第21話 場違いな喫茶店、二人は互いにほくそ笑む。

「お前は、自分が何をしたかわかっているのか?」


 もう何度目かの、聞き覚えのある台詞。

 けれど今回は静かな口調で、怒られているというより、問われているような言い方だった。ずっと黙ったままの紀雄に、萩尾先生はため息を吐いて、「ついてこい」、と背を向けた。

 きっと、警察につき出されるのだろう。矢悠はとっくに逃げたようだ。どこにも見当たらない。

 紀雄は絶望し、放心状態のまま、先生のあとに従った。

 ……終わった。確実に終わった。俺の高校生活、たった三か月ぽっちだった……短かったなぁ。

 天を仰ぐと、目に映るのは闇に座す満月。その光はなぜ、見る人の心を感傷的にさせるのか。


 あぁ……さよなら青春。さよなら高校生活。さよなら……佐々原。

 テスト勝負、できなくてごめんな。


「入れ」


 十分ほど歩いただろうか。萩尾先生に連れられて、項垂れたまま歩いていた紀雄は、コンクリートのスロープを進んで、建物の中へと入った。ドアが自動で開いた瞬間、ひんやりと冷たい風が頭を撫でた。

 いらっしゃいませ、という女性の明るい声が聞こえて、紀雄は思わず頭を上げる。そこは交番や警察署などではなく、有名な大手チェーンの喫茶店だった。

 ウッド調のテーブルや椅子、ほんのり抑えられた天井の照明さえお洒落だ。男二人で入るには、いささかお洒落すぎるほどに。

 な、なんだ、これは……。なぜ喫茶店に?

 窓際のテーブルに腰を落ち着かせ、コーヒーを二つ注文すると、萩尾先生は自分の足元に目を落とした。


「貴様のせいで、スーツの裾が焦げた。靴も台無しだ」


 夜八時の喫茶店。テーブルの向こうには担任の教師。未だに状況が理解できない紀雄は、ただただ困惑していた。


「お前は、月の裏側を見たことがあるか?」


 窓から覗く満月を見上げて、先生は言った。突拍子のないその問いに、紀雄は眉根を寄せた。

 月の裏側……?


「あの月の裏側には、もしかしたら生物がいるかもしれん。もしかしたら、目が眩むほどの美しい輝きを放つ、宝玉が眠っているかもしれん」


 何を言っているのだろうか。月なんて、とうに調べられているはずだ。

もはや、想像するまでもない。


「阿津谷がなぜ、自分へのイジメを気にしていないのか。それでもなぜ学校に来るのか、お前は知っているか?」


 急に話が変わり、紀雄はますます眉間の皺を深くした。ちょうどそのとき、「お待たせしました」、と、女性の店員がコーヒーを持ってきた。

 彼女が去ってから、萩尾先生は再び、言葉を続けた。


「俺はあいつに言ったんだ。無理して学校に来る必要はないと。教師にあるまじき発言だがな。……もう一度訊こう。お前は、あいつがなんで学校に来るのか、その理由を知っているか?」


 萩尾先生の目は、ずっと紀雄の目を捉えて動かない。彼の目尻に皺があることを、初めて知った気がした。

 数秒経って、紀雄はようやく口を開く。しかし、萩尾先生への問いに対しての答え、ではない。


「なんで、阿津谷のほうなんですか? イジメ、気づいてんならまず止めるべきだと思いますが」


 つい口調が尖る。気づいていて無視していたのだと思うと、腹が立った。


「言ったよ。クラスの何人が関与しているのかはわからないが、クラスを観察して、金場が主体であることは察した。なんの証拠も持っていない俺の話だ。行儀よく聞き流されたがな……」


 先生がカップを手に取り、コーヒーを啜った。紀雄も喉は渇いていたけれど、とても飲む気にならなかった。いつ退学と言われるのかという心配と、阿津谷の件による苛立ちが、複雑に心を行き来していた。


「情けないが、俺には阿津谷に話を聞くぐらいしかできなかった。だがお前は違った。阿津谷のイジメを知って、あの二人を懲らしめようとしたんだろう? お前があの二人に絡む理由が、ほかにないからな」


 先生の発言に、紀雄は目を瞬かせた。希望だ。

 これはもしかしたら、退学を免れるかもしれねぇ。ハゲメガネの情に訴えてみよう。


「そ、そうです。イジメなんて、俺、許せなくて……」


 紀雄はわかりやすく頭を下げて、その下でにやりと口角を上げた。

 本当は、そんな高尚な動機ではない。ただ自分が、あいつらにムカついただけだ。


「お前が俺にしたことは退学ものだ」


 ついに退学という言葉が出て、紀雄は一瞬ぎょっとする。身構えて、あとの言葉を待った。


「今回、お前がとった方法は間違っている。だから次は、正しいやり方であいつらと戦え。阿津谷の味方になってくれ」

「正しいやり方……?」

「それは、お前が自分で考えるんだ。そして……自分の目で見て、耳で聞いて、知れ。お前は月の裏側を、自分で直接見たことはないはずだ」


 言っている意味がわからず、紀雄は首傾げる。そうしている間に、先生はコーヒーをもう一度啜って、おもむろに立ち上がった。


「あまり夜が遅くなると、家内に怒られる。悪いが、先に帰るぞ。お前も、それを飲んだら早めに帰れ。金は払っておく」


 先生はレジでお金を払うと、最後に振り向いて、言った。


「お前、最近変わったな。朝から学校に来るようになったし、授業も真面目に受けている。タバコもやめただろう」

「そ、それは……」

「教師を舐めるな。気づいていないわけがないだろう。本当は、それも三者面談で話に出してやろうと思っていた」


 そうだったのか。あぶねぇ……。


 紀雄はホッと胸を撫でおろし、先生が店を出ていくのを確認すると、ようやくコーヒーに手をつけた。少し冷めていたが、適度に苦みが効いて、充分美味しかった。

 本格的に、阿津谷のことをどうにかしなければならなくなったが、とりあえず退学は免れた。それはつまり凪に、クラスメートに爆竹を仕掛けて、挙句、先生にぶちかましたという間違いなくひかれる事実が、知られる可能性はないということだ。

 そして、ちゃんとテスト勝負ができるということでもある。


 お前、最近変わったな。


 先生の言葉を、紀雄は否定できなかった。否定するつもりもなかった。自分でも変わったと思うし、そのきっかけは全て彼女だと、もうわかっていた。


 お店の自動ドアが開く。足をほつれさせながら、矢悠が飛び込んできた。店員と客が、何事かとそっちを見る。だが矢悠は構わずに、紀雄のテーブルへと走った。


「先輩! 大丈夫でしたか! オレだけ逃げて、すみませんでした! 学校、ヤバいですよね? あの、これ。爆竹まだ残ってるんで、今からでもあの先公脅して——」

「矢悠……俺マジで、あいつに惚れたみてぇだ」

「は? はい?」


 矢悠は先走ってなどいなかった。

 自分はすでに、走りだしていたのだ。


 紀雄はコーヒーをぐいっと飲み干すと、席を立った。

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