第22話 泣く女
すっかり梅雨は明け、夏の日差しがじりじりと照りつけてくる。ただ歩いているだけなのに、身体中から汗が流れて、すぐにでも座りこんでしまいたい衝動に駆られる。そんな暑さの中でも、遠くでは蝉が元気に鳴いていた。
絢斗との一件以来、凪は沙良と会いたくなくて、一週間学校を休んだ。仮病をつかって休むなど、初めてだった。母に嘘をつくのも気が引けたけれど——陳腐な虚言だとバレていることもわかっている——、もう全てがどうでもよかった。
両親は毎夜、事故のことばかり話すようになった。探偵を雇うことにして、お金のことを言い合いになりながら、話していた。しかし凪の前ではその話は全くせず、そんな態度は全く見せず、二人とも明るく振舞っている。それが、たまらなく嫌だった。沙良だってそうだ。自分に気を使っているように感じてしまう。
だからもう、自分は自分で好きにしてやろうと思った。どうせ、仮病で学校を休んだところで、誰も咎めてはこない。
だけどそうやって逃げた自分も嫌で、部屋に籠ってずっと勉強をしていた。テスト範囲はわかっていたから、赤点を取ることはないだろう。紀雄との勝負もあるが、正直負ける気は一切しなかった。
逃げておきながら、時折足を止めては後ろを振り返っている。紀雄のように、きっぱりと貫くこともできない。
久しぶりの登校に億劫になって、足は枷がついているみたいに重いのも、クラスのみんなの、ヒソヒソ話の対象にされるのではないかと、びくびくしているからだ。
つくづく中途半端で、情けない女だと思う。
凪は額から噴き出る汗を、タオルで拭った。校門はすぐそこで、足はさらに重くなった。
教室に入ると、みんな一様に驚き、すぐになんでもないような顔をして、取り繕った。凪も気にしていないというふうに顔を上げて、自分の席についた。一番に声をかけてきたのは、やはり沙良だった。
「凪、大丈夫なの? あんたが一週間も休むなんて……ラインじゃ、大丈夫しか言わないしさ」
声がいつもより低い。本気で心配してくれているのが伝わって、痛かった。
凪は笑顔を作って答えた。
「ごめん、調子悪くて、ずっと寝てて」
また、嘘をついた。
痛みがひどくなって、凪は沙良の瞳から目を逸らした。窓の外に佇む裏山を眺めて、
「でもほら、今日からテストでしょ。さすがにもう休めないなぁって」
「ホントに? 私、瑠璃川にもメールしてみたの。そしたらあいつ、文字から伝わってくるぐらい機嫌悪くて……何かあったんじゃないの?」
絢斗の名前が出て、脳裏にあの日のことが蘇った。凪の表情が無意識に歪んだ。
「……絢斗とは、きっぱり別れたの。関係ないから」
「別れたって……」
うるさい。
テストの前に話したいことじゃない。
「じゃあ、なんで? もしかして、あの男がなにか——」
「沙良、もうテスト始まるから。あんまり質問攻めにしてやんなよ」
羽流子が後ろから沙良の肩を掴んだ。相変わらずのポニーテールで額を出した、眼力のある彼女は、そこらの男子よりもよっぽど格好よかった。
「凪だって、少しでも復習したいでしょ。今はみんな、とりあえず赤点とらないよう、テストに集中しよう」
そう言って、羽流子が沙良を連れていってくれて、凪は心底ホッとした。さばさばとした羽流子の性格が、今は本当にありがたかった。
テストは三日間あり、一日三教科だけ。最初は、いきなり苦手な数学だ。つまり、紀雄と勝負する教科の点数でもある。
凪は気を紛らわせるために、教科書とノートを開いては、一心に読み込んだ。
数学は、自分でも意外なほどするすると解けた。むしろ二限目の、得意であるはずの国語のほうが、いつもよりできなかった。三限目の生物は、ほとんど暗記がものをいうので、最初からなんの問題もなかった。
そうして最後のチャイムが鳴ると、凪は素早く筆箱をしまって、席を立ちあがった。まだ一日目だからか、ほかのみんなも同様、はっちゃけることなく、厳しい表情で教室を出ていく。凪もその中に混じって、学校をあとにした。けれど——
「凪!」
校門をくぐって、田んぼ道まで来た所で、案の定、沙良に捕まった。
「ちょっと待ってよ。そんなに急いで……」
沙良はなぜか泣きそうで、凪は目を見開いた。慌てて笑みを浮かべて、「家に帰るだけだよ」、と言った。
「体調、まだ少し悪いから——」
「ウソつかないでよ。中学の頃から一緒なんだから」
「……ごめん。でも、ホントに大丈夫だから。早く家に帰って、明日の勉強しないと、でしょ」
「私は、休んでた理由を教えてほしいの。ねぇ、もしかして、あの男が関係してるんじゃないの? 吉城紀雄とかいう、あの不良が」
紀雄のことを非難されて、凪の心がぴくりと反応した。
「吉城くん? 吉城くんは関係ないよ。良い人だし、結構優しいし」
「そんなの、成績優秀だった子が悪い男に染まっていく、典型的な台詞じゃん!」
沙良は血相を変えて、凪の左手を握った。
「あんなのと遊ぶのはやめたほうがいいって! なんだか、凪が遠くに行っちゃう気がして——」
「しつこいよ! なんで沙良も絢斗も、吉城くんのことよく知らないのに、そんなこと言えるの!」
なにより、沙良の口から人の悪口なんて聞きたくはない。食卓で両親が、事故の相手方を中傷している場面と、重なってしまった。
血流が速くなって、全身から頭へと駆け巡るのを感じた。周りが田んぼ道で誰もいないことも、より一層、凪から冷静さを奪った。
ずっと溜めていたものが、心に浮かんだ言葉が、選ぶ暇もないほど次々と、口から飛びだした。
「事故があって、右手がうまく動かせなくなって、絵も描けなくなって、でも忘れたいのに忘れられない! できればもう学校なんか行きたくない! 傷痛そうって思われる! みんなに気を使わせていることが嫌なの!」
支離滅裂。しかし自分でも、もう止められなかった。
つらくて、痛くて、苦しい。全てを吐きだしてしまえ。
「だからもう……もう放っといてよ! 迷惑なの! 沙良のそういうとこ、大嫌い! もう話しかけてこないで!」
はぁはぁと肩を上下させながら、沙良を睨む。そして凪は背を向けると、足早に田んぼ道を歩いた。
「なんで……なんでよ。なんでそんなこと、ずっと……凪のバカぁ!」
苛立ちが募って、凪は飛んでくる言葉を無視し続けた。これでいいんだと、自分に言い聞かせ続けた。
それから二日間、テストを受けるために学校には行ったけれど、沙良と話すことはなかった。いや、羽流子以外、誰とも話さなかった。
羽流子は必ず挨拶をしてきたが、何も訊ねてくることはなかった。沙良から聞いて、全て知っているだろうに。
その優しさに支えられ、しかし同時に、息ができないぐらい痛かった。
テストが終わると、凪は全く学校に行かなくなった。
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