第29話 火花散る、ニコニコバレー②

 体育館では、ニコニコバレーと同時に、女子バスケットボールの一試合目も行われている。それが終わりを迎えたのか、突然歓声が大きくなり、ホイッスルが鳴り響いた。

 三年生の女子たちがハイタッチをして喜びあっているのを、ちらっとだけ確認して、紀雄は前方の金場たちに意識を戻した。


 こちらの試合は、まだまだ終わらない。

 頭はくらくらし、足もおぼついて、体力は限界に達していたが、それでも不思議と、つらくはなかった。

 消えかけた小さな火が、風に吹かれながらもなかなか消えないように、紀雄はしぶとく足掻いていた。

 燃えたぎるような暑さの中で、サーブやスパイクをきめ続けるのも楽ではない。金場と瑠璃川も、ぜぇぜぇと肩で息をしている。

 時折、心配そうに紀雄を見る阿津谷だけが、まだまだ体力を残していた。

 ここらでタイムアウトを使うか……。

 試合は3セット目、15対2と、大きく差をつけられている。これ以上離されると、いくら阿津谷が動けるとしても、勝ちは難しくなる。


「阿津谷!」


 紀雄は後ろを振り向き、今まさに、サーブをミスしようとしている阿津谷と目を合わせて、こくりと頷いた。

 審判に手を挙げて、一度きりのタイムアウトを使用した。


 ぐびぐびとお茶を飲んで、というより胃に流し込んで、紀雄はハァ~と息を吐いた。試合を停止できるのは三十秒だけだが、それでも意味があると信じたい。

 阿津谷がそばに腰を下ろして、紀雄を見た。


「吉城くん、君が何かを待っているのは理解したけど、このままだとすぐに、あと6点とられて負けてしまう。僕は……瑠璃川くんを許せない」


 紀雄は顔を歪ませる。


「お前が動けば、失うもんがあるだろ。まだ、俺に任せとけ」


阿津谷が怒っている理由をすでにわかっていたから、認めることなどできはしなかった。


「君は、熱中症になりかけてる。僕にとっては、そっちのほうが重大だ」


 紀雄はぎりぎりと歯を噛み締めた。

 だから俺にとっては……。


「大丈夫だって言ってんだろ。お前はもう少し大人しくしてろ」

「嫌だ。次のサーブは、ミスしない」

「お前なぁ——」

「三十秒経過したぞ。コートに戻れ」


 審判に言葉を遮られ、紀雄は舌打ちした。阿津谷はもう、聞き入れる気はなさそうだった。

 紀雄のために怒っているのがわかっているから、紀雄は余計に、阿津谷の本を取り返してやりたいと思うのだ。あの本にどれだけの価値があるのかなんて知りもしないが、自分のせいで、本を捨てる決断をするのは納得できない。


「逆転できる作戦は決まったか?」


 ネットを挟み、一歩踏み出せば殴りかかれる距離で、腰をおとした金場がニタニタと笑っている。しかしその直後、すぐに彼の表情は一変した。

 ボールを高く頭上に放り、阿津谷が跳躍する。そして次の瞬間には、ボールは雷のように瑠璃川の横に落ち、壁にぶち当たった。

 瑠璃川の名前が飛び交っていた外野が、一瞬で静まり返った。今までろくに、ボールを扱えなかった男が、突然華麗なサーブをきめたのだ。目の前で起きたことに、頭が追いついていないのだろう。

 やがて、いち早く状況を飲みこんだ金場が、阿津谷を睨みつけた。


「てめぇ、阿津谷ぁ……本はいいのかよぉ」


 素早く次のボールを受け取り、バウンドさせている阿津谷の手が止まる。そして、ほんの少し躊躇いを見せてから、


「……構わない」


 再び、ボールを頭上に放り投げた。

 そのときだった。



「先輩!」


 まだ子どもの面影を残した男の甲高い声が、体育館の入り口から飛び込んできた。  

 阿津谷も金場も瑠璃川も、外野の女子たちも一斉に振り向いた。

 なんてタイミングだ。

 野球部の帽子を深々と被り、頭上に一冊の本を掲げてみせるその男子生徒を見て、紀雄は表情を緩めた。


「おせぇよ、バカ」

「あれは……僕の……」


 阿津谷が呆然とし、ボールを落とす。

 いや、呆然としているのは、阿津谷だけではなかった。


「誰だよ、あいつは。うちの野球部にあんな奴はいねぇぞ!」


 動揺した金場は、不審な男子生徒を見ては、無意味に周囲を見回し、そして男子生徒の視線の先、微笑を浮かべている紀雄に、ようやく気づいた。


「吉城、お前やりやがったな。校内に部外者を入れるなんて停学もんだぞ」

「停学? 停学の危機なら一週間ぐらい前にもあったわ」


 担任の先生に爆竹をかましてなぁ。


「さて、それじゃあ俺は少し休ませてもらうぜ」


 阿津谷の肩をぽんと叩いて、紀雄は後ろに下がった。


「時間稼ぎは……本を取り返すため? 金場くんを、ここに引きつけておけるから……」


 紀雄は何も答えなかった。コートの外で、元気よく応援してくれている矢悠に向かって、軽く手を振った。

 どこに置かれていたのか、阿津谷の本は砂にまみれて、矢悠の袖や裾も汚れていた。野球部の帽子はおそらく、伏見がどこかから拝借して渡したのだろう。矢悠は金のメッシュをいれているから、隠さなければ悪目立ちしてしまう。

 あの分厚い本——医学事典を、金場がずっと持ち歩くようなことは、しないと踏んでいた。実際に持ったことはないが、明らかに重たい物であることは間違いなかったし、他人の物を常に身につけておくのは、結構面倒くさい。だからそもそも、金場のしていること自体が、紀雄にとっては理解できないのだが、ともかく、阿津谷の本は必ずどこかに置いていると踏んでいた。

 まずは教室の中。そしてあとは、金場が所属する野球部の部室……。

 朝、伏見を待っているときにそれを思いついてすぐ、紀雄の頭には矢悠の顔が浮かんだ。萩尾先生のいう、正しい方法ではない。しかし時間はなく、これしか思いつかなかった。

 クラスポが始まれば、校内の生徒全員が体育館に集合する。部室に侵入するのにまたとない絶好の機会を、逃すわけにはいかなかった。

 結果的に、時間はかかってしまったが、無事に本を取り返すことができた。



 二回目の阿津谷のサーブもきまり、三回目でようやく瑠璃川が拾って、本格的に試合が再開する。

 鋭いスパイクの応酬に、何度もボールは宙を舞い、放物線を描いた。

 まさに絵に描いたように、状況は逆転した。

 金場はいまだ困惑しているのか、まったく動けず、瑠璃川は1セット目の紀雄のように、一人必死にボールを追っていた。

 コートは完全に、阿津谷によって支配された。

 紀雄は、たまに自分のほうに飛んでくるボールを拾うだけで、しかしチームの点数はどんどん増えていった。

 そしてとうとう、あと1点で3セット目を奪取できるというところで、


「審判、タイムアウトを要求する」


瑠璃川が手を挙げた。



「ちぃ! せっかくペースを崩せたのに、立て直されちまうな」


 コート脇に用意されたパイプ椅子に腰かけて、紀雄は悪態をついた。まだまだ調子は優れないが、だいぶ体力を回復できた。それもこれも、阿津谷のおかげだ。


「いいよ。こっちは休憩できる」


 はぁはぁと呼吸をしながら、額の汗を拭う阿津谷は、まるで別人だ。普段のなよなよした風貌は、どこにもなかった。


「おい金場、しっかりしろよ。阿津谷が突然上手くなっただけで、動揺しすぎだ」


 仁王立ちで腕時計に目を落としている審判の奥で、パイプ椅子にどかりと座って俯く金場に、瑠璃川が詰め寄っていた。


「あいつ、どうやったんだ? 部室の鍵をどうやって手に入れやがった」

「……なに?」


 瑠璃川が首を傾げる。直後、何かに気づいたかのように、体育館の入り口にいる謎の男子生徒を見ては、

「お前、まさか……」

 金場の胸ぐらを掴んだ。


「阿津谷がずっと大人しかったのは、お前が原因か?」

「ああ、そうだよ。ちょっと脅してたんだ。遊んでやるつもりだった。こんな試合、わざわざ全力でやる必要もねぇだろ。お前だってそのほうが——」


 パイプ椅子が床に倒れ、鋭い金属音を鳴らした。

 瑠璃川が金場を突き飛ばしたのだ。


「うるせぇ、余計なことしてんじゃねぇよ! そんなやり方で、あいつに勝ってたまるか!」


 今度は何事かと外野の女子たちが囁き合う中で、審判が止めに入った。


「なんかわからねぇが、仲間割れしだしたぞ」


 傍目でその様子を見ながら、紀雄はボソッと阿津谷に話しかける。


「チャンスだね。ますます流れがこっちにきてる」


 とても阿津谷の発言とは思えなかったが、それだけ勝ちにこだわっているのが伝わってきた。

 こいつはマジで勝てるぜ。

 阿津谷の猛攻に、相手チームの仲間割れ。勝利の先っぽが見えてきて、紀雄の中に余裕が生まれる。

 余裕が生まれれば、自然と頭も働き、紀雄は静かにほくそ笑んだ。


「阿津谷、一つ頼みがあるんだが」


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