第2話 緑色の髪、チェック柄のスカート、夕焼けと絵画。

「……は?」


 一体、この女の子は何を言っているのだろう。

 紀雄はタバコをポケットに戻して、そっと距離をとった。もしかしたら自分は、危ない人間に出会ったのかもしれない。


「あなたは、どうしてここに?」


 女の子が、夕焼けの景色から紀雄の顔に視線を移して、訊ねてきた。改めて正面から見ると、まだ幼さの残る顔立ちをしていた。丸顔で綺麗な黒い瞳。その瞼に生えたまつ毛にかかりそうなほど、緑色の前髪が伸びていた。

 まじまじと見つめられて、紀雄は固まる。数秒経ってからようやく質問に答えた。


「お、俺はただ、来たくなったからだ。たまに……来るんだ、この景色を見に」


 無意識に、声が小さくなっていった。最後のほうは、ほぼ呟きに近い。女の子に聞き取れたのかもわからず、次に返ってきた言葉は、まったくべつの質問だった。


「顔、なんで怪我してるんですか? 痛そう、大丈夫?」

「え? ああ、これは今日、ちょっと喧嘩して——って、どうでもいいだろ、そんなこと」


 なんで見ず知らずの女に心配されなきゃいけねぇんだ。

 紀雄は目を逸らして、ぶっきらぼうに答える。直後に、心配か……とヘンな感情が湧き上がった。

 思えば、誰かに心配されたのなんていつぶりだろうか。今では紀雄が怪我をしたところで、親も先生もクラスメートも、誰も触れてこない。「あぁ、またか」と、冷めた目で見てくるだけだ。


「……ごめんなさい」


 女の子が顔を伏せる。その首元で、緑色の髪がさらっと揺れた。紀雄は思わず一歩進んで、誤解を解いた。


「謝ることはねぇよ。……バイクに寄りかかってタバコふかしてたら、知らねぇ高校の奴らが絡んできたんだ。最初は二人だったのに、あとからもう一人加わってきて……」


 なんで負けたことまで言おうとしてるんだ、俺は。

 今度は紀雄が目を伏せて、口を閉じた。しかし沈黙が流れるのも嫌で、すぐに「俺は吉城紀雄っていうんだ。高一」と名乗った。


「……同級生だったんだ。私は佐々原凪っていうの。よろしくね」


 初めて、女の子がニッコリと笑った。同級生だとわかって、安心したのかもしれない。彼女の笑顔を見て、紀雄の気も緩んだ。


「……タバコ、一本ちょうだい」

「え? お前も吸うの?」


 まさか同じ学生でタバコを吸う奴に出会うとは。しかも女……ますます怪しい。

 少し驚きながらも、紀雄はタバコを一本取りだして、ライターと一緒に手渡した。


「タバコの匂い嫌いだけど、吸ったことないから。ちょっと吸ってみたくなった」


 なんだ、非喫煙者かよ。いや、ちょっと待て。なら最初は——

 紀雄の注意も遅く、凪はすでに火をつけて煙をいっぱいに吸ったあとだった。


「ゲホッゲホッ……うえぇ」


 盛大にむせた女の子は苦悶の表情を浮かべ、その目には涙も滲んでいる。「あーあ」と頭を掻く紀雄だったが、自分で吐いた煙を一心に払う彼女の仕草が可笑しくて、ついハハッと笑った。


「なにこれ? なんでこんなの吸ってるの?」


 信じられないという顔で、凪はタバコを返してきた。


「ただの暇つぶし、かな。なんで吸いたくなったんだよ」

「何事も経験って思うし。人生変わるかなって」

「なんだそりゃ」


 つくづく、わけのわからない女の子だと思った。

 だけど……そうだな。俺もタバコを始めた時は、これで何かが変わるんだと期待してた気がする。まぁ精々変わったのは、タバコの味を覚えた舌ぐらいだけど。


「楽しまなきゃ、生きてる意味ないって思う。学校つまらないから。ここで絵を描いてるほうが——」

 口を滑らせてしまったとばかりに、凪は言葉を切って自分の口を左手で隠した。

 紀雄は目を見開いて、彼女を見る。

 この女の子も、自分と同じなのだとわかって。

 そして絵描きなのだとわかって。


「……すげぇな」、と呟いた。


 凪は顔を逸らして、その頬を次第に赤く染める。儚げで、透明感を漂わせたその横顔に、紀雄は言葉を失って、じっと見入ってしまった。


「な、なに? タバコ吸ったら? 火、消えちゃうよ」

「あ、ああ」


 凪に促され、紀雄は我に返る。右手に持っていたタバコを口元に当てたところで、急に思い出した。

 待て、そういえばこれはこの女が吸った——

か、間接キス⁉ しかもタバコで⁉ いや、平静を保て、平静を保つんだ、俺。そう、さりげなく、いつものように吸えばいいんだ。たかが間接キスだろ。たかが……間接キス!


 しかし脳味噌とは裏腹に指は震えだし、それは次第に激しさを増して、ついには、タバコは指から離れ、足元にぽとりと落ちた。

 途端に、火がタバコから草に、草から紀雄のズボンへと燃え移った。


「へ?……おわぁ!」


 慌てて跳び上がる。跳び上がって、必死に足踏みして、火を消した。ぜぇぜぇと肩で息をしながら、ふと凪を見ると、お腹を抱えて紀雄を笑っていた。


「アハハハ! 大丈夫?」

「なわけねぇだろ!」


 あやうく火ダルマになるとこだったぜ。

 周囲で遊び回る煙を払って、焼けたズボンの裾を一瞥した。するとそこへ、どこからともなくスケッチブックが飛んできた。凪の膝にあったものが、風で飛ばされてきたのだろう。


「あっ、これお前のだろ?」


 何気なく拾って、それを凪のほうに差し出す。


「え? あっ! それはダメ!」


 自分の膝にないのを確認すると、凪は血相を変えて、慌てて駆け寄ってきた。中身を見られたくなかったようだが、無情にも、再び風の神様が息吹を吐いた。

 ページが開かれ、紀雄は意図せずに、そこに描かれている絵を見ることになった。


「すげぇ……」


 色鉛筆だけで描かれたその絵に、紀雄は一瞬で目を奪われた。

 赤い夕焼けに染められた町。このダムから見下ろした景色そのものが写しだされていて、しかし絵の中のビル群は歪み、倒れ、不自然に盛り上がって、ひび割れた道路の隙間からは、モクモクと黒煙が立ち昇っていた。

 色とりどりの車は横転して、絶望の表情で人々が逃げまどっている。全てが夕日に照らされた世界の崩壊から、逃れられる場所などないというのに、必死にどこかへ逃げているのだ。


 非情で残酷な絵だった。けれど、紀雄の目がその絵から逸らされることはなく。

 

 ただただ、「綺麗だ……」と、感嘆の声を漏らしていた。

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