第26話 記憶の固執の崩壊

 困った……。

 白いモフモフとしたカーペットの上で、紀雄はじっと正座して、硬直していた。

 まさか部屋に入ることになるとは思ってもみなかった。沙良から渡されたものを届けて、すぐに帰るつもりだった。

 紀雄は、ベッドの上で膝を抱えて座っている凪をちらりと見ては、目を逸らした。上は高校のブレザーを着ているからいいとして、下は部屋着なのか短パンで、白い太股がだいぶ露わになっているのだ。

 それに何よりも、赤く目を腫らした彼女の落ち込んだ表情を直視できずに、紀雄は仕方なく部屋の中を見回した。

 目の前には、何も置かれていない白の丸テーブル。壁際には教科書と少女漫画の並んだ本棚があって、その横に高校のカバンが立てかけてある。綺麗だけれど、何か物足りなさを感じる部屋。

 微かに開いた窓の隙間から風が入り込んでは、そのたびに水色のカーテンが揺れた。

 夕暮れ時、ひぐらしの声だけが、二人を包む。


「テストの件だよね? ごめんなさい、忘れてたわけじゃないんだけど……」


 やがて凪が口火を切って、紀雄はホッとした。このまま二人、黙ったまま、時が過ぎていくのではないかと思った。それに……。

 俺は忘れられていたわけじゃなかったんだな。


「テスト、私まだ受け取ってなくて」


 膝に顔を半分埋めて、凪は短く言葉を続けた。


「ああ、知ってる。それを渡しに来たんだ」


 紀雄は自分のカバンから、一つのファイルを取りだした。中には、凪のテストが入っているらしい。


「なんで吉城くんがそれを……?」


 凪はベッドの上に手をついて、見開いた目を近づけてきた。紀雄は彼女のほうに顔を向けるとすぐにまた逸らした。部屋着の首元が少し緩いせいで、胸元が覗けてしまう。下着が見えそうだったのだ。


「佐々原の友達の、沙良って子に渡されたんだ。俺の学校の、門の前にいてよ。自分で渡せって拒否したんだけどよ」


 お願い。あんた、凪と会ってるんでしょ? 私は、会えないから……。

 ファイルを無理矢理胸に押しつけてきた沙良の顔を見ると、受け取るしかなかった。

 ……今の凪と、同じ顔をしていた。


「詳しいことは何も聞いてねぇ。ただ……」


 ファイルが凪の手に渡ると、紀雄は風になびいているカーテンを見つめながら、言った。


「泣いてたよ」


 背中に感じる凪の鼓動が、わずかに変化する。紀雄はさらに言葉を続けようとして、しかし喉の奥に飲みこんだ。


 これ以上、この話題は続けられないと思った。元気のない凪に対して、どうにかしてあげたい気持ちがあるのに、自分には何もできないこともわかっていた。

 俺は、何も知らない。


「それじゃあ、俺は帰るわ。勝負のことは、また今度でいい。佐々原が……元気になってからで」


 精一杯の台詞だった。紀雄はカバンを無造作に掴んで、立ち上がった。


「沙良は、ほかに何か言ってた?」


 紀雄はドアを開ける手を止めて、下唇を噛んだ。

 ファイルを受け取ったあと、沙良はぎゅっと目を瞑って、ありがとう、と言った。それから……。


「ごめんなさい、ってよ」


 紀雄に謝られる覚えはなかったから、きっと凪に向けた謝罪だろう。とても、つらそうだった。

 後ろで、すすり泣く音が聞こえてくる。


「謝るのは、私のほうなんだ」


 凪がぽつりと零した言葉が、紀雄の心に波紋を広げる。


「どうしようもない悲しみを怒りに変えて、沙良にぶつけた。傷つけちゃった。私は、大事な友達を傷つけちゃったんだ……」


 紀雄は奥歯を噛み締める。

 傷ついているのは、凪も同じだ。

 自分に何ができるのだろう。何をしてあげられるのだろう。

 友達なんて、まともにつくったことがない。小学生の頃はいたけれど、卒業と同時に引っ越して疎遠になり、中学からは大人や世界に拘束されているような感覚を覚えて、半分不登校だった。好き勝手生きてきたから、凪みたいに戦ってこなかった。

 友達も知らない俺には、やっぱり言えることなんて何もない——

 ふと、閉め忘れたカバンの口に目を落として、紀雄はハッと思い出した。

 それを取りだすと、くるりと凪に向き直り、彼女の正面でベッドに膝をついた。

 凪の手をとって、その甲にぺたりと貼った。


「……絆創膏?」


 ニコニコバレーの練習をしていた時、阿津谷が数枚渡してくれたものだ。使い方は間違っているが。


「お、お返しだ。前に怪我した時、貼ってくれただろ」

「でも私、怪我なんて——」

「佐々原の傷、痛そうだから」

 凪の瞳が一瞬大きくなって、再び涙が滲む。

「佐々原の傷、痛そうだから……治るようによ……その、お返し……」


 なんて恥ずかしいことをしているのだろう。心の傷が、絆創膏で治るわけがないのに。

 熱くなる頬を凪に見せないように、紀雄はさっとベッドから離れた。


「……まだ、やり直せるんじゃねぇかな」


 それだけ言い残すと、紀雄はドアを開けて、早足で階段を下りていった。

 ドキドキと高鳴っている心臓をなんとか抑えたくて、バイクに飛び乗った。

 どこでもいいから、早く走りたかった。

 くせぇくせぇ! 

 どうしようもない気持ちを叫びに変えて、吐き出してしまいたい。

 今ならバイクのエンジン音が、全部かき消してくれるだろう。

 恥ずかしさも。

 急激な速さで肥大していく、好きという気持ちも。

 自分の不甲斐なさも。無力さも。

 吐き出さなければ、爆発してしまいそうだ。

 そして、今の自分がしなければならないことは……。


 次第に蜩の声が遠くなっていって、代わりに車の走行音が騒がしくなっていった——。



 ***


 紀雄がいなくなっても、凪はずっとベッドの上で膝を抱えていた。右手に貼られた絆創膏をじっと眺めて、頭の中ではたくさんの思い出が、ぐるぐると渦の中を流れていた。

 十三歳、水色の昼下がり。

 休み時間、ひたすら絵を描いていたあの時……。

 取りあげた凪のノートをペラペラとめくっては、女の子たちは卑しく笑い合う。


「いつも休み時間にこんなの描いてると、クラスで独りぼっちになっちゃうわよ」


 フフフ、と、化粧をした女の子がまた笑う。

 乱暴に返されたノートを受け取って、凪は首を傾げた。

 独り? なんで絵を描いていたら、独りになるのだろう?

 私は、独りになんてならない。


「大丈夫だよ。私には——」

「凪! ごめんね、遅くなって。お弁当食べよ!」


 突然慌ただしい様子で、沙良が教室に入ってきた。


「いやぁ今日珍しく遅刻して、先生に呼び出されちゃって。あれ? 友達?」


 凪と彼女を囲む女の子たちを見ては、誰からも返答がないことに戸惑い、だけどすぐに合点がいったとばかりに、「あ、一緒に食べる?」、と言った。

 女の子たちは沙良を訝しみ、去ろうとする。


「いえ、私たちはあっちで食べるから——」


 けれど、沙良は彼女たちを逃がさなかった。どこからか、空いている机を勝手に持ってきて、


「一緒に食べよう! みんなで食べたほうが美味しいでしょ」

「い、いや、だから私たちはあっちで……ていうか、あなた誰よ。このクラスじゃないわよね」

「うん、一組。それにさぁ、この子自分から友達つくろうとしないから、友達になってあげてほしいな」

「いや、だから……」


 化粧をした女の子は困った顔をして、後ろの二人と顔を見合わせ、やがて折れた。

 机三つにぎゅうぎゅうにお弁当を置いて、五人は食べ始めた。


「凪はね、絵が上手いんだよ。今度、見せてもらいなよ。驚くから」

「ちょ、ちょっと沙良。言い過ぎだよ。べつに上手くなんて——」

「知ってるわよ。それより、あなたは誰なのよ……」


 結局、違う高校に行ってしまってバラバラになったけれど、中学の三年間、仲良くしてもらった。時折、あの子たちはどうしてるんだろうと気になることもある。


 涙が溢れだして止まらない。

 沙良がいてくれたから、私は独りじゃなかった。それを私は……。

 絵や事故のことばかり考えて、恨んで、いつしか当たり前になっている友達の優しさを、邪険にあしらった。ひどいことを言って、一方的に突き放した。

 凪は、もう闇に慣れた目で暗い部屋を見渡した。

 最低限の物があるだけの、味気ない部屋。紀雄はどう思ったのだろうか。

 飾っていた絵は、文化祭があったあの日に、全て捨ててしまった。

 それはもう、戻ることはないけれど……。


 『まだ、やり直せるんじゃねぇかな』


 優しいなぁ……。

 凪は涙を拭いて、絆創膏の貼られた右手を、左手で包んだ。

 震えはしない。ただただ、温かい。



 風に揺れたカーテンの隙間から、わずかに月の光が差し込んた。

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