第4話 破砕

 丘に引き連れられ光平はオフィスルームを後にした。重厚な時計の短針は3と4の間を指していた。

「今日はちょっと早めに来てたな」

 素っ気なく言って、丘は箱から出した煙草を咥えた。そうして頷いた光平には目もくれず、ポケットの中をまさぐった。

「感心感心」

「ありがとうございます」

 光平が下げた頭を上向けると、丘の表情が強張っていた。鋭い視線が給湯室に向けられた。開け放たれたドアから忍び笑いが漏れていた。荒々しく煙草を唇から離した丘に合わせて、光平は歩調を速めた。

 壁にもたれかかる秋道と華美の姿が一瞬間、光平の目を捉えた。華美は珍しく両手で時計を抱え、秋道に寄り添い笑っていた。二人はすぐに血相を変えた。

「何をやってんだ、お前ら」

「申し訳ありません」

「すいません」

 深々と頭を下げる華美に対し、秋道は軽く一礼して、ちらと丘の手元に視線を向けた。

「文句あるのか、お前」

 華美は秋道の頭を掴み、強引に押し下げた。前髪を垂らして再度「すいません」と告げる秋道の下に、丘は歩み寄った。

「恥ずかしくないのか、お前は」

 四つの秒針が、給湯室の時計の針の音に合わせて三度動いた。

「恥ずかしくないのか、と聞いてるんだ。何から何まで手取り足取りで。何しに社会に出てきたんだ、お前」

 秋道は丘と顔を向き合わせたまま黙していた。丘が大きくため息をついた。

「とりあえず、篠田は戻れ。俺はこいつに話がある」

 顎をしゃくった丘に、華美は「私も同じ話を聞きます」と言って歩み出た。「ああ?」と怒鳴るような声が、光平の肩を震わせた。

「お前まで何だよ。付き合ってるの? お前ら」

「そういうのは関係ないと思います。ただ私も同じことをしていたので、同じ話を聞く権利があると思っただけです」

「権利ねえ」

 丘が鼻で笑って言った。

「まあ権利はあるな。ただ、俺にも相手を選ぶ権利がある。どっちの権利が大きいか、分かるな」

 そう言って丘は背後を顧みた。視線は光平にではなく、時計に向けられていた。光平はとっさに俯いた。黙りこくった丘の時計は、重々しく規則的に針を進めていた。光平は徐々に顔を上向けた。そうして華美と目が合うと、また顔を伏せた。華美は眉をひそめ、唇を噛みしめていた。

「そういうことだから、お前は戻れ。な?」

 猫撫で声を出す丘に、秋道は真顔で「権利を光平に預けてもいいんですか?」と問うた。途端に「馬鹿野郎」と丘が怒鳴り、顔を引きつらせた華美が後ずさった。

「ちょっと来い、お前は社会人以前の問題だ」

 腕を掴まれた秋道は、危うく時計を落としそうになった。その足先を丘が踏みつけた。

「痛っ」

 光平は身を引いて、二人に道を譲った。去り際に振り返る秋道を、光平と華美は静かに見送った。

「やっちゃったね」

 青ざめた顔の華美に、光平は棒立ちのまま告げた。

「あいつはルールってやつを分かってないんだよなあ」

 重なった時計が、秒刻みで振動を光平の腕に伝えた。肩を上げると、丘の時計が光平の時計のガラスを打ち鳴らした。

「ルールって何だっけ」

 か細く呟く声は震えていた。

「篠田さんまでそんなことを……」

 笑いかける光平に、自分の右腕に左手を添えた華美は虚ろな目を向けた。赤い唇が開いたまま、数秒が経った。

「そうだね。そんなことだね」

 そう言って華美は目を床に伏せたまま歩き出した。光平も口を開いたが、言えずじまいのまま細い体躯を目で追った。すれ違いざまに鼻をかすめた香水の香りは、針の音に構わずいつの間にか消えていた。


 翌日も同じ時間に光平は駅ビルを出た。辺りを見回しても華美の姿はなかった。左手に鞄を、右手に時計を抱えた老若男女とぴったり歩調を合わせて、ひたすら真っすぐに歩いた。鳥のさえずりが針の音に刻まれた。道端に茂る野草の緑が、時計の照り返しに映えた。光平の右頬を汗が伝った。滴が顎の先から落ちるまで、光平は時計を身から離していた。

 華美は既にオフィスで机に向かっていた。

「おはようございます」

 光平の言葉にようやく気付いたように会釈し、華美はすぐ作業に戻った。まだ秋道の姿はなかった。

 時計を膝に載せたまま、光平はドアに注意を払った。俯くと光沢のあるガラスに透けた顔が映った。丘よりも先に秋道が姿を現した。安堵の表情で息を漏らす光平を尻目に、秋道は華美の席に立ち寄った。二人がぼそぼそと会話をする間も、同僚の時計は刻一刻と針を進めていた。

「おい、そこ!」

 怒声が部屋中に響き渡った。丘が入り口から、秋道の下に迫った。そうして鞄を放り投げる勢いで床に置き、秋道の肩を突き飛ばした。

「朝からお喋りか。ずいぶんいい身分だな、あ?」

 何度も肩を押され、されるがままの秋道を、光平は手を組んで遠くから見遣っていた。華美が凛として「やめてください」と言った。

「もう十分でしょう」

 固まった空気の中、秋道は胸に時計を抱きかかえ、「申し訳ありませんでした」と深く頭を下げた。

「べらべら喋られると周りが迷惑だ。二度とするな」

 首を垂れ黙する秋道を残し、丘は自席に座った。そうして「いつまで突っ立ってるんだ!」と背中から怒鳴りつけた。光平の鼓動は時計の律動を無視して高鳴った。すかさず取り出した携帯電話を机の下に隠し、ようやく動き出した秋道に、「昼飯一緒に食べよう」とメッセージを送った。

 短針が12を指し、めいめいが腕を伸ばしたり、欠伸を噛み殺したりしている頃、丘は光平を呼び寄せた。

「飯食いに行くか」

 時計を受け取った光平は秋道に小さく会釈して、もたもたと財布を取り出す丘を待った。

「じゃあ行くか。あ、ちょっと待て。お前、明後日の会議の準備はできてるか」

 唐突な問いに、光平は「はい、もちろんです」と首肯した。

「今説明してみろ」

 丘は空いた席の上に裏紙を広げた。片脇に時計を二つ挟もうとした光平を制止し、丘は「おい」と華美を指差した。

「篠田、お前だよ。ちょっと来い」

 即座に華美は立ち上がった。すると秋道も席を立った。華美は秋道に先んじて光平に迫った。

「何だお前。お前は自分の仕事しろ」

 半笑いで秋道に向けた手の甲を振る丘を尻目に、華美は光平に向かって細い腕を突き出した。上には立派な時計が載っていた。光平は「大丈夫」と言ったが、華美は譲らなかった。

「井上、さっさとしろ。鳴海、お前に用はないんだよ。飯でも食いに行ってろ」

 淡々と命じる丘を無視して、秋道は「俺が……」とまで言って口を噤んだ。鬼気迫る表情の華美が大きく腕を上下させ、咳払いした。

「あのな、鳴海。お前には関係ないと言ってるんだ。だいたいお前には務まらん」

 光平と華美の間に割り入ろうとした秋道を、丘が強引に引き離した。光平は唾を飲み込み、「三分で説明します」と言って華美に二つの時計を渡した。華美の厚い風防が鈍い音を立てた。光平が手を離した瞬間に、三つ重なった時計がぐっと沈んだ。大きく息を吸った華美は、直立したまま時計をゆっくりと下ろした。両腕ががくがくと震え、唇は真一文字に結ばれた。荒い息遣いが光平の耳にも届いた。

「いろいろ聞きたいことがあってな。お前は時間大丈夫か?」

「はい。ではよろしいですか」

「ちょっと待て。鳴海。お前、コーヒー買って来い」

 言い終わらないうちに、秋道は時計を投げ捨てた。そうして握りしめた拳を丘の頬に振り下ろした。

 秋道の時計が止まった。

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