第30話 試合は終わり、友達は語る。

 瑠璃川が金場を突き飛ばしてくれたおかげで、タイムアウトの三十秒以上、身体を休めることができた。

 紀雄たちはようやく1セットを奪い、次の4セット目も順調に点数を重ねていった。さすがに、阿津谷にも疲労が見え始めたが、それでも誰の目から見ても、紀雄チームが優勢に転じているのは間違いなかった。金場は依然として亀のように動きが鈍く——瑠璃川に突き飛ばされたせいもあるのだろうが——、そのせいで瑠璃川が許容量を超えて、負担を強いられていた。

 いいぞ、いいぞ!

 紀雄は胸の内で拳を握り締める。勝利への糸が見えてきて、今までの疲れが嘘みたいに吹き飛んだ。阿津谷と二人、攻めに徹して、堅実に点数を入れていく。

 そして4セット目も奪取して、ついに訪れた正真正銘、最後のセット。ここで21点を取ったほうが、勝利だ。

 瑠璃川はすでに風前の灯で、金場はドンガメ。もはや紀雄チームの勝ちは、約束されたようなものだった。


 しかし、のちに男は語る。

 あの時は調子に乗りすぎちまったんだ、と。


 4点目を入れ、サーブが阿津谷に回ったところで、二人は目を合わせて頷いた。

 ここが絶好のタイミングだ。

 紀雄はじっと、阿津谷のサーブを見守る。彼の細い腕からは想像もつかないほどの速さで、ボールが瑠璃川に迫った。

 弾けるような音と共に、ボールは体育館の天井近くまで舞い上がる。やがて急降下するそれを、金場が懸命に拾いに行く。

 もう何度目かの、ラリーが始まった。

 あと1セット取ったら勝つ。あと1セット取られたら負ける。互いの退けない想いがぶつかり合い、熾烈を極めて、ここに来て試合は最大級の盛り上がりを見せた。もはや観客は女子たちだけではない。学年を問わず、たくさんの男子たちも、集まっていた。

 バレーボールの経験者ではないはずなのに、やはり瑠璃川は上手い。体力は底をついているだろうに、阿津谷の攻撃に未だついてきている。それどころか、そのスピードに慣れ始めたのか、防御率は間違いなく上がっている。

 だが……。

 瑠璃川のスパイクには序盤ほどの速度はなく、紀雄でも難なく防ぐことができた。

 スパイクとレシーブの応酬が続き、そしてついに、その時が来た。

 金場の手を離れ、宙に浮いたボールを阿津谷が捉えた。できるだけ勢いを殺して、紀雄の頭上へと華麗なボール回しを見せる。

 紀雄は膝を屈め、跳ぶ。ボールとの距離はばっちりだ。

 もう終われ、瑠璃川!


『お願い?』

『ああ。一回でいいから俺にボールをくれねぇか。したいことがあるんだ』

 先ほどのタイムアウト中に交わした会話。

 こんなに早く、チャンスを用意してくれるとは、さすが阿津谷だ。

 紀雄は狙いを定め、力任せに腕を振った。


「瑠璃川っ!」


 金場が瑠璃川を押しのける。

 ボールは金場に直撃して、あさっての方向へと飛んでいった。

 体育館が一瞬で静まり返り、壁に当たったボールの、ボンボンと跳ねる音だけが響いた。


「まさか金場が庇うとは。まぁいい」


 紀雄はネット越しに、呻く金場を見下ろすと、


「どうだ? 痛ぇか、おい! フフフ、フハハハハ!」


 高らかな笑い声が体育館を包んだ。

 対象は違うが、これでようやく仕返しができたのだ。気持ち良すぎて笑いが止まらない。

 数秒遅れて、周囲は何が起きたのかを理解した。

 若干ひいている阿津谷。向こうのコートでは倒れた金場に、瑠璃川と審判が駆け寄っている。

 途端に、外野からブーイングの大雨が降った。


「うるせぇなぁ。俺んときは全然騒がなかったくせによぉ」

「よ、吉城くん、したかったことって、これ……?」

「おうよ。借りはきっちり返さねぇとな」


 紀雄はそう言うと、早々に拾ったボールを阿津谷に渡した。こちらが点を取ったから、また阿津谷のサーブだ。


「だ、だけど……金場くん、動かないよ」

「なにぃ⁉」


 紀雄は目を剥いて振り返った。

 審判と瑠璃川が何度も揺さぶっているが、確かに金場が動く気配はない。呻いているので、生きてはいるようだが……。

 バカな! 顔面には当たってねぇはずだぞ! いや、当たったか? いや、それでも大丈夫なはずだ! バレーボールの球だぞ、バレーボールの! 大丈夫、絶対大丈夫だ!

 ……大丈夫だよな?


「お、おい阿津谷、このままあいつが退場になったらどうなるんだ?」

「それは……」


 口を開きかけた阿津谷の言葉に、立ち上がった審判のホイッスルが重なった。


「金場くんは顔を押さえて痛みを訴えており、今から保健室へと運ぶ。よって彼は退場とし、ルールに則って試合はここで終了とする!」

「な、なんでだよ⁉ ちょっと待ってくれ!」


 審判である三年生の体操着を掴んで、紀雄は食い下がった。


「そっちが一人になって試合ができないってんなら、こっちも俺が退場するからよ!」

「ダメだ。ニコニコバレーのルールでは、負傷者が出て試合が続行できなくなったときは、その時点で試合終了と決まっている。事前に教室のほうで説明があったはずだ」

「なんだよ、それ! 負けそうになったら当てる奴が続出するじゃねぇか! あっ! 今そいつ笑ったぞ! 金場の奴、笑いやがった! 芝居だって!」


 生徒会の人間に運ばれていく男の横顔を、紀雄は必死で指差した。


「そんな考えを持っているのは君だけだ! いいか、スポーツとは正々堂々と互いがルールに従って、その中で勝負するものだ。決して相手を傷つけて勝つものではない! 君は試合よりも、自分のしたことに対して反省したらどうだ!」

「ちょっと手が滑っちまっただけだぜ!」

「随分と嬉しそうに笑っていたが? 周りの生徒たちも見ているんだぞ」


 ……やべ。

 審判の言葉に、外野の女子生徒たちがうんうんと頷く。芙雪と矢悠だけが、呆れたように頭を抱えていた。


「いや、あれは間違えたっていうか……心配で、笑っちまったっていうか……」

「心配して笑う奴がどこにいるんだ。悪いが試合は終了。話も終わりだ」


 ニコニコバレーの初戦にして、だいぶ時間が押しているのだ。できるだけさっさと終わってほしいのだろう。

 もはや紀雄の抗議も虚しく、試合は唐突に終わりを迎えた。



 ***


「はぁ~あぁ」


 太陽に赤く染められた空に向かって、紀雄は大きなため息を吐いた。中庭に備え付けられたベンチは、囲んでいる高い校舎のおかげで、四六時中日陰だ。柔らかさは皆無なので寝るのには不向きだが、時折迷い込んでくる風が、涼しく身体を撫でてくれる。阿津谷との練習場所に使って、初めて気づいたことだった。

学校の中にも、リラックスできる場所があるものだ、と。


「あっ、吉城くん!」

「あんた、こんな所にいたんだ」


 聞き慣れたなよなよした男の声と、クールな女の声。紀雄はベンチに寝転がったまま、顔をぐいっと頭上に向けた。


「阿津谷に伏見……。ほかの奴の試合なんて興味ねぇからな」

「矢悠くんだっけ? あの子はあんたらの試合が終わったのと同時に帰らせたわよ」

「そうか、ありがとよ」


 矢悠が捕まると、いろいろと面倒くさいことになりかねない。

 とりあえず、礼だけは言っておくか。

 気分が落ちている紀雄は、ポケットからスマホを取りだすと、ラインを開いた。


「それにしてもよかったよ。もう帰ったのかと思っちゃったから。本のこと、ありがとう」


 阿津谷は笑ってそう言うが、紀雄は素直に受け止められない。試合は勝てなかったし、阿津谷が胸に抱いている金場から取り返した本も、泥や埃で汚れてしまっている。


「俺はなんもしちゃいねぇ」

「むしろあんたのせいで、勝てる試合も引き分けになっちゃったしね」

「ぐっ……」


 この女ぁ、人が気にして落ち込んでることを、平然と言いやがって……。


「ちなみに金場はピンピンしているそうよ。よかったわね」

「そうだろうなぁ! 最初からあいつの心配なんかしてねぇよ! お前もわかって言ってんだろ!」

「まぁ、ね。負けの見えている試合を引き分けにした。金場のほうが一枚上手だったってことねぇ。瑠璃川は、かなり気に入らないようだったけど」

「瑠璃川?」

「知らないの? 試合が終わって、あんたが体育館を出たあと、あいつ審判と先生たちに対して、直談判しに行ったのよ」

「直談判? 一体なんの?」

「あんたたちとの試合を、もう一度させてくれって」

「はぁ? なんなんだ、あいつ」


 次やったら、こっちが勝つのは目に見えてるってのに。


「よく知らないけど、ちゃんと勝敗をつけたかったんじゃないの? あいつってそういう奴だし、そういうところがまた女子に人気なのよね。まぁ結局、認められることはなかったけど……。いいから、ほら、早くベンチ空けなさいよ。いつまで女の子立たせるつもり」


 芙雪がしっしと手で払う仕草をして、紀雄は嫌々ながら上体を起こした。


「ねぇ、一つ聞いてもいいかしら。阿津谷は……どうして医者を目指してるの?」

「えぇ⁉ 阿津谷って医者になりたいのか⁉」

「医学事典を開いて勉強してる時点で、フツーわかるでしょ、バカ」


 細目で睨まれ、紀雄はムスッとそっぽを向いた。


「……気づけるようになりたいんだ」


 僕の家はいわゆる母子家庭ってやつだった。幼い頃に父さんが亡くなって、それからはずっと母さんが一人で、僕を育ててくれたんだ——


 落ち着いた声で阿津谷が語る。

 紀雄の知らない、人生を。

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