第27話 青い春は、つくづく天気が変わりやすい。

「こんな朝早くに、しかもあんたが私を呼び出すなんて、珍しいわね」


 カバンから取り出した教材を机の中に入れながら、芙雪が言った。

 朝日が差し込む教室の中、誰よりも早く登校した紀雄は、ずり落ちそうなぐらい浅く椅子に座って、白い天井を仰いでいた。金場が取った阿津谷の分厚い本が、この教室のどこかに隠してあるかもしれないと思ったのだが、やはり見つからなかった。金場の机はもちろん、瑠璃川の机も。掃除道具入れや、物を隠せそうな所は全て調べた。

 ここになければ、ほかに思い当たる場所は一つしかない。


「なぁ伏見、お前に頼みたいことがあるんだ」


 紀雄は顔だけを横に向けて、芙雪を見た。


「なに? ますます珍しいわね」


 教材を入れ終えると、芙雪は腰に手を当てて、紀雄を見返した。


「鍵を手に入れてほしいんだ。野球部の、部室の鍵」


 紀雄は天井に視線を戻した。所々に見える黄ばみや黒ずんだ汚れは、この教室が過ごしてきた年月か。


「野球部の鍵?……侵入する気なの?」


 紀雄は何も答えなかった。芙雪は目を細めたが、それ以上は追及してこず、やがてため息を吐いて、


「金場と阿津谷が関係しているのね」、と続けた。


 さすが、鋭い女だ。


「阿津谷の本を探してんだよ。ほら、いつも授業の合間に、あいつが勉強に使ってる、辞書みたいなやつ」

「あぁ、あれ。辞書みたいなやつっていうか、辞書でしょ。医学事典。なんでそんなものを——」

 言葉の途中で、芙雪は察したらしい。まったく……と呆れ声を洩らした。


「金場が盗んだのね」

「おかげで阿津谷の野郎、戦意喪失しちまった」

「なるほど。それであんたたち、急に練習しなくなったんだ。あれだけ熱心にやってたのに……おかしいと思ったわ」


 紀雄は上体を起こして、もう一度ため息を吐く女子生徒を見た。


「へぇ、気にかけてもらってたなんて、意外だな」

「私は学級委員よ。クラスのことはできるだけ把握しておきたいの。べつに、あんたたちが試合で勝とうが負けようが、それはどうでもいいんだけど」


 つくづく一言多い女だ。


「それで、いつやるの?」


 しかしそれでも芙雪は手伝ってくれるようで、紀雄は、ヘンなやつだな、と聞こえないように呟いた。


「今すぐに。と言いてぇところだが、どうせ今は、部の誰かが持ってんだろ?」

「そうね。自主的な朝練は認められているから、誰かが使っているでしょうね」


 クラスポの練習期間で、体育館や運動場が開放されているため、運動部は放課後の活動ができなくなっている。その代わりに、朝練は自由にさせているのだろう。

 紀雄は心の内で舌打ちした。

 もっと早く動いていれば……。


「だけど、クラスポが始まったら、あんたは動けないでしょ。ニコニコバレーの試合、すぐだから」


 芙雪の言う通りだった。八時になってホームルームが始まれば、そこからはみんな体操着に着替えて、体育館に移動だ。そこから開会式が行われると、もう紀雄は金場たちとの試合が終わるまで、体育館から出られない。

 しかし、それは同時に金場も動けないということだ。だからこそ……。


「伏見にあと一つ、やってほしいことがあるんだ」

「野球部の部室に侵入するなんて嫌よ。第一、私のバスケも今日が試合だし、生徒会としての仕事もあるから、そんなに動けないの」

「わかってるよ。野球部の鍵を手に入れたら、これと一緒に、ある男に渡してほしいんだ」


 紀雄はそう言って、予め持ってきていた紙袋を机の上に置いた。芙雪は袋の口を覗き込むと、怪訝そうに眉根を寄せ、目を見開いた。


「これって……あんた、まさか……」


 紀雄は不敵に笑みを浮かべる。

 それと同時に教室のドアが開いて、続々とクラスメートたちが入ってきた。



 ***


「いいですか、皆さん。かの詩人デキムス・ユニウス・ユウェナリスは言いました。健全な精神は、健全な肉体に宿る、と。勉学だけでなく、運動も怠らず励むことで、初めて心は健やかになるということです。

 しかしですね、皆さん! この言葉は実際のところ、ユウェナリスのただの願い、ただの望みに過ぎなかったのです。重く苦しい戦争の日々の中で、荒んだローマ市民たちに対し、こうあってほしいと祈った言葉であり、本当は……」


 話がなげぇんだよ、馬鹿野郎。

 紀雄は体操着の裾を掴んでバタバタさせながら、壇上から発せられる、長ったらしい校長の挨拶を聞いていた。

 空気が蒸し蒸している体育館は、約四百七十人もの生徒が集まっているせいで、身体が溶けてしまうのではないかと思うほど、熱が籠りに籠っていた。立っているだけなのに、すでに身体中が汗ばんでいる。


「それでは皆さん、水分をこまめにとり、熱中症に気をつけて、全力で頑張ってください。それは微々たるものかもしれない、しかし! 今こそ哀しき詩人の想いに、私たちで応えていこうではありませんか!」


 お前は身体動かさねぇだろ。熱中症に気をつけたうえで全力を出してほしいなら、まず体育館に冷房機器を設置しやがれ。

 でっぷりと太った校長は汗だくの頭を下げると、満足気な顔でいそいそと壇上を降りて、どこかに消えていった。

 続いて生徒会長が挨拶をし、ようやく開会式が終わりを迎える。

 すぐさま、全学年の体育委員たちが、壇上でくじ引きの準備を始めた。

 今日開始される競技の、対戦カードを決めるくじ引きだ。一日目は、野球とサッカーとバスケ、そしてニコニコバレーだ。

 通常、どの競技もクラスから一チームだけなので、対戦相手のクラスを決めるためのくじ引きであるが、対戦相手が同じクラスのチームと決まっているニコニコバレーだけは、試合の順番を決めるだけの、くじ引きとなっていた。

 三年生と二年生のくじ引きが終わり、一年生の番が来ると、紀雄のクラスでは瑠璃川が代表となって、壇上に立った。


 紀雄は小さな箱の中に手を入れる彼の後姿を見つめながら、せめて一回戦ではないようにと、内心祈った。

 その時ふと、視線を感じて横を見ると、女子の列に混じっている芙雪と目が合った。その表情にはいつものクールさはなく、不安げに紀雄を見ていた。

 もしかしたら芙雪も、同じように祈ってくれているのかもしれない。

 瑠璃川がくじを引き、それを確認した三年生の体育委員長が、黒板に書きだした。


 祈りは届かなかった。紀雄たちの試合は、一回戦だった。

 くじ引きが終わり、一年生の集団が散開すると同時に、芙雪が走りだした。紀雄が渡した紙袋を取りに、教室に戻っていったのだ。

 紀雄は彼女の背中に向かって、小さく礼を言った。



「いつもみたいに、見返りを要求しねぇんだな」


 作戦を伝え終えたあと、芙雪が平然と紀雄の机を離れようとしたので、つい口が出てしまった。見返りがないならないで、それに越したことはないのに。


「失礼ね。これでも、阿津谷に同情してるのよ。あの医学事典、阿津谷にとって大切なものみたいだから。詳しくは知らないけど」

「そうだったのか……」


 何も知らなかった。ほかの教材と、同じようなものだと思っていた。言われてみれば、大事そうにしていた気もするが、まったく忘れていたのは、きっと紀雄にとって、それらは無造作に扱ってもなんの差支えもない、ただの本でしかなかったからだろう。


「あんたは? どうしてこんなことしてるのよ。練習しなくなって、阿津谷ともまったく話してなさそうだったのに」


 今度は芙雪が質問をしてきて、紀雄は口を開きかけては閉じてを繰り返し、


「阿津谷に……助けられたからな」、と、静かに答えた。


 絆創膏のことを思い出せたのは、阿津谷のおかげだ。『友達』がわからない紀雄にとって、あのとき唯一、凪にしてあげられることだった。

 紀雄には、『友達』がわからない。

 わからないから、凪の悲しみを共有してあげることができなかった。何も、解決策を出してやれなかった。『まだ間に合うんじゃねぇかな』、などと、無責任な言葉を吐いて、結局彼女の意思に任せることしかできなかった。

 『友達』を知るには、つくるしかない。

 どうやってつくるのかもわからないし、阿津谷が友達になってくれるかもわからないが、少なくとも紀雄がしてやれることはあった。それは決して、ただの本を取られて金場の言う通りにする阿津谷を責めることではない。

 それに、最初は萩尾先生にハメられたことがきっかけにしろ、自分でやると決めたことを、途中で投げ出すなんて恰好が悪い。

 考えれば考えるほど、クラスポに出ないという選択肢は消えていった。



 紀雄は顔を上げると、阿津谷に近づいて話しかけた。


「……あいつらに勝つぞ、阿津谷」

「ごめん、吉城くん。僕は——」

 阿津谷が言い切る前に、紀雄は手で彼の言葉を遮った。


「わかってる。全部俺に任せろ」


 後方にいる金場を睨む。すでに瑠璃川とともに、指定されたコートに入って、身体をほぐしていた。

黄色い声があちこちから瑠璃川に向かって飛ぶ中、紀雄もコートに足を踏み入れる。


 ついに、クラスポが始まった。

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