世界の治し方
士田 松次
第1部 1学期
第1話 タバコの煙、バイクこそ自由。
口の中で血と砂が混じる。舌がざらざらと、不快な感触を覚えた。
冷たいアスファルトの地面から上体を起こし、そばに立っている電柱に背を預ける。口の中が痛い。不良どもに殴られた感触が、まだずきずきと残っていた。
三人相手など勝てるわけがない。
紀雄は舌打ちして、ポケットからタバコを取りだした。火をつけて燻らせると、まるで何かから逃げるみたいに、煙が空へと昇っていった。
狭い路地裏から見上げる空。今にも雨が降りだしそうな曇天は、四方に聳えるビルによって、四角に切り取られてしまっている。
雨は面倒くせぇな……。
紀雄はタバコをしまって立ち上がると、制服をはたいて、あちこちに付着した土を落とした。
路地裏を出て、止めていたバイクに跨る。黒の下地に白のストライプ。シンプルなカラーリングのタンクに、銀色のエンジンが映える。
鍵を差し、力強くキックペダルを踏みこむと、唸るように世界へ吠えた。
けだるげな思いを殺して、紀雄は学校へと向かった。
車通りの多いビル街。朝も昼も夜も深夜も、恒久的に喧しいこの街に、吉城紀雄の通っている西風高校がある。ビルに囲まれたその学校は、徒歩で五分もかからない場所に駅があり、さらに近くには商業娯楽施設、学生たちにはありがたい安価な飲食店も並んでいる。
まさに絵に描いたような、都会の高校だった。
なんでも揃っているけれど、何もない街だ……。
***
「吉城の奴、また昼から来てるよ。今時古いよな。タバコに喧嘩にバイクなんて。この学校じゃ、あいつぐらいだぜ」
「やめろって。ああいうのとは関わらねぇほうがいいよ。先生に目つけられてるし、関わったら俺たちも……」
どこからか聞こえてくる声を無視して、紀雄は自分の席に着く。ポケットに手を入れたまま、椅子に浅く座って前方に足を投げだした。
「吉城ぃ~! なんでまた朝休んだの?」
気づけば、仁王立ちした女の子が怒りを露わにして紀雄を見下ろしていた。
伏見芙雪。生徒会役員で、このクラスの学級委員だ。
「あんたのこと、私も先生に頼まれてるのよ。あいつが学校サボらないように、君からも言ってくれって」
「……ああ、悪い。明日はちゃんと来るよ」
「それは昨日も聞いたけど?」
やべ、そうだったっけ。
睨んでくる芙雪に、紀雄は苦笑いを浮かべて、「あ、明日はマジで来るって」と繰り返した。
「絶対よ。来なかったら今度の生徒総会で、無断遅刻者には放課後、居残りをしてもらうよう進言するから」
そう言い放つと、芙雪は足早に去っていった。
面倒くさい。だが放課後まで学校に拘束されるなんて、それは困る。
大体、なんであの女はあんなに真面目なのか。先生の言うことなんて律義に聞いて、それほど評価というのが大事なのだろうか。
「よーし、じゃあ授業を始めるぞ。さっさと席につけお前ら」
一人の机を囲んで談笑している男子生徒たちを注意しながら、ハゲメガネ——萩尾先生が教室に入ってきた。
脇に抱えた教科書とプリントの山を、どさりと教卓に置いた。
「それじゃあ今日の授業は昨日の続き、第二次世界大戦時の各国の動きからだ。伏見、号令を頼む」
先生に指示されて、芙雪が「起立!」と声を上げる。みんなが一斉に立ち上がって、紀雄も渋々それに倣った。
「礼!」頭を下げて、「着席!」、また一斉に座った。
引き出しに入れっぱなしにしていた教材を、机上に放りだす。もう入学してから二か月以上も経つのに、まだ一度もまともに開かれていないそれは、新品のように新しい。
つまらない授業。窮屈な机に、見えない鎖で固定されて。
窓から見える風景もいつもと同じ。殺風景なグラウンドに、その周囲に細々と立っている数本の木々。
しかし空だけは、忙しなく変化を繰り返す。
どんよりとしていた重たい雲の隙間から太陽の光が差しこみ、さっきまでの雨が降りだしそうな気配は、すっかり消えていた。
わけわからねぇ天気……。
そう思いながらも、少しホッとする。雨が降らなければ、清々しくバイクを走らせることができる。
「おい吉城、聞いているのか!」
突然名前を呼ばれて、身体がビクリとなる。萩尾先生が目を細めて、紀雄を見ていた。呆れ果てて、塵でも見るような目だった。
「お前という奴は……午前中は来ないし、来ても授業は真面目に受けない。もう高校生なんだぞ。少しは大人になったらどうだ」
すみませんと謝るのも嫌で、しかしなんと返していいかもわからず、紀雄はただ黙って、もう一度窓の外に顔を戻した。萩尾先生も追及することはせず、ただ大きなため息を吐いて、黒板に向き直った。
大人とはなんだろうか。校長や教頭の顔色を伺って、その裏で生徒には偉そうに説教を垂れる、先生、あんたみたいな人のことをいうのか。
それともあの男みたいに、自分以外の人間みんなを見下している、エリート警察官のことをいうのか。
それとも、家をほったらかしにするあの男を恨んで、酒に溺れて外で男をつくり回っている、あの女のことをいうのだろうか。
俺は……ごめんだ。
***
終わりのチャイムが鳴る。萩尾先生の退屈な授業から解放されて、紀雄は早くも帰りたくなった。何も入っていない薄っぺらなカバンを無造作に掴んで、教室を出る。誰かがまた紀雄の話をヒソヒソと始めたが、構いやしなかった。
校舎の裏の駐輪場からバイクを引っぱり出して、紀雄はコンクリート造りの無機質な学校を、勢いよく飛び出した。
乾いたエンジン音に、焼けたオイルの匂い。全身に当たる風が涼しくて、心地いい。息苦しさを感じない水中を進んでいるような、空気の柔らかさに気持ちよくなって、さらにスピードを上げる。
歩行者もビルも街灯も、全てを置き去りにしていく。何も縛るものなどない。バイクに乗るといつも思う。
どこまでも行ける気がした。
西風高校から五キロほど離れた所に——もう隣町なのだが——巨大なダムがある。山中に建設されたそのダムの近くには、駐車場のようなアスファルトのスペースが広がっている。
そこにバイクを止めて、端に設けられている木柵を越え、斜面になっている草原に座りこむ。そこからの景色を眺めるのが、紀雄はたまらなく好きだった。
雲はすっかりなくなって、沈みかけている太陽が全てを赤く染めている。たくさんの車が行き交って道路を埋め、たくさんのビルがデコボコと並んで、空の輪郭を形作っている。教室の窓から見えるグラウンドと同じ、いつもと変わらない景色が広がっているのに、この風景だけは何度眺めても飽きることはなかった。その理由は自分でもわからず、しかし眼下に広がるこの世界を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。
タバコを吸おうと、ポケットに視線を動かす。そこでようやく、この原っぱに先客がいることに気づいた。
幽霊かと思うほど静かに、自然に、すぅーっと現れたように錯覚して、思わず「おわっ!」と声をあげた。紀雄の左側、五メートルほど離れた所に、彼女はちょこんと体操座りをしていた。
な、なんだ、この女……ずっといたのか? あぶねぇ、もうちょっとで独り言始めるとこだったぜ。
「……こんにちは」
目と目があって、緑色の長い髪をしたその女の子が、小さい声で挨拶してきた。紀雄に怯えているのか、少なくとも警戒しているのだろう、不安げな声音だった。黒のブレザーに、黒と灰のチェック柄のスカート。その胸と膝の間には、スケッチブックのような物を抱えている。紀雄は挨拶を返すことも忘れ、訝しげに女の子を見た。
どうしてこんな所に? しかもあの制服……この山の麓にある高校の生徒だ。どうやってここまで来たのだろう。徒歩では、麓からでも二十分はかかる。車道は舗装されているが、何より登り坂だ。それに学校は? そばに置いてあるカバンには何も入っている感じがしない。俺のと同じ、ペラッペラだ。
疑問が次々と湧き上がる。
その中で、咄嗟に突いて出た質問は、「ここで、何してるんだ?」だった。
しまった、と内心焦る。
もっとほかに聞くことがあるだろ。挨拶だって応えてねぇし、名前とか学校とか……もっとべつの——
「世界を、壊してるの……」
頭を掻いて二言目の質問を考える紀雄をよそに、静かにそう答えた女の子の黒い瞳は、眼下に広がる景色を悲しげに見つめていた。
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