第2話 暗黙の了解
翌日、会議室の前に秋道が屈んでいた。右脇で時計とファイルを抱え込み、左手で何かを拾い上げていた。「秋道」と光平は鋭く声を上げた。
「お前、何やってるんだよ」
「ああ、気にしないで。クリップがそこら中に落ちてるんだよ。何となく集めたくなってね」
「そんなの放っとけって。それよりも……」
眼下で膝をつく秋道の頭上で、光平は二つの時計を右脇で支えた。体の重心が大きく右に偏った。それでも光平は、空いた左手で自分の右腕を叩いてみせた。
「ちょっと足上げて」
何ら構わずに秋道は言った。後ずさった光平の靴先で、クリップが銀色の輝きを放った。
「あった」
伸びた腕を光平が掴んだ。微笑を湛えた目を上向ける秋道に、首を横に振った光平は、「そういうのは掃除の人に任せとけ。とにかく、ファイルを置け」と告げた。廊下に怒号が響いたのはその直後だった。
「そこ、何をやってる」
自由な大手を振り、丘が憤怒の形相をして二人の下に駆け寄ってきた。秋道はおもむろに立ち上がり、右脇にファイルを挟んだまま一礼した。
「ファイルを渡せ」
丘はそわそわと足を揺すり、廊下の壁面を見遣りつつ言った。そうして秋道が抜き取ったファイルを奪い取り、即座に床に叩きつけた。
「お前には社会人としての自覚がないのか!」
目を丸くする秋道に並び立つ光平の耳に、三つの時計の針の音が届いた。秋道は「あるつもりです」と答えた。
「自覚のある奴がすることじゃないんだよ、今のは」
「今のって、何ですか」
「それも分からんのか。今まで何を教わってきたんだ、お前は。井上!」
不意に名を呼ばれ、光平は身を震わせた。
「いつまで突っ立ってるんだ。お前はさっさと仕事に戻れ」
「申し訳ありません」
深く腰を折り、足を踏み出す光平に秋道は会釈した。「お前は俺の話を聞け!」と憤る声が背後で響いた。光平は自分の時計の冷たいフレームを、何度となく撫でた。廊下の角では清掃のパートの女性が箒と塵取りを片手に持ったまま、うろたえる様子を見せた。
職場のドアを開けるなり、光平は同僚から白い目を向けられた。皆が黙りこくったまま、立ち上がりもせず、光平に視線を浴びせていた。秒針の音が満ちた室内で、光平は糸に搦め捕られたように身じろぎもできなかった。そうして全員の時計が五回針を進めると、同僚は一斉に仕事に戻った。光平はネクタイをきつく締め、自席に向かった。
一時間ののち、丘が電話を片手にドアを開けた。
「お世話になっております」
慇懃に頭を下げる丘に、光平がすかさず時計を差し出した。丘は腰を折ったまま右手で受け取り、すぐさま脇に挟んだ。光平は秋道の席に視線を移した。パソコンの前に人影はなく、ブラインドの隙間から、昼前の柔らかい光が真っすぐに注がれていた。
廊下では三つの時計を持った年上の同僚が、談笑する二人の男の傍らで屹立していた。光平よりも一回り背の高い同僚は、手持ち無沙汰に肩を回す二人の笑声に眉一つ動かさず、じっと遠くを見据えていた。光平は三人に深く頭を下げたが、手ぶらの二人は一瞥もせず、先輩にあたる同僚だけが軽く会釈した。
廊下を折れると、会議室の前に男女の姿があった。声を押し殺しつつも、怒鳴りつけるような剣幕で相手を責め立てているのは華美だった。
「だからあんたにそんなことされると、うちが迷惑するんだって。分からないの?」
近づくと秋道の頭を掻くしぐさが鮮明に映った。右手に小さな時計を持ち、ファイルは左手に挟んでいた。
「でも、ばらばら落ちてると気になるじゃない? 俺は華美さんが落としたものだなんて知らなかったわけだし」
「あのね、いい? 誰かがクリップを床にばらまいたとします。でもその人は急いでたから拾わなかったわけでしょ。当然その人は、掃除のおばちゃんに連絡します。それが常識じゃない?」
「でも、目の前に落ちてたら拾いたくならない?」
「余計なお世話だっつってんのよ。掃除のおばちゃんの仕事奪ってどうすんの。うちの立場だってなくなるし。あんたが怒られたらうちが罪悪感を覚えるでしょうが。社会人ならそのくらい配慮しろって言ってんのよ」
秋道は後ろ髪を掻きながら、「華美さんは怖いなあ」と言って笑った。
「面と向かって言うな。そういうところだよねえ」
光平を顧みた華美は、呆れたように笑った。白い歯が真っ赤な唇の間から覗いた。
「あんた秋道が怒られてた時、一緒にいたんでしょ? 部長に何て言ったの?」
「いや、特に何も」
俯きがちに言う光平に、華美は「一緒に怒鳴ってやればよかったのに」と言いつつ時計を持ち直した。重々しい時計が細腕の中で、秋道や光平と同じ時を刻んでいた。
「ねえ、華美さんも今日終わったら飲みに行かない?」
秋道が周囲を見回しつつ耳打ちした。華美は「なんであんたらは仕事中にそんなことを考えるかなあ」とため息交じりに言った。
「会社にいる時は仕事のことだけを考えなさい。だいたいうちは今日そんなに早く帰れないから」
「そうなんだ。無理しないでよ」
「社会人は無理してなんぼでしょうが」
震動音がして、華美は視線をポケットに落とした。即座に電話を取り出した華美は、「お疲れ様です」と落ち着いた声を出した。そうして背を向ける間際に、秋道に向けて「ありがとう」と口の形だけで伝えた。悪戯っぽい笑顔はすぐに遠ざかって行った。
「カッコイイよねえ。華美さん。ちょっと怖いけど」
ほっそりとした後ろ背を見遣りながら、秋道は呟いた。
「同感だけど、あの人の言ってたことにも同感だよ」
全身を揺すり、右に寄ってきた体の重心をとった光平は、ちらと秋道の時計を窺って言った。細い分針は12の手前にあった。文字盤の中心の数は、やはり一つ減って「26449」になっていた。
「あ、昼飯食べに行こうか」
秋道が光平の時計を覗き込んで言った。
「まだ早いってば。具体的に言うと三十二秒早い」
「細かいなあ、社会人は」
光平は苦笑いしたまま、何も言わずに自分の右腕に目を移し、時計を強く握りしめた。
時計をくくりつけられた赤提灯が夜の街を彩っていた。千鳥足で歩く男たちも、みな右手の時計はがっしりと脇に寄せていた。光平と秋道はふらつく中年を避けて歩き、居酒屋の引き戸を開けた。「いらっしゃい」と振り向いた店員は、時計を抱えたまま左手でトレンチを運んでいた。二人は店の奥の小さな椅子に腰かけた。
耳を澄ませば辛うじて針の音が聞こえるほど、店内は喧騒に満ちていた。甲高く笑う中年も、得意げに人生訓を語る若者も、皆が膝に時計を乗せていた。そしてひとしきり笑ったり愉悦の表情を浮かべたりした後で、ふと俯くとたちまち真顔に戻るのだった。
光平はビールを口に含み、「今日は大変だったな」と言った。薄切りのレモンが添えられたグラスを傾けつつ、秋道は「まあ、いつものことだし」と応じた。
「でもほんと、ああいうのはやめとけよ。誰に見られるか分からないから」
「ああいうのって?」
じれったそうに唇を湿らせた光平は、「余計なことを優先するなってことだよ」と言って枝豆に手を伸ばした。
「本当の問題は、そこじゃないでしょ」
秋道も後に続き、さやを押し潰して枝豆を口に放り込んだ。
「分かってるならさあ」
そこまで言って、光平は振り返った。背後から金切り声が届いたのだった。小太りの中年が、真っ青な顔をして立ち尽くしていた。足元にはジョッキが転がっていた。やせ細った中年が、時計を両手に持ったまま喚いていた。時計も膝もぐっしょり濡れていた。ガラスの表面がてらてら輝き、下方に滴が溜まっていた。店内の他の誰も、何も言わず、時計の針の音がどこからも聞こえた。
細身の男は立ち上がり、しきりと頭を下げる小太りの男を左手で殴りつけた。小太りの男は大仰に倒れた。細身の男は顔をしかめ、拳をポケットに入れるが早いか店を出た。小太りの男がすぐに後を追った。
誰もが沈黙していた。秋道は電源の落ちたテレビを見上げていた。そうして五秒後に突然誰からともなく喋り出し、店主がテレビのリモコンを手にした。駆けつけた店員に、件のテーブルに同席していた男性が頭を下げていた。光平はテーブルの端から滴り落ちるビールにしばらく目を留めていたが、やがて「ああいうことになりかねないからだよ」と、秋道に告げた。
「なんで隠すんだろうね」
馬鹿、と光平は立ち上がりそうになって言った。秋道は顎を上向けテレビに瞳を向けたまま、「誰にだって見えてるのに」と続けた。
光平は呆然と口を開け、
「帰るぞ。早く立て」
「またこのパターンかあ」
枝豆を口に含んで立ち上がる秋道をさっさと店から追い出し、光平はレジの前に立った。財布を取り出す頃には、喧騒が戻っていた。
「ありがとうございました」
片手でレジを打ち、店員は平然と頭を下げた。足早にレジから離れた光平は、ドアの手前で店内に向かって深々と頭を下げた。誰も光平を見向きもしなかった。
秋道が往来の真ん中で携帯電話を空に向けていた。
「何やってんだよ、お前」
「月が綺麗でしょ?」
夜道にカメラのシャッター音が響いた。光平は「馬鹿なことすんな」と声を荒らげ、秋道を路傍へ引っ張った。
「酔ってるのか、お前は?」
「俺はいつもこんなんでしょ。ほら、綺麗」
ディスプレイの中央で、満月が細長い雲間に輝いていた。光平は夜空を仰いだ。周囲に漂う雲を月光が放射状に照らす光景は、画面の中よりもはるかに眩かった。
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