第11話 叫び
『明日もさ、会えねぇかな……』
いきなりどうしたんだろ、吉城くん。何か用でもあったのかな?
凪は駐車場のフェンスに寄りかかって、明日のことを考える。バイクに乗れると思うと、少しワクワクした。
沈みかけた夕陽に、生温い風が吹く。雨の匂いも微かに漂ってくる。
朝の予報では、降水確率はゼロだったはずだけど……。
早く来ないかな、沙良。
そう思って、駐車場の出入り口に目を向けると、ちょうど彼女が戻ってきたところだった。その隣に、見覚えのある男を連れて。
「なんで、絢斗が……」
凪は戸惑い、同時に心を黒い雲が覆い始める。
「久しぶりだな、凪。少し話そうぜ。近くのファミレスでも行ってよ」
紀雄と同じ高校の制服を着た男の子が、くるりと背を向けて歩きだす。有無を言わせないその態度に、そういえばこういう性格だったことを思い出した。
あとをついて沙良の横に並ぶと、「なんで絢斗を連れてきたの?」と、問い詰めた。
「瑠璃川、ずっと私に電話とかメール寄越してたんだ。なんで凪にフられたのか、納得してないみたいでさ、心配もしてたし」と、沙良は説明して、
「あんたが元気ないの、これが原因なのかなって思って。別れた理由はわからないけど、瑠璃川なら、凪を元気づけられるかもしれないって。凪はさ、瑠璃川が嫌いになって、別れたわけじゃないんでしょ?」
「そうじゃないけど、でも絢斗は関係ない。私は、むしろ……」
もう会いたくなかったのに……。
なんで、事前に言ってくれなかったの?
そう訊ねようとして口を噤む。
二人の間には話せないことができた。
きっとこれもそうなのだろう。凪の元気がないのは、事故のことなのかもしれない、絵のことなのかもしれないから、訊けなかったのだろう。凪も確かに、絢斗と別れた理由を沙良には話していない。また、心配をかけると思ったから……。
何かにヒビのはいる音が、聞こえた気がした。
「沙良、悪いけど外してくれるか。凪と二人で話したいんだ」
「あんたねぇ……まぁわかってたからいいけど。じゃあ凪、明日学校でね」
凪は何も返さない。内心怒っていた。なんで勝手に絢斗を連れてきて、勝手に去っていくのか。まだ、絢斗が自分を元気づけてくれる存在だと思っていることに。
そして元恋人同士の二人は、無言のままファミレスへと歩いた。
絢斗と付き合いだしたのは、中学三年生の頃だった。同じクラスになって、すぐに友達になって……ある日突然、告白された。最初は戸惑ったけれど、絢斗はイケメンで、サッカーも上手くて、男女問わず学校中から人気があったから、そんな人から告白されたのは、正直に嬉しかった。それまで誰かと付き合ったことはなく、恋愛もまだよくわからなかったけれど、興味はあったので、凪は二つ返事で頷いた。
ひと月も経てばクラスの皆に知れ渡って、茶化されたりもしたが、楽しい一年間だった。でも、中学を卒業してからは……。
「ブレザー脱げよ。暑いだろ? 傷なら、俺は気にしねぇって」
夕食時でそれなりに混んでいる店内に入り、店員に勧められたテーブルについて、絢斗が開口一番に言ったのは、それだった。
再び、黒い感情がせり上がってくる。
こんな場所で、傷のことを口に出さないでよ。あの時だって……だから私は……ブレザーを着るようになったんだ。
右腕からギプスが外された頃、久々に絢斗から連絡がきて、家にお邪魔した時だ。
凪は事故や絵のこと、学校のことを話したかった。忙しくてつらい毎日のことを、聞いてほしかった。苦しみや痛みを和らげてほしかった。けれど、久しぶりに会った絢斗の第一声は……。
凪の右腕の傷を見た瞬間、眉をひそめて、
「うわっ、結構傷大きいじゃん。痛々しいな、大丈夫か?」、だった。
もちろん同情しての言葉だったのだろうけれど、凪の心に、その場面は嫌な記憶となって刻みこまれてしまった。
自分じゃ気にしてなかったのに……。
それから凪はブレザーを持ち歩くようになって、家か学校の中にいる時以外は、着ていないと嫌になった。
道行く人たちに、「うわっ、大きい傷。痛々しい」なんて、眉をひそめて思われているのかもしれないのなら、隠したほうがいいんだと思うようになった。
凪はブレザーを脱がないまま、絢斗と対面する。
「具合は良いのか? 沙良が心配してたぜ」
「うん、大丈夫」
「そうか。で、なんでいきなり別れたいなんて言いだしたんだよ。もう付き合えないって、それだけじゃ納得できねぇよ」
いきなりそれ……建前だけの心配じゃん。そう吐き捨てたいのをこらえて、「なんで今さら……もう二週間以上経ってるのに」とだけ返した。
決して、喧嘩がしたいわけじゃない。
「チッ、お前が電話もメールも無視するからだろ。それに俺は、サッカーの推薦で高校入ったんだ。部活忙しいんだよ」
お前って名前じゃないし……。
何度指摘しても絢斗は聞いてくれなかった。イラついたときに舌打ちする癖も、サッカーをしている故なのか、物を足蹴にして扱うことも。忙しかったという話だって……。
「部活とか、ホントにそれが理由なの? 私が入院してた時だって、絢斗は一度も来てくれなかった」
あの時は、サッカーの練習が大変なんだろうなって言い聞かせてたけど、でもホントは来てほしかった。一度だけでも来てくれれば、それだけでだいぶ気持ちは違ったはずだ。布団の中で、涙を流す夜は減ったはずだ。
「……悪かったよ。でも、お前だってそれ、今さらじゃねぇか」
凪はただ俯く。違うと反論したかったが、相手の言う通りだとも思った。
ホントに今さらだ。何もかも……。
「さっきのコンビニですれ違った、白黒のバイク」
絢斗がそう口に出して、凪は思わず顔を上げる。
「学校で見たことある。俺と同じ制服着てたし……吉城紀雄か?」
「……知ってるんだ」
「あいつは、悪い意味で有名だからな。今日も不良仲間を校庭まで呼んでたし。ホント、バカだよ。まぁ、それ以前に同じクラスだけど……まさかあいつと付き合ってるのか?」
「吉城くんは、ただの友達だよ。関係ない」
「友達? まぁいいけど。ああいうのとは、あまり関わらないほうがいいぜ」
勝手なこと言うな! あんたといるよりも、吉城くんといるほうが、遥かにマシだ! 遥かに楽しいんだから!
今度こそ反論しようとして——
不良とは関わらないほうがいいっていうし。
自分が言っていたことを思い出した。
スカートの裾を左手で握り締めて、凪はまた俯く。
そっか……。もしかしたら私も、嫌な思いさせてたのかな……。
「絵は? 美術部、入ったのか?」
二人の間に漂うギスギスとした雰囲気を察してか、絢斗が話題を変えてきた。だがそれも、凪にとって地雷だ。
絢斗は、凪の右手の状態を外見でしか知らない。鉛筆やお箸を握るだけでも、時間を要することを知らない。
絢斗の部屋にあがった時、結局凪は、自分の話をさせてもらえなかったから。
彼が自分の学校の話を数分語った後、いきなり唇を重ねてきたから。
あの日、凪は思わず突き飛ばした。信じられないと思った。
絢斗は有名なサッカー選手のポスターが貼られた壁に、勢いよくぶつかった。
「いってぇ、何すんだよ」
背中をさすりながら、絢斗は言った。
「お前、弱ってるみたいだから……」
弱ってるから何? 弱ってるからキスしてほしいと思うなんて、勘違いもいいところだ。キスすれば癒せるなんて、勘違いもいいところだ。
「ごめんなさい……」
突き飛ばしたことを謝って、凪は絢斗の家を飛び出した。
それから数分後に、ラインで、「ごめん。もう、付き合えない」と伝えた——。
「絵は? 美術部、入ったのか?」
絢斗の質問に、凪は一拍置いて、答える。
「ううん……部活には入ってない」
凪の高校——此田高校は、美術部の活躍がめざましい。県のコンクールやイベントで展示の依頼をされるほど、評価されている。
せっかく入れたんだから……。
入学して初めの頃は、左手で描いてでも、という想いを持っていたが、なにぶん鉛筆などまともに持ったことがないのだ。ろくに文字も書けない手で、繊細な鉛筆画など描けるわけもない。何度挑戦しても、自分の頭の中に描いている絵に、一向に近づけなかった。
決め手は、六月の初旬に催された文化祭だ。
英語での劇を演じるクラスや、自分たちで映画を製作したり、カフェを開いているクラス。高揚とした空気が、学校全体に漂っていた。
凪も最初は、初めての高校の文化祭に浮足だっていた。沙良や羽流子と、あの出店の焼きそばは美味しかっただの、あのお化け屋敷はクオリティ低すぎだのと、笑って楽しんだ。
だけど、廊下の至る所に展示されている美術部の絵が目に入って、凪の心に影が差してしまった。
同じモデルを対象にした、様々な視点から描かれたリアルな肖像画。リンゴやオレンジなどの、熟れた果物の色合いが映える静物画。学校や街並み、裏手の山を朝昼夜にわけられて描かれた、鮮やかな風景画。
三年生や二年生のものに混じって、一年生のものも展示されていた。
事故がなければ……。
事故がなければ、そこに凪の絵も展示されていたのかもしれないと思うと、学校にいることが急に嫌になった。飛び出して、どこかへ消えてしまいたかった。けれどそんなことは到底できるわけもなく、凪は下を向いて歩くことで、必死にそれからの時間を過ごした。それでも吐き気を覚え、鈍い痛みと共に右手が震えだしては、沙良たちに悟られまいと、一人別れて、トイレに閉じこもって必死に耐えた。
右手の痛みと震えは、家に帰り着くまで続いた。
そしてその日以降、絵のことは忘れようと、ただただ勉強に打ち込むようになった。凪の生活は段々と色褪せ、退屈なものとなっていった。毎日同じ色でしか塗られない、面白みのない日々。
こうして凪の世界は静かに、誰にも気づかれることなく、ボロボロと壊れていった。
それなのに、未だに時折、絵のことを考えている自分がいて、沸々とイライラが募る。
神様は非情だ。事故に遭わせて右手に障害を負わせ、がんばって吹っ切れようとしてるのに、絵を忘れることさえ、させてくれないのだから。
「右手さ……完治したわけじゃないんだ。まだ、うまくは動かせなくて。だから、美術部には入らないことにしたの」
声に険が含む。段々と、絢斗を気遣う余裕がなくなってきた。
「絢斗にとっては、『気にしねぇ』程度の傷かもしれないけどさ、私にとっては大きい傷なんだ」
ギスギスが再来する。絢斗はそれを避けるためか、軽い調子で答えた。
「まぁべつに、この世界には絵だけじゃねぇしな。ほかに、楽しめること探せばいい。きっと見つかるさ」
その言葉に、とうとう何かが切れた。
「そんな、簡単に言わないでよっ!」
心の叫びが口を突いて飛び出した。ガタッと椅子が鳴るほどの勢いで立ち上がって、
「絢斗だって、足を失ってしまえばいいんだ! そうすればサッカーができることがどんなに幸せなのか——」
ハッとなって、言葉を切る。涙が出そうになるのをこらえながら、「ごめん……」と謝った。
「……嫌いなわけじゃない。でも、これ以上いると嫌いになってしまいそうだから。だから、別れたいの」
周りの客が、驚いた表情で二人を見ていることに気がついて、凪は涙を隠すように、お店の入り口へと向かった。
「ま、待てよ!」
咄嗟に、絢斗が右手を掴んだ。ビリビリと、痺れるような痛みが走った。
「痛っ、い……」
「あ……悪い……」
解放されて、凪はファミレスを出る。いつの間にか、外は小雨が降っていた。
勝手なのは自分でもわかってる。滅茶苦茶言ってることも。
絢斗だけが悪いんじゃない。でも、それでも……。
なんで、こうなってしまったんだろう……。
外に出てきた凪を待ち構えていたかのように、雨はその勢いを増していく。
頬をつたう涙を拭いながら、泣き声を殺しながら、凪は一人、帰路についた。
絢斗に握られた右手の痺れが、いつまでも消えてくれなかった。
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