第7話 希望

「最近、何かあったの?」


 国語の授業が終わって、凪のために書いたノートを渡しながら、沙良が心配そうに訊ねてきた。

 凪自身もノートは書いているのだが、リハビリの一環として右手で書いているために、それはひどい有様だった。

 そんな事情を察して、いつからか沙良と羽流子が交互にノートを書いてくれるようになった。もちろん大いに助かることで、二人には感謝しているけれど、同時に申し訳なさで心がいっぱいだった。

 時々急に、教室にいることが居たたまれなくなる。


「凪?」


 沙良が不安げに顔を近づけてきて、ふっと我に返る。いつの間にか、隣の男子の席を我が物のようにして、羽流子も座っていた。


「昨日学校休んで、今日もまだ元気ない感じがするよ。体調悪いんじゃないの?」

「いや……えっと……」


 凪は少し悩んで、正直に話すことにした。対面している時の沙良に嘘は通用しない。なぜかいつも嘘だとバレて、こちらが本当のことを言うまでいつまでも、何日経っても訊ねてくるのだ。彼女の優しい性格ゆえなのだろうが、たまに面倒だとも思ってしまう。


「昨日は、ホントはただの仮病なんだ。学校行きたくなくてさ」

「えぇ⁉ 凪がサボるなんて益々心配するんだけど! マジで何があったの⁉」


 机に手をついて迫ってくる沙良に、凪は気圧される。これはやはり本当のことを言うしかないと、笑顔を作って、サボるきっかけになった悪夢のことを話した。

 二人は思い詰めるように考え、しばしの沈黙が流れた。凪は半袖のシャツから出ている右腕の傷跡に目をやり、少し後悔した。

 沙良と羽流子は——ほかのクラスメートたちもそうだが——凪の事故や絵のことは極力話題に出さないようにしている。もちろん気遣ってくれてのことだけど、だからその話をするときは、暗黙の圧力を自分たちにかけてしまうのだろう。言葉を慎重に選ばなければいけない、と。

 凪もそれが嫌で、今まで悪夢のことは話さなかった。


「それってさ……」


 最初に口火をきったのは羽流子だ。前髪を上げて、長い黒髪をポニーテールにしている彼女が腕を組んだ姿は、まさに男勝りという言葉そのものだった。きりっとした瞳を、二人に向けた。


「もしかしたら、良い夢なんじゃない?」


 良い夢? 身体が崩れていく夢が良い夢だったら、大抵のことは良い夢ではないか。


「私の左手と両足なくなるんだよ。悪夢じゃん」


 凪はムスッとなって、思わず語気を強めた。しかし羽流子は微塵も怯まずに、「ああ、ごめん」と短く謝って、「でも……」と続けた。


「生きてるんでしょ。生きて、うまく動かせない右手だけが残ってしまったけど、でもそのおかげで、大事な何かをずっと探せてる……。私はそう思ったんだけど……やっぱり悪夢だよね」


 羽流子は困ったように笑って、もう一度、ごめんと謝ってきた。凪は気にせずに、むしろ感心した。羽流子らしい、強い考え方だと思った。


「なるほど……それで良い夢かぁ。でも、大事な何かが見つかるまで、あの夢を見続けるのはやっぱり嫌だな」

「まぁ、なんにしてもさ……」


 今度は沙良が口を開く。


「あまり気にしないことだよ。所詮夢なんだしさ」


 沙良の言葉で、この話は終わりとなった。同時に、次の授業の先生が教室に入ってきて、二人は自分の席へと戻っていく。すると沙良がアッと声を出して、凪のほうを振り向いた。


「そういえばさ、凪は今日の放課後ヒマ? よかったら帰りにいつものコンビニ寄らない?」

「え? ああ、うん」


 凪は了承してから首を傾げた。

 学校から十五分ほどの所にあるコンビニ。そこで話す内容など、大概が勉強のことか先生に対する愚痴だった。沙良の口ぶりからするに、何か話があるのだろうとは思ったけれど、凪に心当たりはない。なんにしても、コンビニに寄るということは長く話したい時だ。

 今日は、行けそうにないな……。

 何気なく、外に目を向ける。青空が広がって、太陽が元気よく熱を放っていた。凪は裏手に佇む山へと視線を移す。

 吉城くんは今日も行くんだろうな。いつもならバイクの音が聞こえてくる頃だけど。

 ダムでの出来事を思い出していると、いつの間にか授業が始まっていた。早く終われと内心祈りながら、凪は震える右手でシャープペンを握った。



 最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。同時に数人の男子が椅子から立ち上がって、一所に集まった。


「よっしゃあ、終わった! ラーメン食って帰ろうぜ、ラーメン。俺、ちょうど替え玉無料券持ってんだよ」

「無料券って、どうせ一枚だけだろ? ていうかお前、今日ハヤベンして、さらに食堂でカレーまで食ってたじゃねぇか。どんだけ腹減ってんだよ」

「ちげぇよバカ。筋肉育ててんだ、言わせんな恥ずかしい。それになぁ、俺を侮るんじゃねぇぞ。持ってる無料券は……なんと四枚だぁ! どうだ? お前も行きたくなっただろ? ラーメン」

「行きてぇ!」


 行こうぜラーメン! 

 楽しそうに肩を組んで教室を出て行く彼らを傍目に、

「男子ってホントバカだよね」、と言いながら、沙良が近づいてきた。凪は教材をカバンにしまって、おもむろに腰を上げる。一日休んだだけなのに、授業は久しぶりの感じがしてひどく疲れた。沙良のように男子を馬鹿とまでは思わないが、なぜあんなに元気なのかは理解できない。


「じゃあ帰ろっか。羽流子、部活がんばってね」


 沙良の言葉に、羽流子は「ああ。二人は気をつけて」とだけ返して、早々に剣道場へと消えていった。凪たちも教室を出て、学校をあとにする。

 校門を出て、手に持っていたブレザーを着る。沙良がその様子を見て、何か言おうとしてから口を噤んだのがわかった。

 凪は少し悲しくなって、その時なぜだかふっと、紀雄のことが頭をよぎった。


「そういえばさ、羽流子って原付で通学してたよね?」

「うん。羽流子の家、結構遠いみたいだからねぇ。それで部活までしてるんだから、偉いよね。家着くの二十一時とかで、そのあとに授業の復習もしてるみたいだし」

「そうなんだ。ホントすごいな、あの子」


 凪は素直に尊敬した。学校をサボっているような自分とは大違いだ。

 また少し、ここにいる自分に居たたまれなくなる。


「それで? なんでいきなりバイクの話題? もしかしてあんた、乗ってみたくなったの?」


 うっ、鋭いなぁ……。


 真意を当てられて、凪は返答に窮する。そこへ、「もしかして男……じゃないよね?」と重ねて問われ、さらに胸がドキッとなった。凪は左手をブンブンと振って否定する。


「ち、違うよ。やだなぁ。ただちょっと乗ってみたいなって思っただけだよ」


 大丈夫。ウソは言っていない。これなら沙良だって追及してこない……はず。


「ふーん。ま、いいけど」


 ホッ、助かったぁ。


「でも、バイクは危ないよ。羽流子にも言ってるけど、事故とか遭いやすいし——」

 沙良が言葉をきった。しまったとばかりに顔を逸らす。二人の間に流れていた空気が変わった。

 あぁ、まただ……。

 凪は再び後悔する。

 事故や絵に関連することは、極力話題に出さない。先ほど悪夢の件を話した時もそうだったが、いつしか凪の前では禁句のようになっている。

 中学校の時から仲のいい、なんでも話せた沙良と、二人の時でさえ話せないことができたことは、とても悲しいことだった。世界が変わってしまったことを、自覚させられた。

 沙良もきっと同じで、ごめんと謝らないことが唯一できることなのだろう。私は気にしてないよ、という心の言葉。

 凪もそれに乗っかった。謝られてしまえば、その時をもって、二人の関係にヒビがはいってしまう気がした。


 それからも凪と沙良は、道路沿いの歩道を歩きながら、差し障りのない会話を交わした。

 コンビニに到着したのは学校を出てから五分ほどだったけれど、体感ではもっと長い距離を歩いてきたように感じた。



 駐車場には数台の車が停まっていて、その中には金色の派手なママチャリと一緒に、見覚えのある白黒のバイクもあった。

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