第6話 夢②
凪を撥ねた酔っ払いの運転手は、まだ二十歳そこそこの大学生だった。事件後すぐに、警察に逮捕されたそうだ。かなりのスピードを出していて、夜だったこともあり、交差点に気づくのが遅れたらしい。赤信号に気づいて慌ててブレーキを踏んだが止まらず、咄嗟にハンドルをきったら、ちょうどその道を渡ろうとしていた凪のほうに突っ込んできた、ということだ。凪本人は、当時のことを全く覚えていなかった。学校から帰っていたということぐらいで、撥ねられた正確な場所も、車の色も、何も思い出せなかった。
とにかく、事故から三日が経過した頃に、その大学生の父親が見舞いに訪れた。鬼のような形相で睨み、その人を責めたてる父を見たのも、初めてのことだった。
けれど凪にとって、そんなことはどうでもよかった。自分を撥ねた運転手が逮捕されようが、その親を父が怒鳴ろうが、どうでもよかった。それよりもこれから先、右腕はちゃんと回復するのか、絵を描くことができるのかという不安だけが、彼女の頭を占めていた。
美術部が有名な、この辺じゃ珍しい高校に合格できたのに……。絵を描けなければ、私はなんのために、これまで真面目に勉強してきたのだろう。
足元が崩れていく。そんな感覚に溺れた。
ボルトを埋め込む手術を無事に終えて、二か月が過ぎた頃。右腕は順調に回復を見せ、一度ギブスが外されることになった。ずっと洗えていなかったせいで、最初は獣のような臭いが鼻をついたが、そんなものは些末なことだった。
白くて細かった腕は赤く腫れ、骨が裂いた約十センチの傷跡、二本の線が縦に走っていた。そのグロテスクな傷痕のほうが、凪の心を絞め付けた。もう元の綺麗な腕に戻ることはないのだと思うと、悲しさと寂しさが込みあげてきた。
そして腕よりも見た目は変化していないが、手の状態はさらに凪を絶望とさせた。力を入れることができず、全く動かせなかった。まるで、自分の手ではない気がした。肘までは問題なく動かせるのに、それより先、手首や指を動かそうとすると、震えだしてうまくいかなかった。歪んだ指が、動かそうと試みるたびにただピクピクとなるだけで。
最悪の場合。
最悪の場合、一生動かせないだろうと医師は言っていた。黒々とした波にのまれるような、そんな恐怖が襲いかかってくる。映画に出てくる幽霊や化け物に感じるものとは違う、今まで感じたことのない恐怖だった。
凪は縋るような目で、そばにいる医師を見た。
感覚はちゃんとあるようですし、見た感じも大丈夫そうですね。これなら、リハビリを続けていけば、動かせるようになりますよ。
笑顔で、そう言ってほしかった。
けれど医師は表情を曇らせて、「ちょっとずつ、リハビリ頑張っていきましょう」とだけしか、口にしてくれなかった。
そんな中で、高校生活の始まりを告げる、本来であれば晴れ晴れしいはずの、入学式の日が訪れた。
手を動かせなくなるその恐怖で精神が弱り、体調は決して優れていなかった。それでも凪は、入学式に参加することにした。初日から休んで、独りぼっちの高校生活を過ごすかもしれないと思うと、それも耐えられなかった。
幸い、中学からの友達である沙良が同じクラスで、事故や怪我のことをヒソヒソと噂されるようなこともなく、クラスの中心でみんなから心配されるだけで済んだ。羽流子という、男勝りな剣道部の友達もできた。そのおかげか、体調は次第に回復して、右手も徐々にだが、動くようになってきた。二度目の手術で、腕に埋め込んでいたボルトも問題なく取り除かれた。
学校に通いながら、水曜日と日曜日はリハビリに病院へ行く。ただでさえ高校という新しい環境の中で、そんな慌ただしい日々が始まった。
事故の過去が消えることはなく、忌々しくその尾を引いたまま。
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