

「どうせ、みんな信じないし」

「そうだね。変態が妄想で作り出してるように見えるよね」

「そんなこと言ってない!」


 俺は何で腹を立てている。なぜ彼女に嫌われたくて仕方ないのだろう。目も入れたくないほど嫌悪してほしい。距離を取られるなら宙ぶらりんになりたくない。


 俺は空虚に両腕を伸ばして、胸に当たるようゆるやかに近づく。


「何するの!」

 咄嗟に明日香は横に逃げる。腕はだらんと落ちていく。


「俺は変態だからお前の思うような理解者じゃない」

「と、突然。何を」

「透明なお前が見えても、お前の心なんて見えない」


 明日香の彼氏より秘密を知っていた。俺にしか彼女の本心は見えない。

 やっとなぜ彼女が透明なのか理解した。これは俺が作り出した妄想だ。そうに違いなかった。だって、人間は透明になるわけない。


「明日香は誰よりも正しくて、みんなが言いにくいことをハッキリ言葉にして、クラスの中心人物。いつも正しくて羨ましかった。俺もそうなりたかったのに駄目だった。俺は明日香が好きだった」

「ずるいよ。ミツル君」


 俺の胸を大きな針を貫いたように苦しかった。透明な好きな人が俺の前で涙ぐんで膝をついている。


「私は正しい人間じゃないんだよ。みんなに流れることを正当化する弱い人間なんだ。ごめん、ごめん……」

「泣けば良いのかよ」

「泣きたくて泣いてないよ」


 透明な涙は地面に落ちない。俺はこれが現実だと受け止めきれなかった。監視カメラぐらい高い場所でこの状況を俯瞰している気分だ。


「明日香。好きでごめん」

「やめてよ」

「あんなヒドいことされても、好きだって思ってしまう。ねえ、明日香は俺をどう思っている」


 俺は好きな人を困らせて最低だ。誰か刃物を貸して欲しかった。この嘘しか言わない喉を掻ききって、痛みのなか絶命したい。俺は俺の薄汚い部分を抱えて生きられなかった。


「私は、貴方と友達でいたい……。明日も学校で話したい」


 クラスは俺のことを奇行だと捉えたらしい。饒舌になり、周りに円ができる。俺の席は誰も座っていなかった。

 俺はクラスを一巡する。そして、席についた。

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僕たちは透明だから 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou

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