第05話 アフターファイブ

●アフターファイブ

 学校が終わりまた街の雑踏を歩く。日暮れの時間に差し掛かると、風が少しひんやりとして来るにしたがって彩の無い世界が更に光を失って行く。こうなるとパティーだけが頼りだ。

 朝の道を逆に辿り家に辿り着く頃には、すっかり暗くなっていた。


 うちでは大体ここでお仕事の時間は終了。正式には僕が部屋に入ってハーネスを外した時からパティーは盲導犬から僕の愛犬になる。


「正樹。お風呂沸いたわよ。パティーも洗ってあげなさい」


 母さんに促されてパティーを連れて浴室に歩いて行く。

 勝手知ったる我が家だし、パティーのハーネスを外したこの時間は普通よりも確りと、母さんが僕の動線の安全を確保済だ。


「ありがとう」

 パティーは本当に良く出来たわんちゃんで、こうして僕が服を脱いだ片っ端から洗濯待ちの篭に移してくれている。


 だけど、

「わん! わわん!」

「あ。これは良いんだよ。僕が入れるから」

 脱いだパンツを受け取ろうとするパティーを制して、僕は藤の籠を足で確認して放り込んだ。


「正樹も少しはお片付けする気になったのね」

「母さん!」

 脱衣篭を取りに来た母さんが笑う。


 今だから笑い話で言えるけれど、パティーが家に来て暫くは、前からの癖で時脱いだ服を床にそのままにしておくことが多かったんだ。だっていつの間にか母さんが片づけてくれたからね。


 笑わないで欲しいな。家にパティーが来た時はまだ、僕は小学校の二年生だったんだぜ。でも、僕が脱ぎ散らかした服を全部パティーが片づけてる事に気付いた時、せめてパンツだけは自分で篭を探して入れるようにしたんだ。


 考えてみてよ。パティーは犬なんだから当然手は使えない。つまり口で咥えて片づけている。しかもたった今まで穿いてたパンツを……。

 ふっと、そんな光景を思い浮かべ、自分の身に置き換えてみた。


「だめだめだめ! そんなの駄目!」

「正樹! どうしたの?」

「わふ?」

 行き成り大声を出した僕に、何事かと駆け付けるお母さん。そしてきょとんとしているパティー。


「色々溜まっているみたいね。どう? 偶には前みたいに一緒に入る?」

「母さん! もう子供じゃないよ。電車代だって大人料金なんだから」

「はいはい。そうでしたわね。早くお風呂に入りなさい。風邪ひくわよ」

 まだ学校に通う身だ。本当の大人じゃないことは解っているけれど、あまりにも母さんが子供扱いするからつい、

「解ってるってば」

 って言ってしまう。

 これ自体、大人じゃない証拠だって判っては居るんだけれど。


「くす。本当ね。前は『パティーだって裸だよ』なんて言ってたものね」

「母さん……」

 それ小学校の時だよ。確かに五年生位まではそんなこと言ってた覚えがある。


「パティーも綺麗にしてやりなさいよ。毛の無いわんちゃんは直ぐお肌のトラブル起こすんだから」

「……はーい。入ろう、パティー」

 僕はパティーを連れて浴室に入った。


 中は僕が目が悪く為る事が判った時に改装したユニットバス。大人二人がゆったりと入れる湯船に、広く取ってある洗い場。

 僕が大人になった後も、母さんが介助する積りで直したんだと言って居た。


「わん! わん!」

 仰向けに転がって降参するパティー。


 まだ目が見えていた幼稚園の時、友達のお家のわんちゃんがしているのを見たことがある。

 後ろ足を広げて、お腹だけじゃなくおしっこの所もお尻の穴も丸見えの無防備な格好で、急所を曝け出して相手にごめんなさいするんだ。


 だけどこのポーズはそれだけじゃない。わんちゃんが甘える時のものでもある。


「いい仔だね」

 お腹を撫でてやる。今はお仕事中じゃないから、こうして愛玩犬として可愛がることが出来るんだ。


「あぅ~ん。あぅ~ん」

 気持ち良さげに啼くパティ。

 パティーには毛が生えてない犬だから、お腹も吸い付くようにきめ細かい肌。

 普通に毛の生えてる犬とは違った手触りの良さがある。


「あん! あん! くぅ~ん」

「パティーも気持ちいいかい?」

「わん!」

「そろそろおしまい」

「くぅ~ん」

 止めようとするとおねだりして来る。


 甘えたいの解るよ。だってパティーは仔犬だもの。盲導犬のお仕事があるから気を張って頑張っているけれど、本当はまだまだ甘えたい年頃なんだ。

 それなのに僕の為に、うんとちっちゃい頃からお父さんお母さんと引き離されたパティー。僕の目に為るために厳しい訓練を一年も受けて、僕の家にやって来たんだ。


 お仕事だから、誰かに叩かれても蹴っ飛ばされても悲鳴を上げる事も無いし、おしっこもずーっと我慢させられる。


「あ!」

 忘れてた。

「ごめんパティ」

 昼に一度おしっこさせただけだった。


「母さ~ん」

 慌てて呼ぶと、

「これでしょ? はい」

 コントローラーを持って来てくれた。だけど、

「正樹はうっかりやさんね」

 母さんにくすくす笑われた。


「ごめん。辛かっただろう?」

「くぅ~ん」

 下腹部の膀胱の辺りに手をやると、そこだけぷっくりと膨れている。軽く押すと、

「きゃん!」

 固い手応えと共に悲鳴があがった。


「ご、ごめん!」

「くぅぅ~。くぅぅ~」

 すすり泣きにも聞こえる抗議の声に、僕は本気で謝った。

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