第25話 記憶の固執

「ねぇ、いつも何書いてるの?」


 遠くでひぐらしが鳴いている。窓の向こうは眩しすぎるぐらいに明るい。

 凪はおもむろに、教室の中へと顔を向けた。途端に、たくさんの音が耳に飛び込んでくる。

 男子たちがふざけてどつき合い、机がガタガタと音を立てる。女子たちが一ヶ所に集まって、鼓膜を破りそうなほどの、甲高い笑い声を発している。教室の中は騒々しくて、元気で満ち溢れていた。

 まだ新しい、水色の制服。野暮ったくて、みんなの身体には少し大きい。これは……中学の時の制服だ。


「私を無視? 佐々原さん」


 明るい調子なのに、ひんやりとした声だった。

 凪が顔を上げると、いつもクラスを仕切っている女の子が、後ろに三人を従えて、目の前に立っていた。上手い具合に施された化粧は、不自然さを感じさせず、だけどしっかりと、大人びた印象を与えている。


「何を書いてるの?」


 女の子が凪の机に視線を落とす。そこには、見覚えのある懐かしいノートが開いていた。


「これは——あっ」


 凪が答えるよりも先に、女の子がノートを取りあげた。


「絵? 佐々原さん、いつも絵なんか描いていたの?」


 パラパラとノートをめくっては、後ろの女の子たちと笑った。その表情はどこか卑しくて、凪はせっかくの化粧が台無しだな、と思った。

 何が可笑しいのかもわからなくて、凪は首を傾げる。笑えるようなものを、描いた覚えはない。

 一通り見終えると、女の子はノートの端をつまんでプラプラさせながら、「ねぇ、佐々原さん」、と言った。


「休み時間にいつもこんなの描いてると、クラスで独りになっちゃうわよ」


 フフフ、と、後ろの女の子たちがまた笑う。

 乱暴に返されたノートを受け取って、凪はまた首を傾げた。

 独り? なんで絵を描いていたら、独りになるのだろう? 

 私は、独りになんてならない。だって、私には——。



 ふいに、眠りから覚めた。ぼんやりと霞んでいた視界が、段々と鮮明になる。部屋の中は薄暗く、カーテンの向こうで沈みかけた太陽の赤い光だけが、唯一の明かりだった。

 抱き枕の、胴体が長過ぎるダックスフンドを抱いたまま、凪は上半身を起こした。壁に掛かっている時計に目をやると、かろうじて短針が七を指しているのがわかった。

 どうやら自分は、五時間以上寝てしまったらしい。

 こうやって時間を無為に過ごして、最初の頃は虚無感に襲われたけれど、それももう慣れてしまった。今では常に、心の中に住みついている。

 すっかり学校に行かなくなって、生活サイクルが滅茶苦茶になった。夜は寝られずボーっとして、昼頃になると、気絶するみたいに眠りについた。そしてまた、夕方頃に目を覚まして、パンやお菓子を少しだけ口に入れ、ボーっとする。そんな日々の繰り返し。完全に色味を失った、腐りきった毎日。

 両膝を抱いて、ベッドの上にうずくまる。身体の中でダックスフンドの首が折れ、穏やかな表情のまま、ぐったりとなった。

 家の中には、自分以外いない。

 部屋に閉じこもるようになった凪を、両親は責め立てたりすることはなかった。だけど深夜、下の階で自分のことを話しているのが、時折聞こえてきた。心配する二人の悲しげな声を聞くのは、どうしようもなくつらかったけれど、自分には耳を閉ざすことなど許されないと思った。

 全部、自分が悪いのだ。

 ダックスフンドを抱く腕に、力が入る。

 ふいに右腕が震えた。


 学校を休んで、リハビリにも行かなくなって、ほとんど動かすことがなくなったので、石のように固くなっている。うまく力を入れられず、拳を作るのにも時間がかかった。手術を終えて、初めてギプスが外された時と、似たような感覚だった。

逆戻りだ。

 このままではいけないとわかっているのに、部屋を出る気力が湧かない。頑張ってリハビリする意味を、見いだせなかった。

むしろ今まで、なんで頑張っていたのか。それもわからなくなっていた。

 カチカチと、一秒一秒を刻み続ける時計の音が、いやに大きく感じる。凪は自分の膝に顔を埋めて、ぎゅっと目を閉じた。


 どれぐらいそうしていただろう。部屋の中に入り込んでいた赤い光が、次第に消えていって、影の面積が増えていく。

 このまま自分も、闇に溶けていけたら……。

 部屋の壁にピシピシと亀裂が入って、隅のほうから崩れていった。

 あのとき、死んでいたほうが……。

 思ってはいけないことだとわかっていた。だけど、思わずにはいられなかった。

 部屋は塵となって消え、凪は一人、闇の中に落ちる。しかし、ちょうどそのとき——



 遠くでバイクの音が聞こえて、凪は目を開けた。部屋はいつも通りで、白い壁のどこにも、ヒビなど入っていない。夕陽の光も、変わらず差し込んでいた。

 バイクのエンジン音が、段々と大きくなる。そして凪の家のすぐそばで、それは止まった。

 この団地に住んでいる人のものではない。原付スクーターに乗っている人はいるけど、明らかに音が違う。

 まさか……と、ベッドから降りた凪は、カーテンをちょっとだけ開いて外を覗いた。


「おーい、佐々原ぁ!」


 紀雄が、凪の部屋の隣、両親の寝室を見上げては、手を振っている。まるで見当違いだ。

 凪はカーテンを閉めると、ドタドタと七畳間の部屋を走り、ドアノブに手を掛けた。

 だけどふと、自分が思いきり部屋着のままであることを思い出して、固まる。


 凪は少し考えて、クローゼットから制服のブレザーだけを取りだした。

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