第31話 夢の在り処。

 阿津谷稔の父親は自殺だった。誰にでも優しくて、だけど自分の苦しみは一切吐き出さない人、だったらしい。

 不景気の波で勤めていた会社が倒産して、父は小さな会社の契約社員となった。残った借金を返すために、ほかにも仕事を兼業して、朝早くから夜遅くまで働き続けた。

『あの人を殺してしまったのは私なの……』

 のちに母が祖母と話しているのを、阿津谷は襖越しに聞いた。

『あの人を支えてあげなければいけなかったのに、私は生活のことで、お金のことでいっぱいいっぱいになって……』

 静かに泣き続ける母の背中を覗いて、阿津谷は子どもながらに、父を許せなかった。接することが少なかったし、まだ死ぬということの意味もよく知らず、母と自分を置いて勝手にどこか遠くへ行ったのだと、その程度にしか思っていなかったから。


 死がとても悲しいものだとわかったのは、母が病気で亡くなった時だ。

 中学生の時、突然病院から電話がかかってきた。

 説明はされたが頭の整理も追いつかず、わけもわからないまま呼び出されて行ってみたら、すでに母は息を引き取っていた。

 別れの言葉も、感謝や謝罪の言葉も交わせなかった。

 突然、二度と会えなくなった。

 その悲しみは阿津谷の世界に深い深い傷跡となって、だから今でも阿津谷は本気で、人は死ななければいいのに、と思っている。

 生物の死が、この世界の存続に必要不可欠だともわかっているけれど。

 死があるから命は美しいのかもしれないけれど……大切な人たちがいずれ死んでしまうこの世界が、阿津谷は大嫌いだった。

 死んでしまえば、二度と会えない。どんなに望んでも、どんなに想っても。

二度と会えない……。


 母の身体は、もう随分と前から病気に侵されていたそうだ。

 決して治せない病気ではなかった。もう少し早く医者に診せていれば、死なずに済んだ可能性は充分あった。

 自分の身体の異変に気づいていたはずなのに、どうして母はずっと、病院に行かなかったのか。

 その理由を、阿津谷は高校に上がる直前に、祖母に訊いて知った。

 母は、父の残した借金を返し終わった翌日に亡くなっていた。

 父と同じように、朝から晩まで毎日毎日働き続けたのは、阿津谷のためだ。借金を背負わせないように、せめて高校に行かせられるように。

 そして返済を終えて、ずっと張っていた糸が緩んだのだろう。



「僕は、何も気づけなかった。母さんはいつも僕の前では笑っていて、借金の話も一切しなかったんだ……」


 汚れた医学事典を見つめる阿津谷の目は、その表紙に母の面影を投影していた。紀雄と芙雪は何も言わず、ただ黙って前方に佇む校舎の、白い壁を見つめていた。


「母さんは優しくて強くて……すごい人だった。僕はそんな母さんに甘えてばかりで、何も見ていなかった。ホント、どうしようもない……。だから、気づけるようになりたい。知識があれば、ほんの少しだとしても、母さんみたいな人を助けられるはずだって」


 それが、僕にできる精一杯の……。

 阿津谷はおもむろに立ち上がると、本を取り返すために裏で動いてくれていた女の子と、一緒に戦ってくれた男の子を見下ろした。

 自分なんかのために、ここまでしてくれるクラスメートは初めてだった。ちゃんとお礼も言えなかったけれど、矢悠という中学生の子も。

 こういうのを、友達と言うのだろうか。

 友達と呼んでいいのなら……だとしたら、なんて眩しいのだろう。



 ***


「ごめん、重たい話だったね」


 困ったように笑う阿津谷に、紀雄は何も返せなかった。阿津谷の歩んできた道があまりに悲しくて、どんな励ましの言葉も、同情の言葉も、陳腐に思えた。きっと、隣にいる芙雪も同じなのだろう。珍しく、ずっと黙り込んでいる。


「この本は、婆ちゃんに買ってもらったんだ。母さんが亡くなったあと、医者になりたいって言ったら買ってくれて……何よりも大切な物だったんだけど……正直もう諦めてた」


 本をカバンにしまうと、阿津谷は深く頭を下げた。


「ホントにありがとう」


紀雄も芙雪も面食らってしまって、目を見開いた。そのうちに阿津谷は顔を上げて、


「それじゃあ、僕は帰るよ。また勉強を頑張らないと」


 二人に背を向けた。

 そしてさっさと歩きだすその背中に、紀雄は慌てて言葉を伝える。


「や、やめろよ! 本は汚れちまったんだ。きっと、今までみたいには使えねぇ。伏見の言う通り、俺のせいで試合も勝てなかった。礼なんてやめろ!」


 だけど阿津谷は笑うだけで。

 満面の笑みを浮かべるだけで、「大丈夫」、と言った。


「気にしてないよ。試合は引き分けたけど、勝負には勝ったと思ってるから。それに、汚れとかその程度のこと、僕の妨げにはならないから」


 去っていく阿津谷の足取りは軽快で、そこには一縷の悲壮感も漂ってはいなかった。

 あぁ、そうだったんだな……。

 紀雄は、初めて阿津谷と知り合った頃のことを思い出して、気づいた。

 イジメられているのに、どこか他人事のようだったのは、阿津谷がそれを気にしてなかったからだ。陰口を言われても、上履きを隠されても、すべきことがあったから、その程度のことで足を止めてなどいられなかったからだ。

 俺はバカだった。両の目は見せかけだけの、ただの飾りだった。

 阿津谷は強い奴だったんだ。居場所がないからって学校をサボってた俺なんかよりも、ずっと強かった。

 紀雄は赤く染まった空を仰いで、大きくため息を吐いた。



 そうして翌日、波乱の幕を開けたクラスポは、あっさりとその幕を閉じた。

 瑠璃川チームとの試合を引き分けた紀雄と阿津谷のニコニコバレーは、なんと二戦目で勝ち星を上げた。しぶとくボールを拾う紀雄と阿津谷の絶妙な攻めは、相手に一度も挽回の機会を与えることなく、ストレート勝ちした。

 しかし続く三戦目、二人の前に立ちはだかった四組のチームに惨敗し、紀雄たちは敗退した。相手は二人ともバレーボール経験者で、力任せの紀雄のプレーは全く通用しなかった。

 阿津谷でさえ、ただボールを拾って返すのが精一杯で、狙い打つことなどできなかった。

 結局、紀雄チームは1セットも取れず、敗退となった。

 紀雄は地団駄を踏んで悔しがったが、阿津谷は柔らかい笑顔を浮かべるばかりで意に介しておらず、紀雄も、まぁいっか、と力が抜けた。


 瑠璃川と金場のチームに関しては、もっと予想外な結末を迎えた。

 瑠璃川が二戦目を棄権したのだ。クラスの皆が言葉を失っていたが、一番驚いていたのは金場だった。

 どういった事情があったのかはわからない。

 が、そんなことはもう紀雄にはどうでもよかった。

 終わったものは仕方がないし、何より、明日はもう終業式で、それからは楽しい楽しい夏休みの始まりなのだ。


 それに、凪……。

 彼女の部屋で話してから四日が過ぎたけれど、スマホは息を潜めてなんの音沙汰もない。

 こちらからラインでも送りたいが、彼女が沈んでいた事情を中途半端に知っているため、文章を打っていても手が止まってしまう。

 あれから沙良と会ったのだろうか。

 せめて、仲直りできているといいのだが……。

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