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 運賃箱に乗車券を放り込む。海沿いの終点は潮風と揺れる木々が治める無人の国だった。どこへ行くでもなくぷらぷらと歩いていると、少し離れたところに黄金色に包まれた丘が見えた。木陰に紛れながら、歩く。

 灼熱のアスファルト。止まぬ緑の喧噪。ぱらぱらと転がるおしろいの粒。高温多湿は文字通り肌に張り付いて、滴り落ちていく。項に張り付いた髪を掃うも、皮膚はほんのり赤みを帯びている。

 変わり映えのしない鼠色に、ふと若草色が混じりだす。顔を上げると、そこには青いペンキを塗りたくったような空と綿あめじみた入道雲、そして眩い向日葵が咲き誇っていた。これだけならまあ綺麗な景色だ。この場に不釣り合いな黒いスーツを除けば。

 敢えて足元を踏みしめながら向日葵の大群を突き進み、スーツの真横まで近づいてみる。黄金の丘の端には細いロープが一本渡してあって、その先は荒々しい岩肌の崖。なるほど。青ヶ岬とはこのことか。

 果てしなく広がる藍を眺めるふりをしながら、そっと横目で様子を伺う。くたびれたスーツ。使い古された鞄をごつごつとした手が力なく握り、これだけの猛暑だというのに男は汗一つかいていない。死人と紛うほど血色のない肌と何重にも落ち窪んだ瞳。虹彩には光が無く、伸びきった前髪だけがまるで模造品のように揺れている。

「オジサン、こんなところで何やってるの? 仕事休み? 」

 ほつれかけたロープの視線を落としながら問う。

「……なんでもいいじゃないか。君こそ、ここに何の用があるんだ」

 一瞬の間を置いて返ってきた声は風貌に似合わず随分と若々しい。まだ二十代くらいだろうか。

「別にいいでしょ。質問に答えてよ」

「その制服、名門校のだろ? 祖母が着ていた写真を見たことがある。昔ながらのセーラー服って今時珍しいな」

「気持ち悪い。こっちの質問にも答えずに、失礼な人」

 不用意に話しかけるんじゃなかったと心底後悔しながら額に浮かぶ汗を拭う。足元の断崖絶壁に打ち付ける波は白く泡立ち、また打ち付け泡立ちを繰り返していた。男はぽつりぽつりと、静かに話し出す。

「……中学の時のことだ。俺の地元は山に囲まれた工場ばかりの土地で、空気は淀み、治安も悪かった。クラスにも上手く馴染めなくて孤立した。だから、高校は絶対に地元から離れた、海の見える穏やかな所に通いたくて必死に勉強したよ。結局叶わなかったけど」

「どうして? 」

 ちらりとこちらを見やり、男は自嘲気味に小さく微笑む。

「親に反対されてね。よくある話さ。両親共に名のある良家の出だから、無名の公立高校には行かせたくなかったんだろう。一人息子だったから」

 鴎の鳴き声が高らかに響く。煌めく水面が眩しくて、目を伏せた。

「それと今ここに居ることに、何の関係があるわけ? 」

「君はなんでそう人のことを聞きたがるのかな」

「いいから答えて」

 大きく息を吸い、肺に充満した潮風を吐ききって、男は続ける。

「清算だよ」

「清算? 」

「そう、清算。俺は人生の選択を他人に委ねてしまった時から、何一つ楽しめなくなった。未来に希望が見い出せなくなったんだ。だから、やり直す。間違えた場所から、全部」

 縫い目の緩んだ鞄が草の上に置かれる。潮風が強く吹きつけ、伸びた前髪が額に張り付く。

「ねぇオジサン。あなたもしかして……」


 見間違いかと思った。向日葵が太陽を仰ぎ揺れる中、黒いスーツが空へ飛び出した。

 飛んだ。

 否、落ちた。


 あ、という前に波が岩肌を打ちつけ、高く跳ね上がる。投げ出された黒は、重力のままに波に飲み込まれ、瞬く間に消えた。

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