第10話 その笑顔だけで、世界は変わる。
沙良と矢悠が帰って、コンビニには紀雄と凪の二人だけになった。店内に申し訳程度にある丸テーブルについて、凪は横で美味しそうにパンを食べている。今日の授業で疲れたらしく、糖分が欲しくなったのだそうだ。それにしても食べているのは、なんとあの『ホイップクリームと板チョコ入りの砂糖振り振りクッキーメロンパン』だから、驚きだ。
……佐々原、甘党だったんだな。
紀雄は頬杖をついて、満足げにメロンパンを頬張る彼女の様子を眺めている。
フワフワとした甘い匂いが、二人を包む。
ふいに、そういやこれって傍から見りゃあ、違う高校同士のカップルだよな、なんて思い出して、途端に額から汗が噴きでてきた。
凪はまだ両手でパンを持っているが、もう食べ終わりそうだ。
なんか、き、気まずい……。なんて話を切りだせばいいんだ? そうだ、とりあえずタバコ吸おう。あのトンデモ後輩のせいで今日はまだ一服もできてねぇし。
一旦、心を落ち着かせようと、ポケットからタバコを取りだす。まるで、乾いた喉に飲み物を与える時のような、そんな面持ちで口に咥えた。のだが……。
ここ、店内じゃん! 禁煙じゃん!
渋々、紀雄はタバコを箱に戻す。すると凪が、「ハァー、美味しかった」とパンの感想を述べて、紀雄は良いタイミングだとばかりに、「じゃあ、ちょっと外出ようぜ」と促した。
やった! これで吸える!
灰皿の設置されている場所に移動して、紀雄はもう一度タバコを口に咥えた。のだが……。
「私、前に吸ってみてから、もっとタバコ嫌いになったんだけどなぁ」
凪があからさまに嫌な顔をして、紀雄を見てきた。
「知るかよ。大体、吸いたいって言いだしたのはおま——佐々原だろ。なんで俺が……」
お前と呼ばれるのを嫌がっていたことを思い出し、咄嗟に言い直す。手のほうは構わずに火を灯す動作を続けた。
「タバコ、嫌いなんだけどなぁ」
しかし依然として、凪は嫌な表情を崩さずに、むしろ迫ってきた。
「タバコ、嫌いなんだけどなぁ」
「あぁもう! わかったよ! 吸わなきゃいいんだろ、吸わなきゃ!」
ったく、なんなんだよ、一体。
内心悪態をついて、惜しみつつもタバコをポケットに戻していると、凪が「聞いてくれるんだ……」、と呟いた気がした。
「顔、また怪我増えてない?」
「え? ああ。昨日帰ってから、ゲーセン行ったら絡まれてよ」
いや、絡んだのは俺からだったっけ? ていうか、なんだ、いきなり……。
「そうだ。私ね、今日は絆創膏持ってるんだ。はい」
カバンをがさごそと探って、凪はそれを取りだした。
「いや、はいって言われても……俺、鏡とか持ってねぇし」
顔の傷は結構貼りづらい。傷の大きさがわからないし、粘着部分の方向を間違えるとすぐ剝がれてしまう。
「……貼れって?」
「え? なに?」
「しょうがないなぁ」
「へ? ちょ! なにすん……だよ……」
急に凪が近づいてきて、紀雄は焦る。その手を払うよりも先に、彼女がそっと、頬の傷に絆創膏を貼った。紀雄は固まって、ただただ呆然となる。
「早く治るといいね」
凪が笑う。
無邪気な、屈託のない笑みだった。
可愛いだという言葉の使い方を、初めて知った。しかし、もちろん口に出して言えるわけもなく、紀雄はただ顔を逸らして誤魔化した。
「べつに、そんな大した怪我じゃねぇし……」
凪に視線を戻しては逸らす。なぜだか、また気まずくなってきた。
ちょうどその時、凪のカバンから音が鳴った。
「あっ、ごめん電話だ。誰からだろ——沙良だ!」
凪が携帯を耳に当てて、コンビニにいた女の子と話し始めたので、紀雄はホッと息を吐いた。
くそぉ、やべぇぞ。気まずい。気まずいよ。なんか、この女といると、たまに思考が停止しちまう。今のうちになんか話題を考えろ、考えるんだ、俺。佐々原は——
沙良と楽しそうに話す彼女を見て、紀雄はふと気づく。
……違う。ホントは、話したいことは一杯あるんだ。絵のこととか、ブレザーを着てることとか。友達とか……彼氏のことも。なんで俺はこんなに……。
「ごめん、なんか沙良が、今から会えないかって言ってきて。また戻ってくるみたい。私のこと心配してたけど、あの子も今日、様子が変だったんだよね。って……吉城くん聞いてる?」
名前を呼ばれて、紀雄は咄嗟に頭を振る。浮かんでいた質問たちを追い払った。
「え? あ、ああ。佐々原の様子が変だって、サキって子が騒いでたんだろ?」
「微妙に違うよ! 沙良! さっき一緒にいた子!」
「そ、そう沙良だった。ワリィ、ワリィ……」
おかしい。どんどん気まずくなっていく。
手のひらに滲む汗を、ゴシゴシと制服で拭った。
「吉城くんも変だよ。なんか……みんな変だね。アハハッ」
凪は笑って、「ごめんね。また会えたのに」と付け足した。
そうだ、また会えたんだ。また会えたのに……。
「なぁ……明日もさ、どっかで会えねぇかな?」
自分でも無意識だった。
言葉の意味に気づいて、しまったぁ! と後悔を始めた時には、もう凪が答えていた。
「え? いいけど」
……え? いいの?
「あっ! じゃあ昨日のダムの所に行くね。ヘルメット持ってきてよ。バイク乗せて!」
流れるように話が進んで、紀雄はポカンと口を開けた。
それから、「学校終わったら連絡するね。って、連絡先知らなかった」と言われ、ラインも交換して、あっけなく繋がりもできた。
「じゃあ、また明日!」
凪が手を振る。
「おう……」紀雄は小さく手を振り返すと、照れる自分を隠すように、ブォォォン! とバイクを鳴かせた。
明日。
退屈でつまらなかったそれが、初めて楽しみになった。初めて、訪れることを嬉しく思った。
凪に貼られた頬の絆創膏、その感触が、いつまでも消えなかった。
駐車場を出る所で、沙良ともう一人、紀雄と同じ制服を着た男子とすれ違ったことには、全く気付きもしなかった。
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