第32話 降りてくる夜の影
久しぶりに外に出ると、その空気の感触に驚く。
蝉の音を乗せた夏風……少し喧しいけれど気持ちよくて、こんなにも澄んでいたんだ、と。
胸の前で両手をぎゅっと握り締めて、凪は田んぼ道を歩いていた。ちらほらと見知った制服の学生たちとすれ違うたびに心音が高鳴って、凪は下を向いた。
みな学校生活を終えて帰る中、一人だけ相反する少女。
嫌なことから逃げて逃げて、誰にも顔向けできない、後ろめたい気持ちで満たされる心。
彼女と待ち合わせをしたコンビニが見えてくると、さらに心音が激しくなった。
空気の心地よささえも、忘れてしまうほどに。
もう決めたはずなのに。
私は、もう決めたはずなのに……。
紀雄に貼ってもらった絆創膏は、とっくに剥がしてしまったけれど、傷は充分癒してもらった。
あとは、自分の力で治すべき部分だ。
中学の入学式の日に、凪は彼女と出会った。べつに同じクラスだったわけでもないのに知り合えたのは、今でも不思議に思っている。中学の三年間、彼女と同じクラスになることもなかったから、あの時あの出来事がなければ、ほんのちょっとでもお互いのタイミングが違えば、きっと友達になることは愚か、会話すら交わすことはなかっただろう。
あの日の光景を未だにまざまざと思い出せるのは、きっと桜たちのおかげだ。雨のようにとは言えなかったけれど……もうほとんど散っているのに、最後の力を振り絞って凪の入学を祝福してくれているようだった。
いつだったか、絵にしたこともあった。まだまだ下手くそで気に入らなくて、どこにしまっただろうか。部屋に飾っていた絵たちと同じように、捨ててしまったような気もする。
あの時、凪は校舎を間違えたのだ。事前に渡されていたプリントの案内図に従ってきたつもりだったが、一年三組の教室はどこにもなかった。
あれ? と思って、凪は何度も案内図と、今いる校舎の場所を確かめた。
やっぱり、ちゃんと一致している。
どういうことなのかさっぱりで、次第に焦燥が汗となって滲み出る。
こんなことなら、友達と一緒に来ればよかった……。
知らない場所で、周りには知らない同級生たち。人見知りというわけではないけれど、それでもやっぱり話しかけるには、ちょっぴり勇気を要する。
彼女に話しかけられたのは、ちょうどそんな時だった。
「入らないの?」
ほんの少し首を傾げる少女。揺れる髪の毛はクセがあって、無造作にハネていた。
「あ、いや、私ここじゃなくて……三組の場所、どこかわかりますか?」
「三組? 三組って確か逆の校舎じゃなかったっけ。ちょっと待って……ほら!」
まだ真新しいカバンをごそごそと探って、その子が自分のプリントを出してくれた。そこに記されている案内図を見ると、凪は顔をしかめた。あとから覗き込んだその子も、顔をしかめる。
「同じ建物が書かれてるのに、教室の数字が違う……」
凪のプリントでは一、二、三組と記されてある場所が、その子のプリントでは四、五、六組となっている。
「それ、間違ってる……よね?」
言われて凪も、「たぶん……」と頷いた。まさかプリントにミスがあるなんて、一人じゃ気づきようがない。
沙良のプリントの案内図を必死に頭に叩き込むと、凪は「ありがとう」と言って、急いで身体を反転させた。
すると、
「私も一緒に行くよ」
その子が横に並んでついて来て、凪は思わず声を上げた。
「え⁉ でも、教室ここなんでしょ? 悪いよ」
「いいよ。私のも合ってるか自信ないし。時間もまだあるから」
裏表のない笑顔。
「あ、ありがとう。えっと……」
「乙河沙良っていうの。あなたは?」
「私は——」
「凪!」
勢いよく吹いた風に、凪は現実へと引き戻された。
よく知っている声。一瞬で広がっていく世界。
夕陽に照らされて、黄金色の砂が散りばめられたみたいな雲が、漂う空。
だだっ広い田んぼの中に佇むコンビニ。田舎特有の広い駐車場。
それらを囲んでいるフェンスのそばに立つ女の子の瞳には、すでに涙が滲んでいた。
……こちらまで、視界がぼやけてくる。
凪は、その子の名前を呟いた。
「沙良……」
沙良の住んでいるマンションは、凪の家から一キロも離れていない場所にある。一軒家が密集する住宅地の中に建てられており、最初の頃はその入り組んだ道筋を覚えるのに苦労したものだ。中学生の頃、よくお邪魔していた記憶がまざまざと蘇ってくる。
だけど今日は、家に上がるつもりはなかった。開けた所のほうが、気まずい雰囲気は和らぐ。沙良もそれをわかっているのか、こちらから場所を提案しても、拒むことはなかった。
沙良のマンションのちょうど裏側、細い路地を通り抜けると、ほんの少しの遊具があるだけの、簡素な公園がある。周囲を木々に囲まれているため、ちょっとした秘密基地のようになっている。休みの日には、たまに子どもたちが遊んでいるけれど、平日の夕方——この時間帯にはまず誰も来ない。
二人はじっと黙ったまま、そこに設置されているブランコに座って、たゆたっていた。もうだいぶ使われていないのか、鎖の部分は赤く錆びついて、揺れるたびにギシギシと音を立てる。
言えない。言わなければならないのに、声が喉に突っかかって出てこない。
この期に及んで、拒絶されることを恐れているのだ。自分は許されないかもしれない。一度はいったヒビは、治せないのかもしれない。
それが、怖くて怖くて仕方ないのだ。
「凪、大丈夫?」
沈黙を裂くような沙良の言葉に、凪はまさに心を打たれた。膝に置いた手をぎゅっと握った。
なんで、なんで……。
『しつこいよ!』
私はたくさん、傷つけたのに……。
『迷惑なの! 沙良のそういうとこ大嫌い!』
なんで……あなたはいつも……。
心が絞めつけられる。
凪は勢いよくブランコから立ち上がると、沙良に向き直った。
「ごめんなさい!」
沙良はいつだって優しい。そんな優しい彼女の性格を、私の心ない言葉が変えてしまったかもしれないんだ。
言葉にはそれだけの力があることを、自分はとうに知っていたくせに。
自由人な吉城くんの言葉に笑って、絢斗の何気ない言葉に怒って、沙良や羽流子の言葉に、今までたくさん支えられてきたのに。
許してほしいなんてもう思わないから、せめて今のままの沙良でいてほしい。
「ひどいこと言ってごめんなさい! 傷つけてごめんなさい! 私、自分のことしか見てなかった。誰も私の痛みなんてわからないからって、勝手して、それぐらい構わないだろうって」
どこまでも幼稚で、どこまでも恰好悪い。
沙良の前で頭を下げて、凪は謝り続けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
そっと、頬に沙良の手が触れる。
「……もういいよ。顔を上げて」
ふいに、ぎゅっと抱きしめられた。
「凪はさ、そうやっていつも自分を責めて、謝るんだ。凪が……凪が悪いことなんて、一つもないのにさ」
凪の中で、何かが決壊した。無意識にずっと堪えていたものが、ついに溢れだした。
「さらぁ……」
沙良の身体を抱きしめる。凪はその胸の中で、わんわんと声を出して泣いた。沙良の瞳にも涙が滲んで、二人はとうとう膝から崩れ落ちた。
膝にめり込む砂粒の痛みにも、スカートの裾が汚れるのも構わず、二人は泣き続けた。
***
「ねぇ、初めて会った日のさ、桜を覚えてる?」
空を見上げて、沙良がぽつりと言った。少しだけ顔を動かして、まだぼやけた目で、凪もそれを見た。
いつの間にか陽の落ちかけた空は、砂浜のような黄金色の雲の向こうに、暗い海を顕現させている。
こんなに綺麗な夜は初めて見た気がする。
沙良の肩に半分顔を埋めて、凪は答えた。
「うん……もう散り際で本数は少なかったけど、綺麗だったからよく覚えてるよ」
「凪の入学式のしおりだけ、間違ってたんだよね」
フフ、と沙良が短く笑った。
「あれからさ、違うクラスだったのによく会うようになって……私は凪に絵をもらった。あの桜を描いた、絵」
「あ……」
思い出した。
「ん? その反応、もしかして忘れてたな」
「あ、あれは、沙良が半ば強引に取ったんじゃん。まだ全然下手くそだったから、ホントはあげたくなかったのに……」
「私には綺麗だったんだよ」
沙良はもう一度笑って、再び空に視線を戻した。凪は彼女から身体を離して、その手を握った。
「ごめん。ごめんね。事故や絵の話をするのは確かにつらいけど、でも沙良に気を遣われて、話したいことを自由に話せなくなるのは、もっとつらい……」
遠慮という名の、二人の間にできてしまった壁を、私は取り払いたい。
「私もごめん。事故があってから、凪はあまり自分のことを話さなくなって、どんどん遠くに離れていく気がして、すごく怖かった」
沙良が目を閉じる。涙で湿った睫毛が、小刻みに震えた。
癖のある髪の毛は、今ではパーマをかけたように、うまい具合に整えられている。
同じだったんだ。
互いに、ありもしない不安に襲われて、存在しない友達に怖れていただけだ。
勝手に壁を作って、高くして、分厚くしていった。
本当は、ほんの少しの勇気だけで、簡単に壊せるものだったのに。
あぁ……。
夜の影が降りてくる、素敵な空。人も町も、全てを収束していくこの素敵な空を、きっとこの先忘れることはないだろう。
入学式の日のことをよく覚えていたのは、桜だけのおかげじゃなかったのだから。
事故から始まった、凪の高校生活。その一学期が、終了した。
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