第07話 止まった時計

●止まった時計

 半分眠りながら自室へ戻る正樹を見ながら、正樹の母は肩を竦める。

「ほんと、無責任なご主人様ですわね」


 残されたのは濡れネズミの盲導犬パティー。本物の犬では無い。犬に加工された人犬だ。

 普通の人犬なら、人間の顔と胸部と腹部そして秘所を元に残したまま、他は犬の姿に置き換えられているのが通例だ。

 しかしパティーは、身体に犬の毛は無く背中もお尻も人間のまま。

 ベリーショートの髪から食み出した犬の耳と、お尻の付け根にちょこんとごく短い犬の尻尾。それに両肘と両膝の先が犬に為って居る。肌は人間のままなので、とても傷つきやすく寒さに弱い生き物だ。


 そんなパティーの身体を拭いてやり、無香料の保湿オイルを手に取り

「今日も一日ご苦労様。パティーが頑張ってくれて助かるわ」

 にこやかに話し掛けながらマッサージしてやる。


「ここ、辛いでしょ?」

 正樹の母は、未加工故に四つ足生活で負担の掛る首や周りの筋肉を、オイルを擦り込みながら揉み解す。

「くぅ~ん」

 甘えた声で気持ち良いと返って来るのを、

「いい仔ねぇ。パティーは本当にお利口さん」

 前足を掴んで身体を起こし、抱き寄せながら肩をストレッチ。


 家に来た時と比べて少し体長も伸びたが、生体埋め込みチップや定期注射の薬で成長を抑えているせいかまだまだ小さい唯の身体。

 幾分丸みを帯びて来ている身体付きも歳から考えればかなり幼く、見た目は人間だった頃と大して変わって居ない。


「どう? 今夜は久しぶりに私と寝る?」

 とパティーに訊ねた。


「わん!」

 短い尻尾がパタパタと揺れる。


 ここで正樹の母は、魔法の言葉を囁いた。

「それじゃ、お喋りしましょ? ゆ・い・ちゃん」


 パティーは暫く喃語のように、あーだのばぁーだの慣らしをしていたが、やがてたどたどしい口ぶりで、

「あい、ごちゅじんしゃま」

 すると正樹の母は、

「やっぱり、人間の時の名前で呼ばれないとお喋り出来ないようにされてるのね」

「ふぁい、ご主人しゃま」

 段々と活舌が戻って来る。


 盲導犬は目の代わり。だから必要があればパートナーの為に、本などを朗読出来る隠し機能で会話機能を残したまま、強い暗示で人間の時の名前で呼ばれないとお喋り出来ないようにされて居る。

 一般公開されていないその事を知ったのはつい最近。学校のPTAの集まりであった。


「唯ちゃん。昔と同じ、まぁちゃんちのおばさんでいいわよ。いいえ、お母さんと呼んで貰おうかしら」

 正樹の母がそう言うとパティーは、

「いいの?」

 と聞き返した。

「ゆいちゃん。わんちゃんだよ。まぁちゃん。ご主人さまだよ」

 そう言う口調は幼稚園の時のまま。唯の人間としての時間はそこで時計の針を止めている。


 堪らなくなったのか、正樹の母は頬摺りして、

「ごめんね。唯ちゃんがこうなると知って居たら、何とかしてあげられたのかも知れないのに」

 ちっちゃい子を抱き上げる様に持ち上げた。


「人見知りの激しかった正樹がね。将来僕のお嫁さんにするんだと、唯ちゃんを連れて来た時は正直嬉しかったわ。

 まさかそれが、未加工の人犬の仔だとは知らなかったの」


 殆ど幼稚園からの持ち上がりでお友達と一緒に一年生に為る子が多い。そんな中、目の病気で普通の小学校に上がれなかった正樹。

 そこで正樹と唯の交流が途絶えたのだが、幼稚園のお免状を貰った唯が入学したのは小学校ではなく人犬の学校だった。


 唯は人犬が産んだ仔だ。姿こそ人間で生まれて来たが最初から人権など存在しない。

 本来ならばこう言う仔は生まれて直ぐに加工されるものだが。実は全部が全部加工されるわけではない。

 遺伝子的には人間であるが人権が無いため、子供が欲しい人に販売されるのだ。それで人犬が産んだ子供を引き取って実子として育てるケースも一定数ある。


 ただ唯の場合、可愛い盛りをペットとして可愛がりたい人で有ったため、戸籍に入れず育ち過ぎた唯を業者に引き取って貰ったのだ。

 もしも業者に売り渡す直前で養子として引き取りたいと言う者が居れば、犬では無く人間として生きて行く目もあったらしい。

 しかし正樹の母がその事を知ったのは、既に唯が売り渡された後だった。


 幸い早々と手を打って、販売カタログに載っていた唯を抑えることが出来た。カタログ写真を撮った段階で、既に今流行の最小限加工タイプの人犬にされていた唯であった。しかしそれ以上に手が加えられない内に買い取ったのだ。


 なんとか唯を確保した時、唯は盲導犬のコースに入って居た。

 人間として育てられた人犬の仔は人間との暮らしに良く馴染む。だから唯は将来の盲導犬として選り分けられていたのだ。


「まさか正樹の不幸が、唯ちゃんをうちに呼ぶ決め手になるとは思わなかったわね」


 いずれにせよ私には、正樹の為に盲導犬を手に入れる必要があった。

 派遣では無く正樹専従にする為の購入は、訓練費用を含む高価な物であった。けれども十分にその甲斐はあったと思う。


 最小加工タイプ。つまり肘と膝の先を隠し耳を隠せば、人間と変わらぬ姿の人犬と成った唯。但しこれはこれから犬として生きて行かねばならない唯にとって、色々負担を強いる事になって仕舞う事にもなっている。

 例えば四つ足歩行時の若干首に負担の掛るものと為ったし、前肢に比べ後肢が短いから早く走る事は難しい。

 例えば毛皮を持たないから、怪我をしやすく寒さにも弱く毎日の肌のお手入れが欠かせない。


「却って残酷な事をしてしまったのかも知れないわね」


 正樹の母は、いつものように幼児みたいに縦抱っこした唯を居間まで運んだ。そしてソファーに腰掛けると、幼児を座らせるように唯を座らせた。

 こうしていると人間の仔を抱いているような感覚に襲われるが、もぞもぞと振られる短い尻尾が、唯が人間では無く犬であるのだと残酷な主張をする。


 しかし、唯にとって嬉しい事らしい。顔の表情は作り笑いでは無く本物の笑顔。


「唯ちゃん。お喋り出来ると知って居たら、もっと早くお話出来たのに。てっきりカタログ写真の段階で、犬の声しか出せないように加工されていると思い込んでいたのが残念だわ」

 仕事の邪魔に為らぬ様ベリーショートに切り揃えられた髪を、頭を撫でつつ指で梳く。


「お喋りは女の子の楽しみなのに。ずーっとさせてあげれなくってごめんなさいね」

 呟くように口にしながら。

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