第10話 ちっちゃい宝物

●ちっちゃい宝物

 車椅子を押して街に出る。

 今の社会になって良かったことは、街の隅々にまでバリアフリーが徹底した事だ。

 スロープや段差の排除。杖や車椅子、ベビーカーに対する人々の気持ちも以前に比べて温かい。


「あらあら。唯ちゃん。何をきょろきょろしているの? いつもの道よ」

 頻りに辺りを見回すパティー。


「だって。だってだって……」

 上手い語彙が見つからなくもどかしそう。


「判った。この高さで見るのは初めてね」

「うん」


 子供は大人と違う世界を見ているのだ。という人が居る。視点が五センチ違うだけでもまるっきり別の世界に見え、それが三十センチも違えば全くの異世界になってしまうのだと。


 子供と大人でもそうなのだ。まして犬の視点は物凄く低い。

 ああそうか。あれか。ちっちゃい子が高い高いされて喜ぶような、私達が遊園地の観覧車に乗って居るような感じなのだ。


「これからはこんな機会も増えて行くわ。ちょくちょく橋本さんが正樹を誘ってくれるだろうから。

 ……大丈夫よ。今の正樹に、幼稚園の頃の様な女の子に対する積極性なんてからっきしよ」


 橋本さんの名前が出ただけで、顔に嫉妬が浮かぶパティー。


「それにもし、あの子と正樹が結婚することに成ったとしても。唯ちゃんはあの子よりもずっと正樹の近くに居られるんだから」


 盲導犬としての立場は、ある意味人間同士の結婚に勝る強い絆だ。いくら橋本さんや他の女の子が頑張っても、パティーのように正樹の目として生きる事は出来ない。


 話し掛けつつ道を行くと、正樹の学校を左に見て二百五十メートルほど進めば歩行者天国。

 普段は車の物である大きな通りが、縁日の様な屋台で埋まって居る。


「唯ちゃん。今日はオフだから、普段できないことが出来ちゃうの。

 何が食べたい? 今日はアイスクリームだって綿飴だって食べていいのよ。

 ふふっ。心配しなくていいのよ。後でいつもより念入りに歯磨きしてあげるから、虫歯の心配なんてしないでどんどん食べて。

 きょうは特別。どんどん我儘言ってちょうだい」


「じゃあ。あれ」

 恐る恐るパティーは、指一つ動かせない手袋の先をおもちゃのくじを売って居る屋台に向けた。


「いいわよ。あれでいいの?」

「いいの?」

「良く無かったら聞かないわよ」

 おねだりされたのは高弾性ゴムボールのくじだ。殆どがビー玉サイズだが、当たりで一番大きいのはテニスボール位もある。

 パティーは普段食べられない甘い物では無く、おもちゃのくじをおねだりした。


「はい。七十八番・三十六番・八十九番・百八番。惜しい十七番」

 赤や青や紫や、緑や黄色の透明な玉。今でもちっちゃい子に人気のあるおもちゃだ。


「わぁ、キレイ」

 男の子は投げて遊ぶけれど、女の子は宝石代わりに光に透かして楽しんだりする。


 はしゃぐパティーの車椅子を押して、出店を抜けた私は、人気の無い駐車場を横に見る枝道に入ると、

「本当にこんなのでいいの?」

 とパティーに訊ねた。


「うん。前にまぁちゃんに貰ったけど、わんちゃんになる時に」

 人犬には人権が無い。とうぜん財産権も無い。

「これからわんちゃんになるお前には要らないんだよって言われて」

 訓練所に着くなり、着て来たお気に入りの服を剥がされて目の前で燃やされたとパティーは言う。


「まぁちゃんがくれた宝物も、全部取られちゃったの」

「そう。こんなボールだったのね」

「うん」

 大人の感覚ではたかが一つ百円で買える高弾性ゴムボール。だけど幼稚園の頃の正樹なら、ガチャを一回我慢して手に入れることが出来る一財産。それをこの仔にやっていたのだ。

「まぁちゃんね。お嫁さんの印だってくれたの」


 肌身離さず大事にしていた、正樹からプレゼントされたと言う高弾性ゴムボール。それもその時取られてしまったのだとパティーは言った。

 思い出したのか涙が出てる。


「安心なさい。ずっと唯ちゃんの物だから」

 そう言いながら、私は屋台のおじさんに透明な袋に入れて貰った高弾性ゴムボールを手摺に括りつけた。


 さぁ。ここから二つ目の角を曲がると見えて来る看板が、子供やペット専門の写真館だ。

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