時計持ち

@BRi

第1話 秒針が刻む社会

 部屋の明かりを消すと、初夏の日差しが窓の上やテレビの裏側の薄暗さを強調した。スーツ姿の井上光平いのうえこうへいはアパートの室内を振り返ってから、右腕に抱えた丸い時計を覗き込んだ。黒いフレームに縁どられた、砂が詰まったように重い時計だった。鍵を握りしめた左手から、鞄の持ち手を腕に通して光平は部屋を出た。時計の黒光りが目に刺さった。

 玄関の鍵を閉め、光平は改めて鞄を左手に、時計を右手に持ち、歩き出した。一秒ごとに進む針の音に歩調を合わせ、革靴はコンクリートを蹴った。

 駐車場を横切る折、スーツ姿の男性が「おはようございます」と声をかけた。光平のものよりも一回り大きく、縁が銀色の時計を抱えていた。光平は歩みを止め、腰を折って挨拶を返した。相手の男性は鞄を左脇に挟み込み、車のドアを開けた。

 アパートから一歩出ると、青天井が目に眩しかった。雲一つない空の下、電線の向こうにビルやマンションがそびえ立っていた。目を細める光平の背後でエンジン音が鳴り渡り、光平の両足は一秒ごとに前へ、前へと歩き出した。


 駅を出るとアーケードの下に、一連の人波が流れた。スーツに身を包んだすべての男女が、右手に時計を抱えていた。一秒を刻む音、そして歩調には誰一人として狂いがなかった。光平も流れの一部に巻き込まれたまま、周囲から届く針の音に合わせて足を運んだ。

 バス停でベンチに座っている男性は、膝に時計を置いたままじっと前を見据えていた。時計を抱きかかえて俯く女性もいた。だが女性はちらと時計に目を遣ったが早いか、すぐに立ち上がった。同時に、全員が立ち上がった。バスが停留所の手前に到着したのだった。

 光平は黒いスーツに身を包んだ男性の後ろを歩いていた。一秒ごとに上下する逞しい肩は、信号待ちでも上がったままの角度を維持していた。後ろ髪には白いものが混じっていた。光平は背後から相手の時計を覗き込んだ。金色の秒針は止まっては動き、動いては止まる。その動き出す瞬間の重々しさが、光平の目を捉えて離さなかった。

 やがて信号が変わり、皆が一斉に足を踏み出した。左右の白線から足を踏み出す者はいなかった。光平は男性の後ろについて歩いた。電話のベルの音がして、男性は鞄の持ち手を腕に通し、ポケットから取り出したスマートフォンを耳に当てた。上腕から下がった鞄は、やはり針の音の周期に合わせて一秒ごとに揺れていた。光平は息を呑んで、顎を上向けた。街の風景は毎秒角度を変えながら、光平の左右を過ぎていった。


 オフィスの廊下では篠田華美しのだはなみが、光平のものよりも一回り大きな時計を抱えてきびきびと歩いていた。小柄な背中は真っすぐに伸び、後ろで結った黒髪が艶めいていた。左脇にはノートパソコンを抱えていた。

「おはよう、篠田さん」

 声をかけた光平に、篠田は「おはよう。建物ん中は暑いねえ」と快活な笑みを浮かべた。日の当たる廊下で、二人の歩幅が揃った。華美はパソコンごと持ち上げた左手の甲を、鼻の頭に当てた。

「相変わらず気合が入ってるねえ。来るの早いし」

「当たり前でしょう。ここ職場だよ? 井上君も、もっとシャキシャキ歩きなさい。ほら、もっと顎を上げて、背筋を伸ばす」

 光平は言われるままに姿勢を正した。すると体が右に傾き、華美は眉をひそめた。すぐさま肩を上げた光平に、華美は「よしよし」と頷いた。

「もっと体力つけなさい、君は。栄養が足りないんじゃない?」

「コンビニ弁当ばっかりだからねえ」

「自炊しなさい、たまにでいいから」

 オフィスルームのドアノブを握ったまま、華美は振り返らずにそう言った。

「おはようございます」

 室内を見回しながら、光平は言った。室内に鳴り渡る針の音に、たちまち二人の時計の刻みは調和した。皆の視線がドアに集まり、同僚は口々に挨拶を返した。端末に出社の打刻をした光平は鳴海秋道なるみあきみちの席に後ろから近づき、「おはよう」と椅子の背を肘で打った。パソコンに向き合っていた秋道は、口角を上げて「おはよう」と呟いた。秋道は太股の両脇が見えるほど小さな、フレームが茶褐色の時計を膝に載せていた。細く白い針の音はほとんど聞き取れなかったが、パソコンを覗き込む光平の耳にはかろうじて届いた。

「明日飲みに行くぞ」

 光平の誘いに、秋道は「いいね」と応じ、またすぐに視線をスクリーンに移した。小さな時計の文字盤は、1から12までの数字に囲まれており、真ん中には「26450」と数字が並んでいた。光平は屈めていた腰を起こし、背筋を伸ばしてから、自分の時計に目を遣った。「23768」の上に、「Thu」と表示されていた。

 自席の椅子に腰を下ろした光平は膝の上に時計を置いた。短針は8と9の間にあった。平たい重みがパンツの上から伝わった。光平は大息を吐いて、椅子を机に寄せた。

「井上、来てるか」

 丘修一おかしゅういちの声が室内に響いた。光平はキーボードにかけた手をたちまち時計に当て、立ち上がった。

「部長、おはようございます」

「ああ。お前、もうちょっとでいいから早く来い。な?」

「申し訳ありません」

 両腕で時計を支え腰を折る公平に、丘は「まあ、今日は俺が早かっただけだからいいんだがな。そういう日もあるってことだな」と言って咳払いした。

 光平は時計の乗った両腕を、丘の前に無言で突き出した。風防のガラスの上に、丘の銀色の時計が積まれた。光平は腰を落としたが、腕は下がらなかった。

 丘の時計は小銭が詰まっているかのように重く、大きく、光平の時計はすっかり隠れてしまった。ゆっくりと腕を下ろし、二つの時計を抱きかかえてから、光平は「お手洗いですか」と尋ねた。

「そうだよ、分かってるじゃないか。一人でやろうとしたが、無理だった。出るものも出らんよ」

 丘は一笑し、右腕を屈伸させて入り口へ向き直った。重々しい秒刻を腹に受けつつ、光平は時計をしっかり両腕で包んで後に続いた。

 部屋を出る際、丘は「鳴海、仕事してるか」と秋道の背後に立った。両肩に置いた手で体を揺すり、「相変わらず気楽そうだなあ、お前は」と真顔のままで言った。

「羨ましいよ、お前のような奴が」

 椅子が一秒周期で軋った。秋道は「恐縮です」と頭を下げた。

「真に受けるな、馬鹿が」

 冷笑した丘は秋道を突き放し、光平の元へ足早に歩み寄った。

「お前の時計は立派なもんだ」

 そうして身を屈めた丘は、自分の時計の下を覗き込んでそう言った。

 

 職員の膝元にある時計の針の刻みを縫って、室内には間断なくキーボードを打つ音が鳴り渡った。時おり、丘の咳払いや欠伸が入り混じる以外に、一秒ごとの調和を乱す者はいなかった。鼻を啜る音、紙をめくる音、棚を引く音、すべては秒針の音に覆い隠され、コピー機の排紙音や電話の呼び出し音や、エアコンの駆動音、そしてタッピングの音が間隙に差し挟まれた。光平の目に、華美の伸びをする姿が映った。針の音に紛れてかすかに関節の鳴る音が届いた。華美は首をゆっくりと左右に倒し、すぐにまたパソコンと向き合った。

 時計の短針と長針が、12に近づいていた。手を止める者こそいなかったが、俯きがちにマウスを操作する秋道同様に、光平も時計の針にしきりと目を遣った。

 壁掛け時計が電子音を鳴らし、同時に職員全員がため息を漏らした。めいめいが隣の者と喋ったり、腕を伸ばしたりしていたが、針の音が止むことはなく、光平の秒針もすぐに3の辺りを指していた。

 立ち上がった光平に、時計を右脇に抱えた丘が「昼飯に行くぞ」と誘いかけた。光平は両腕を差し出した。黒縁の時計の分針が、真っすぐに伸びた腕の上で一つ進んだ。丘の時計の重みが加わり、肘が沈んだ。光平はすぐに両の時計を抱きかかえた。無言のまま、二人はオフィスルームを後にした。

 受付の女性が二人に頭を下げた。自動ドア越しに往来が窺えた。誰もが右腕に時計を持ち、真っ直ぐに眼前を見据えていた。丘は盛んに動いていた口を閉じ、光平に腕を突き出した。光平は慎重に時計を持ち上げ、銀縁の時計を丘の腕の中に戻した。瞬間、丘の口元がぐっと引き締まった。二人は時計を右脇に持ち代え、何食わぬ顔で自動ドアの向こうに歩み出た。生温かい風が光平の髪を揺らしつつ、ビル内の匂いを四散させた。秒針の音は街全体に響いていた。人だかりに足並みを揃えて歩く光平は、自社のビルを仰いだ。大きな時計が看板の真下に据えられていた。光平の足取りと同じ拍子で秒針は回っていた。

 喫茶店のメニューの書かれたスタンドボードには、木製の時計が貼りつけられていた。コンビニエンスストアの看板のデザインに取り込まれた時計の針は、正確に動いていた。

「腹が減ったな。近いから牛丼でいいか?」

「ええ、もちろん。ちょうど食べたかったんです」

 光平はそう言って右腕に目を移した。スーツの影から姿を現した秒針が、8へ向かっていた。丘の握られた左拳も視界に入った。光平は牛丼屋の立て看板に目を移し、息を吸った。そうして電飾の上にそらぞらしく載せられた時計の秒針が12を指してから、息を吐き始めた。


 電車の揺れは乗客の針の音に応じなかった。急な揺れは突然に訪れ、走行音も一秒周期ではなかった。光平がつり革に掴まったまま乗客を見渡すと、イヤホンを耳に差し込んでいる者が多かった。つり革を手放し、スマートフォンを操作する男性は、激しい揺れに身を大きくよろけさせた。それでも時計はしっかりと右腕に収まっていた。

 座っている客の多くは、目を閉じたまま小刻みな揺れに身を任せていた。前のめりに舟をこいでいる女性も、膝元の時計はしっかりと抱えていた。針の音は走行音に紛れ、まったく不規則に耳に届くことさえあった。光平は大げさに身を揺すりながら、窓の外を次々と流れゆく光を目で追っていた。

 アパートの鍵を開け、光平は鞄と買い物袋を玄関先に置いた。そうして右手の時計はそのままに靴を脱ぎ、後ろ手に鍵を閉めた。明かりが灯った部屋のカーテンレールには時計が掛かっていた。箪笥の上には目覚まし時計が、本棚の上にはデジタル時計が置いてあった。光平はソファーに横になった。腹の上に載せた時計が、食後の胃を圧迫した。部屋の時計も寸分の狂いなく動いた。光平は時計を持ち上げ、文字盤を顔の正面に向けた。光沢を帯びたガラスの表面に、顔面がうっすら浮かび上がった。呼吸の周期が次第に秒刻みになっていった。やがて瞼が半分ほど下り、縁が手からずり落ちた。すかさず持ち直した時計の短針が12を指し、間を置かずして文字盤の数字は「23768」から「23767」に減った。光平は唾を飲み込み、ため息をついた。そうして立ち上がり、時計を脇に挟んだまま浴室へと向かった。

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