第23話 焼きつける太陽の下、ボールが楽しく飛び跳ねる。

 最後のテストが終わり、紀雄の心はこれまでにないほど、解放感で満たされていた。ふぅーと息を吐いて背にもたれると、さっそく凪にラインを送った。テストの点数がわかるのは一週間後だ。あっちもそのぐらいだろうが、べつに会えるのなら、会ってもいいだろう。会わないようにしようという取り決めはとくにしていないし……。

 好きだという気持ちに気づいて、だけど会えないというのは、それだけで拷問というものだ。初めて知った、苦しみだった。

 それに正直、テストの点数にも自信がある。毎日勉強して、問題も全て、躓くことはなかった。紀雄にとって、過去最高の出来となるだろう。向こうは低かった教科三つで、こっちは高かった教科三つだ。負ける気はしなかった。それを思うと、余計に会いたくなる。

 しかしやはり、すぐに返信がくることはなく、紀雄は、まぁいいか、と、教室の隅にいる阿津谷のほうに、目を向けた。

 面倒くさいが、やるべきことはほかにもある。萩尾先生に爆竹を踏ませ、喫茶店に連れていかれて話したことを、一応考えていた。

 紀雄はスマホをポケットにしまって、椅子から立ち上がった。


「おい、阿津谷。お前、今からヒマか?」


 見下ろす紀雄に、何やら分厚い本を開いて勉強していた阿津谷が、その手を止めた。書いていたノートは、ちらりと見ただけでも、難しい漢字で埋め尽くされていた。


「え? なんで……?」


 見上げる阿津谷の目には、警戒と不安が入り混じっていた。机の上で、両手首を忙しなく揉んでいる。


「練習するぞ、練習」

「練習ってなんの?」

「決まってんだろ。クラスポのニコニコバレーだよ。練習して、金場と瑠璃川の野郎をぶっ飛ばすんだ」

「……え? 出ないんじゃなかったの? たしか伏見さんが、もうべつの人に頼むって、言ってたけど」

「なにぃ⁉ そうなのか⁉」


 思わず大声が出てしまった。教室の人間が一斉にこちらを振り向き、その中に芙雪もいて、慌てて名前を呼んだ。


「お、おい! 伏見!」

「私になんの用? これから職員室に行かなきゃいけないんだけど」


 クールに訊ねる芙雪の手は、何かの書類を持っていた。学級委員の仕事なのか、生徒会の仕事なのかわからないが、テストは終わったというのに、まだまだ忙しそうだ。


「なぁ、ニコニコバレーの阿津谷のペア、もうほかの奴に代えたのか?」

「あぁそれ。大丈夫、代えてないわよ。まだあんたのまま」


 それを聞いて、「よかった」、と小さく呟いた。萩尾先生に言われた正しい方法というものが、今はこれ以外に思いつかなかった。


「なに? あんた出るの?」

「出る。いろいろ理由があってな、出ることにした」


 へぇ~、と、珍しく芙雪が感心したような表情になった。紀雄は阿津谷のほうに向き直って、話を再開した。


「それより、どうなんだ? ヒマなのか? ヒマじゃねぇのか?」

「えっと……十五時までなら……」


 紀雄の後方にある時計をちらりと見て、阿津谷は恐る恐るといった様子で答えた。


「よし、三時間はできるな。充分だ」

「だけど、どこで練習するの? テストが終わって、部活も始まったと思うから、体育館は使わせてもらえるかどうか……」

「そうなのか?」


 紀雄は芙雪を見た。彼女なら、確実な情報を持っているだろう。


「そうね。バスケとバレーが、試合が近かったはず。あと、バドミントンも。中庭とか運動場も、ほかの部活で使えないでしょうね。みんな、テストが終わるこの日を、心待ちにしていただろうから」


 困った。それは考えていなかった。紀雄は腕を組んで、しばし頭を巡らせた。

 そして一つ、良い場所を思いついた。


「あそこだ! 阿津谷、お前まだ昼飯食べてねぇだろ? 俺は一回家に帰るから、お前その間に食べとけ。そんで、バレーボールとか練習に必要なもん用意しといてくれや」

「……いいけど、どこに行くの?」

「隣町だ。俺のバイクに、お前も乗せていく。そのために、ヘルメットを取ってくるから」

「えぇ~……」


 阿津谷は明らかにひいている。しかし紀雄は構わずに、さっさとカバンを手にとった。芙雪は相変わらず感心している様子で、安堵の声を洩らした。


「それにしても、よかったわ。あんた、もうホントにサボりそうだったから、ほかの奴に頼もうとしてたのよ。でも吉城が出るって言いだすだろうから、そのままにしといてくれって言われて。それもずっと、半信半疑だったんだけど」

「そうだったのか。俺は出る。よかったな、学級委員」


颯爽と歩きだして、教室を出ようとしたところで、「ん?」、と疑問が浮かんだ。


「ちょっと待て、それ言ったのって誰だ?」


「担任の萩尾先生だけど。珍しいでしょ、あの人がそんなこと言うなんて」


 教科書の入ったカバンが、どさりと床に落ちる。紀雄はそのとき、ようやく気づいた。

 自分が、先生の掌で踊らされていたことに。



 ***


「それでね、ニコニコバレーのルールなんだけど……聞いてる?」

「聞いてるよ。続きを話せ」


 阿津谷をバイクの後ろに乗せ、いつものダムに来た紀雄は、アスファルトに胡坐をかいて、不貞腐れながらコンビニで買ったおにぎりを頬張っていた。

 萩尾先生の勘違いを利用し、どうにか退学を免れたと思っていたが、本当はそうではなかった。

 あいつは最初から、そんなことをするつもりはなかったんだ。あのとき、俺が顔面蒼白になっていることに気づいて、わざと退学という言葉をちらつかせ、阿津谷の件に巻き込ませた。正しいやり方を自分で考えろなどと言って。あえてニコニコバレーに出ろと言わなかったのが、ムカつくほど巧妙だ。

 しかも、阿津谷のことで金場たちに爆竹を仕掛けたのは、紀雄自身だ。本当は腹が立っていたからだなんて言えるわけがなく、もはやニコニコバレーに出ることを撤回することはできなかった。

 いつの日か、芙雪と交わした会話を思いだす。自分のクラスでイジメが起きているのは喜ばしくないし、もしそれをなくすことができたら、自分の評価も上がる。そして仮に止めることができなくても、問題児である吉城紀雄をクラスポに参加させることができれば、それでも評価が上がる。

 それは、萩尾先生も同じなのだ。

 利用してやったつもりが、逆に利用されていた。


「あの散らかしヘアスタイルがよぉぉぉ!」


 紀雄はムシャムシャと五つのおにぎりを食い終わると、膝を叩いて立ち上がった。


「上等だ! やってやる! やってやるよ! この怒り、全て金場と瑠璃川の野郎にぶつけてやるぜ!」


 そんであいつらをニコニコバレーでギタギタにして、俺を出させたことを後悔させてやる! 正しいやり方なんだしなぁ!


「いや、あの、吉城くん……? やっぱり、僕の話聞いてないよね?」


 隣で体操座りをしている阿津谷がボソッと言って、紀雄はふぅふぅと鼻で息をしながら、


「いいから、さっさとルールを説明しろ!」

「……いや、今言ったんだけど……」


 紀雄が睨むと、阿津谷はハハッと苦笑する。そしてまた、一から説明を始めた。


 ニコニコバレーは、まさにフィールドが違うだけのビーチバレーだった。違うのは、一人が連続でボールをトスしてもよく、敵のフィールドに返すのに、三回ではなく五回までボールに触れていい、ということ。そしてサーブは必ず、交互に行う、というぐらいだった。あとは二対二なので、フィールドが少し狭くなるらしい。

 おかげで、ダムの駐車場の広さは練習するのに不足なかった。四方のうち、木柵の向こうとダムのほうにだけ、ボールを飛ばさないように気をつければいい。できるだけ駐車場の端、森側に寄って、二人は練習を始めた。

 まずはトスの練習、それから、互いのサーブとレシーブの実力を確認した。

 意外にも、阿津谷は上手かった。レシーブは苦手のようだったが、サーブとトスは間違いなく、素人のそれではなかった。そしてレシーブにしても、紀雄のほうがさらにひどく、二、三度、森の中にボールを飛ばしてしまった。

 いつもなよなよしていて、勉強ばかりしている印象だったので、紀雄は目を丸くして驚いた。


「お前……経験者?」

「小学校から中学の二年まで……一応……」

「マジかよ⁉」


 紀雄はぐっと、拳を握り締めた。

 これは勝てる! 勝てるぞ! 金場は野球部で、瑠璃川はサッカー部だ。敵じゃねぇ!


「もう楽勝だな。こいつはもしかすると……優勝も狙えるんじゃねぇか」


 そうなれば、俺は不良から一転して、学校中の人気者だ! ムフフ……。


「お、大袈裟だよ! ほかのクラスだって、バレーボール経験者は入れてくるだろうし」


 阿津谷が大仰に手を振って否定し、紀雄は「ネガティブな奴だな、お前」、と肩をすくめた。

 二人はそれから何度かラリーを続け、一時間も経った頃、おにぎりと一緒に買っておいた水を飲んで、一息ついた。

 山の中なので、下界よりは気温が低いが、陽射しがアスファルトを照りつけているため、充分暑かった。

 汗ばんだシャツをつまんで、ぱたぱたと微風を起こす。これほど真面目に運動したのは久しぶりだった。バッグからスマホを取ると、時間はすでに、十四時半を回っている。阿津谷は十五時までと言っていたから、十分前には、ここを出たほうがいいだろう。

 隣で水を飲んでいる阿津谷を見て、紀雄は訊ねた。


「バレーボール、なんでやめたんだ? 飽きたのか?」

「部活を、飽きたからやめるって人、そんなにいないと思うよ」


 阿津谷が微笑を浮かべる。こんなふうに彼が笑うのを見たのは、初めてな気がした。


「ふーん、そうなのか。部活なんて一度も入ったことねぇから、俺にはわからねぇや」


 中学も高校も、したいと思うものがなかったし、なにより顧問や先輩から指図される形でやるのは、紀雄の性格に合わなかった。スポーツは今みたいに、自分らで気ままにやるぐらいが、紀雄にはちょうどよかった。

 二人の間に、数秒沈黙が流れる。阿津谷はペットボトルの中のお茶を眺め、やがてぽつりと言った。


「……中二の時に、母さんが亡くなったんだ。それで忙しくなって……続けられなくなった」


 予想外の答えに、紀雄はどう返したらいいかわからず、結局、「そうだったのか」、とだけしか発せなかった。


「ここって、いい場所だね」


 阿津谷の声が、不自然に明るくなる。話題を変えようとしているのがありありと伝わったが、紀雄にとっても広げづらい話だったので、そのまま乗っかることにした。


「そうだろ。俺のお気に入りの場所だ」


 凪との出会いの場でもあるから、できればほかの人間は連れてきたくない、という想いもあったが。

 そして紀雄は、そういえば、と思い出した。もう一度スマホを手に取って、画面を点ける。凪からの返信は、まだ来ていなかった。

 再び沈黙が訪れ、気まずくなった紀雄は立ち上がった。そのとき阿津谷が何かに気づいて、「あっ」と声を出した。彼が見ているのは紀雄の腕だ。


「血が出てる。ちょっと待って。ボールを準備している時、ついでに教室の救急箱から、少し拝借したんだ」


 そう言って、阿津谷が自分のカバンを開いて、絆創膏と包帯を取りだした。


「いや……絆創膏だけでいいよ。ていうか、しっかりしてんな、お前」


 無理矢理上体を投げだして、阿津谷のボールを拾った時に怪我したのだろう。

 ペットボトルの水で軽く血を洗い流してから、阿津谷から絆創膏を受け取った。雑に貼ったそれを見ていると、また凪の顔が頭をよぎった。コンビニで遭遇して、頬に貼ってもらったあの日のことは、今でもまざまざと覚えている。一生、忘れることはないだろう。

 返信はまだ来ていない。

 紀雄はスマホで時間を確認すると、「再開するぞ」、と阿津谷に言った。あとわずかしか練習できないが、悶々としてくる心を、少しでも何かで紛らわせたかった。



 しかし凪からメールが返ってきたのは次の日で、しかも紀雄の悶々は、さらに長い間ずっと続くこととなった。


『ごめんなさい。今は体調が悪いので、テストの点数がわかってから、また連絡します……。』

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