第3話 裏道
右腕の中で、時計が「Sun」と示していた。短針は9と10の間にあった。Tシャツ姿の光平は電車に揺られながら、真新しいスーツに身を包んだ女性に目を遣った。女性はつり革を掴んだ左手に全身を預けているように見えた。右腕に収まりきらないほど大きな時計が、金色の輝きを放っていた。青ざめた顔を窓の外に向けたまま、揺れるに任せて揺られる女性の細腕を、光平はしばらくの間じっと見つめていた。
電車を降りると額に浮かんだ汗が鼻先に伝わった。微風に身を包まれた光平は、ハンカチを取り出して顔を拭った。先刻の女性は、既にはるか先を歩いていた。
駅ビルを出ると、太陽がアーケードの端から一瞬窺えた。人波はただ前に向かって進んでいた。光平は時計を確認して、列から外れた。自動販売機の前には時計とギターを同じ手で抱え、何やら歌っている若者の姿があった。若者は「自由」という歌詞をしきりと口にした。誰も若者を顧みる者はいなかった。光平は自動販売機でコーヒーを買って、若者を一瞥した。
「皆さん、自由に生きませんか。こんなものに捕らわれずに生きませんか」
茶色い髪をした若者は、半笑いで訴えつつギターを奏でた。次の曲には「勇気」という歌詞が頻繁に現れた。光平がコーヒーを飲み終わる頃、時計を右脇に抱えたTシャツ姿の老人が、「何をやってんだ、お前は。馬鹿じゃねえか」と声を張り上げた。
「縛られずに生きませんか、おじさん。自由になりませんか」
「いいから来い。恥知らずが」
若者は老人に引きずられていった。鞄が自動販売機の脇に残った。スーツ姿の男女は顔色一つ変えず、時計に合わせて一歩一歩足を踏み出していた。
「アホか」
空き缶をゴミ箱に投げ入れた光平は、駅前の交番を一瞥した。警官が左手で敬礼した。
光平は会社に向かう道を途中で折れ、しばらく歩いた。裏道に入ると、止まった時計が路上に転がっていた。風防は割れ、木製のフレームにはひびが入っていた。長針はなく、短針が11と12の間で止まっていた。光平の物よりも一回り大きな時計は泥と砂埃にまみれ、陰ったアスファルトの上で静寂を保っていた。さらに歩くと、道端で男性が時計を背に身を横たえていた。片腕を枕にして、もう片方の手は地を掴むような形でアスファルトに触れていた。裏返しの時計から音はせず、男性の鼾が路地裏に響いた。光平は男性から目を逸らして、薄暗い道を足早に進んだ。
ふと、光平の視線が文字盤の見えない時計に留まった。鼾は規則的にじっとりした空気を揺らした。腰を落とした光平は、路上の時計に目を寄せた。二つの靴音が近づき、スーツ姿の男女が真っ直ぐに歩み寄ってきた。二人は落ちている時計に目もくれず、談笑していた。光平はさっと踵を返して裏道を抜けた。
ラーメン屋の前に行列ができていた。光平は最後尾に加わった。前にはポロシャツ姿の男性が二人、しっかり時計を抱えつつ空いた手で携帯電話を弄っていた。最前列付近には椅子があり、背広を着込んだ男性が四人、喋りながら座っていた。四人とも大きく華美な時計を膝に載せていた。椅子の手前に立っている小男が一人、たまに指差されては、四人の笑いの種になっていた。小男はその場の誰よりも大きな時計を持っており、その手はがくがくと震えていた。根性、気合といった言葉が、光平の耳にも届いた。
やがて小男は顔を真っ青にして、「すいません」と四人に頭を下げた。
「失礼してもよろしいでしょうか」
「何を言ってる。ここまで待ったんだから、付き合え」
「忍耐力がないんだよなあ、今の若いのは。優秀なのに限って、努力をしてきてない。薄っぺらいんだよ」
小男はもう一度頭を下げた。前のめりに倒れ込みそうだった。
「付き合いの悪い奴だ。さっさと仕事に戻れ」
「昼飯は食うなよ。俺らの誘いを断ったんだから」
「承知しました。ありがとうございます。失礼致します」
言うが早いか小男は行列の脇を駆け出した。光平の目は、小男の抱える時計の中心に書かれた「15002」という数字を捉えた。前に立つ者は誰一人として小男を顧みなかった。光平もすぐに視線を店の看板の時計に移した。
「甘い奴だなあ。社会人としての自覚がまったく足りてない」
「最近調子に乗ってたから、いい薬ですよ」
口々に嘲笑う四人組は、店の戸が開くと同時に時計を抱え、立ち上がった。途端に皺の寄った口元が引き締まり、形相が強張った。
「お待たせしました」
時計を片手に詫びる店員の脇を、四人の男たちは一糸乱れず整然と通り過ぎた。
眼前で信号待ちをする男性の時計を、光平は覗き込んだ。「月」と書かれた文字盤の長針は6と重なっていた。「余裕だな」と呟き、光平は上空を仰いだ。どんよりとした雲が地表に重い影を落としていた。人いきれがした空気は、土っぽい匂いを含んでいた。時計の針の音に合わせて、信号機の色が変わった。黒い頭が一様に動き出した。光平は少しばかり歩速を落とし、ゆるゆると足を運んだ。両隣を次々と追い越していく男女の背筋はしっかりと伸びていた。顎を上向けた光平は、いきなり背中を叩かれた。
「のろのろ歩いてるんじゃないわよ」
華美が光平の背中を押した。信号機の青色は点滅していた。背中越しに、ヒールが秒針の刻みに抗うように地を蹴る音が届いた。光平は急に顔を赤らめた。そうして華美と並んで背筋を伸ばし、無言のまま一秒ごとに歩を進めた。
自動ドアをくぐった光平は、華美にごめんと呟いた。
「ごめんって、何が?」
「いや、世話焼かせたなあって」
「謝るようなこと?」
呆れたように言い放ち、華美は自分の時計を一瞥した。
「おかげでちょっとだけ到着が遅れはしたけどね。きっかり四十秒」
「昼ご飯おごるよ、よかったら」
「私はそんなに暇じゃないの」
でも、ありがと。微笑する華美と目配せした光平は、顔を綻ばせたまま真っすぐ前を向いた。
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