第5話
「ほー広いなー、案外人少ないんだな」
海の前にずらりと並ぶ住宅街の路地を抜けると、一気に潮風が吹いてくる。この感じがたまらなく好きだ。
このビーチは端から端までが3km程あり、砂浜が長く緩いカーブを描いているのが良くわかる。打ち寄せる波は教科書の重要な文に引く波線みたいに端から順番にうねっているのが見える。
「もうクラゲが出て泳げないからね」
毎年お盆を過ぎると岸の方までクラゲが来て刺されるので、たいていは夏休み前半の1~3週間しかがっつり海に入って遊ぶことは出来ない。
「だから後半に来ると海で遊べないって言ったんだ」
アキが最初にここに来ると言った時はまだ夏休みも始まったばかりだったので、試しに海に行って泳ぐか?と聞いてみると、
「泳ぎたいけど、多分行けるのは後半だろうな」
と返ってきたので、
「その頃はもう泳げないぞ」
と返したのだった。
クラゲの動きは遅いので、発見できれば避けて泳ぐことも出来るけど、あの透明感で海上から目視するのは難しいし、何より刺されてしまったあとのことを考えると絶対に嫌だ。
「クラゲに刺されると痛いからな」
そういえば昔、家族3人で海に行ったことがあった。ゆきが夏休み前からずっと皆で海に行こうと言っていたのだが、母も忙しく、結局行けたのはお盆前ぎりぎりだったと思う。
案の定、ゆきはクラゲに刺されてしまった。そしてそれ以来ゆきは海に寄り付かなくなった…という訳ではなく、その次の年も懲りずに海に行きたいとせがんでいた。どうやら僕の妹の辞書に「トラウマ」という言葉はないらしい。
ばしゃっ
「わ、冷た!」
いきなり水が僕の頬に直撃。突然のことすぎて、一瞬何が起こったのか理解出来なかった。
「何考えごとしてんだよ」
どうやら、ぼーっと考え事をしていた僕にアキが海水をかけてきたようだった。
「ごめんって、あーもう、服が濡れたじゃん」
そんな僕にアキはお構いなしに水をかけようとしてくる。負けじとアキに向かって水を蹴るようにして足でとばす。
「お、やったな」
それからはもうお互いに水をばしゃばしゃと掛け合い、海水が目に入っても、服や髪の毛が濡れても気にせずにはしゃいだ。踊るように宙に舞う水が僕の視界いっぱいに広がって、アキの顔がよく見えなかった。それでも、絶えない水音の中でアキの笑い声が聞こえてくるので、僕もつられて笑う。やがて体力も尽き、どちらからともなくビーチの入り口近くにある屋根のスペースの上へと2人で寝転ぶ。
「はー疲れた」
「もう服びしょびしょだな」
影のなかに入ってみると、海や空、砂浜の輝きが一層増して見える。
「風が吹くと涼しいな」
「あぁ、この調子だとすぐに乾きそう」
「そうだな。あー、惜しいことした。海入れるうちに来ればよかった」
アキはがばっと起き上がってTシャツをばたばたさせる。
「おーすごい、絵になってるよその図」
「なんだよそれ」
「しゅうもなんか、雑誌の表紙みたいだぞ」
「なんだよそれ」
潮風は絶えず吹き、僕たちの髪を揺らす。
なんとなく会話をする雰囲気じゃない気がして、さっき買った駄菓子を食べる。
するとアキもがさごそと袋を漁り、炭酸ジュースを取り出して飲む。
静かに時が流れてゆく。夏の雲は流れるのが遅く、ゆっくり、ゆっくりと左の方へ移動してゆく。毎日忙しなく生活しているとその事も忘れてしまう。僕はたまに空を見上げて雲の流れてゆくのを見るのが好きだった。
アキにも、あるのだろうか。止まらない時間の中で、ゆっくりと立ち止まって休憩することが。
アキにも、深呼吸を十分にできる瞬間が、あるのだろうか。目を瞑って、鼻からすーっと息を吸う。胸がこれ以上ないくらいに膨らんでいるのが見なくても分かるくらい、すーっと。
そのまま、すこし息を止めてから、だんだんと、少しずつ、風船のなかの空気を慎重に抜くような感覚で息を吐いてゆく。上から下へ、ストンと落ちるようなイメージで深呼吸をすると、少しだけ日々の悩みも一緒にストンと落ちているような気になる。
僕はそれをアキにも知ってもらいたくて、僕流の深呼吸を伝授した。
アキはとても真剣にやってくれたけど、なんだかヨガ教室でも開いてるみたいでおかしくて、笑ってしまった。
「こういうの、気の持ちようなんだろうけど、こんな真面目に深呼吸することないから効果絶大な感じがする」
本格的にヨガ教室を開けるかもしれない。
「調子のんなよ」
それから、服も生乾きくらいになってきたので移動することにした。アキが興奮気味だったペットボトル活用術で足やサンダルを綺麗にし、海をあとにする。
しばらくは海沿いに歩き、近くにある小学校へ行った。僕の母校であり、ゆきが今現在通っている学校である。しかし、木造の校舎の外側には厳つい鉄骨が組まれている。
「新しくでもするの?」
「うん、改築で無くなるんだ。木造校舎」
校門を入り真っ先に目に入る横に長く広がる2階建ての木造校舎は、4~6年生の教室がある。
昇降口から近い方の階段を登ってすぐが4年生、次に5年生、6年生と、正面から見て左にゆくにつれ学年が上がる。どの学年も2組ずつクラスがあり、廊下は一直線に繋がっている。一番左の狭い階段を降りると石廊下を挟んで図書室がある。
「古いけど、暖かみがあって好きだったんだ」
そう話す僕に、アキは無言で頷く。
「うちの家もそんな感じする」
アキが住んでる家?と聞くと、大きく頷く。
安心するよね、こういうの。と僕がつぶやくと、今度は2回大きく頷く。
そうして小学校を後にし、夜ご飯の材料をスーパーマーケットで買って帰った。
海水でべとべとになった体を先に洗い流し、キッチンに立つ。交代でアキが風呂に入り、丁度上がった頃にゆきも帰ってきた。
僕は張り切って、味噌汁、酢の物、きんぴらごぼう、そして豚カツを作った。申し訳なかったけど、アキにも少し料理を手伝ってもらい、1時間程で全て完成させることが出来た。
豚カツをひと口食べたアキの顔には、僕も満足だ。してやったりって感じ。
流石に2日連続で夜更かしするわけにもいかないので、大人しく早めに寝た。
明日は、アキが帰る日。
ほんの少しの焦りをひしひしと感じながら眠りについた。
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