第3話 春

 ……見られた。

 紀雄の手から乱暴に取った絵を胸に抱くと、凪はその場に座りこんだ。

 下手くそな絵だ。歪な線しか描けない、情けない手で描かれた、下手くそな絵だ。上手く描けないのを、必死に誤魔化そうとしてるだけの、下手くそな絵だ。それなのに……。


 もはや何が原因かわからない。また顔が熱くなっていって、紀雄に対して背を向けるように座り直した。

 綺麗なんて絵を褒められたのは、いつぶりだろう。あの事故があってから、そもそも絵なんてずっと描いていなかったし、私は……。

 勝手に震えだす右手を抑えつけて、自分の両膝に顔を埋める。沈黙が、二人の間に流れた。


「か、勝手に見て、悪かったよ」


 黙りこんでいる凪を、吉城紀雄は怒っていると思ったのか、しばらくして頭を掻きながら謝ってきた。


「けど……お前、すげぇよ。絵メチャクチャ上手いじゃん」

「べつに上手くないし。許さないし。お前じゃないし」

「あ……悪い」


 わざと突っぱねると、紀雄の声は一層落ち込んだ。わかりやすい彼の態度に、凪は面白くなって、クスッと小さく笑った。

 もうちょっと、からかってみようかな。


「ズボン、まだ燃えてるよ」

「え⁉ マジで⁉」


紀雄は足元に目を落とすと、その場で足をバタバタさせて踊り回った。


「ウソだよ。熱さでフツー気づくでしょ」

「な、なんなんだよ、お前はぁ!」


 胸の前で拳をプルプルと震わせる紀雄に、凪はまたクスクスと笑った。


 彼のことは、本当は知っていた。昼時、まだ授業のある時間帯に、バイクで校舎の裏にある山中へと走っていくのを、廊下や教室の窓から、何度か見かけたことがあった。

 紺色の制服は、隣町の西風高校だ。不良、ヤンキーの類。一生関わることはないだろうと思っていた。

 けれどいつしか、学校をサボってバイクで走る男の子を見ているうちに、あの山の中には何があるのだろうと、気になり始めた。そして同時に、ああいう世界に行けば、私も楽しめるのかな、とも。

 つまらない学校生活。沙良や羽流子とくだらない話を交わすことだけが、通う理由だった。学校をサボって、あの山の中に行けば、絵を忘れさせてくれるほどの何かが、そこにあるのかもしれない。凪は、そんなことを思うようになっていた。


 だからこのダムへ来たのは、気まぐれだった。学校をサボって、でも行きたい場所や、やりたいことがあるわけでもなかった凪は、ふとバイクで走る高校生のことを思い出して、あそこに何があるのか、行って確かめてみようと思ったのだ。

 厚い雲が消えて太陽が顔を出した頃。山の中を、ダムへと続く車道を登った。少し夏の片鱗を見せ始め、さらには梅雨のじめじめとした空気を漂わせる六月のこの時期に、長い坂道を歩くのはなかなかに辛いものだった。さらにブレザーを着ていた凪は、身体のあちこちから汗を吹きだして、十五分ほど歩くと、もう後悔を抱いていた。

 私は何をしてるんだろうと、自分の行動に疑問を持ちながらも、でも今さら戻るのも面倒で、汗を流しながら歩き続けた。

 けれど、ダムの近くにある駐車場に着いた頃には、登りきった達成感と、吹き抜けていく涼しい風に、あっという間に気が晴れた。木々に囲まれた駐車場を進んで、木柵のかかっている所まで、足を進める。そこに広がっている景色に、凪の目は釘付けになった。


 こんな場所があったんだ。


 気づけば、凪はカバンの中に唯一入っているスケッチブックを取りだして、絵を描き始めていた。最初から今日は学校に行く気がなかったので、教材など入れていなかった。

 久しぶりに持った鉛筆の硬い感触に一瞬違和感を覚えたが、震える右手のことは全く頭になかった。ただ真っ白なキャンパスに、目の前に広がっている景色を収めたい。その想いだけが、手を勝手に動かしていた。

 だけどすぐに、凪は現実へと引き戻されてしまった。

 描いている途中で、筆が止まってしまった。ふいに見返した絵が、汚いものにしか見えなかった。ひどい落書きにしか見えなかった。山の輪郭もビルの輪郭もグニャグニャで、小さな人や車は、人や車だと判別できない。

 途端に、凪の心に黒い感情が渦巻いた。もう絵が描けないことを再認識して、そんな自分が憎くなって、五か月前に起きた事故が憎くなって、その感情は目の前に広がる景色へと向かった。

 嫌いだ、何もかも。こんな世界、大嫌いだ。

 自棄になって、黒い感情の赴くまま、凪は筆を走らせた。


 紀雄がそこへ来たのは、それからちょうど十分後のことだった。

 その頃には凪の心も少し落ち着いていて、最初バイクの音が近づいてきた時は少しドキッとした。

 遭遇する可能性はもちろん考えていたけれど、もしかしたらとても怖い人かもしれないと、そんな恐怖を今さら覚え始めた。こんな人気のない場所だ。もし襲われたりしたらどうしようと。

 でもすぐに、どうせこんな身体だ、今さら大事にしたって……と思い、心は落ち着いていった。もう何があっても受け入れられる、そんな気がした。

 けれどその人は……。


「じゃ、じゃあ俺は、そろそろ帰るわ。絵の邪魔したくねぇし……悪かったな」


 散々自分をバカにしたはずの女を気遣って、早々に去ろうとするような男だった。


 べつに、描きたくて描いていたわけではない。そうだ、絵を描いてるほうが楽しいなんて、そんなのウソだ。こんな絵は……ただの暇つぶしだ。

 雑にスケッチブックをカバンにしまって、凪も立ち上がった。


「待って。私も、もう帰る」


 木柵を乗り越えて、早足に紀雄を追う。彼はもう、バイクに乗り始めているところだった。そのタンクに付いている、白色のエンブレムが目に入った。

 カワサキ……って名前かな? 近くで見るとやっぱり大きいな。黒色のボディに白いライン。銀色のエンジンからは三本のマフラーが、左側に一本、右側に二本、それぞれ伸びている。

 うわぁ、よく見るとエンジンもタイヤの周りも複雑だなぁ。描こうと思ったら結構大変そ——

 いつの間にか、バイクを絵の対象として見ている自分に気がついて、凪はブンブンと首を左右に振った。


「……送らねぇぞ。ヘルメットねぇし」


 バイクをじっと見つめる凪の目が、乗せていってほしいと言っているように見えたらしい。

 半分図星だった凪は、目を細めている紀雄を見返して、「わかってるよ! それに、不良とは関わらないほうがいいっていうし」と、あからさまに不貞腐れる。

「うるせぇよ」とか、「不良で悪かったな」とか、そんな言葉が返ってくると思っていた。けれど紀雄は眉をひそめて、「……ああ」とそれだけ言うと、バイクのエンジンをかけ始めた。


 私、何か悪いこと言ったかな?

 訊ねようとした時、ポケットに入れていた携帯の着信が鳴った。取りだして画面を点けると、瑠璃川絢斗の文字。


 あぁ……。 


 電話するのを躊躇う。ちょっとずつ、心に雲がかかっていく。

 凪はしばらくその画面を見つめたまま迷って、結局電話しないことに決めた。

 そしてそうこうしている間に、紀雄は颯爽と凪の横を通り抜けて、走り去っていった。


 あ……まだお別れ言ってなかったのに。


 凪は俯いて、静かに一人、山を下った。

 ヘンな別れ方しちゃった。吉城くん、意外にいい人だったな。また、会えるかな……。

 怖い人じゃなかったと、安堵していることに気がついて、凪はまた嫌になる。

 なにが、もう何があっても受け入れられる、だ。

 日が沈んで暗くなっていく山の中、再び震えだす右手を、左手でギュッと握った。ほんの少し、痛みが走る。


 私は、ウソばかりだ……。



 過去の記憶がテレビの砂嵐みたいに、途切れ途切れに流れていく。

 茶色のカバン、信号が青に変わる交差点、車の眩しいライト。

 そして、生暖かい血……。

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