第12話 彼シャツ
私は、とても微妙な顔をしていた。右眉を下げて、左眉を上げて、眉間に皺を寄せる。その上で両目尻を下げて、口をへの字にする。そんな顔。そんな私の目の前には婚約者のユカがいる。
「ほんとにごめんなさい……」
これでもかというくらい肩を落として、うなだれて。寝室のベッド前の床に正座している。私は風呂上がりで、パジャマを着ている。さっきまでは少し湯気も出ていた。対してユカは、ワイシャツを着ていた。ワイシャツだけを着ていた。厳密に言えばその下にブラとショーツを身につけている。なぜわかるかって?チラチラと見えているからだ。清潔感のある水色のブラとショーツが。そしてそのワイシャツは、私のものだった。しかも、私が風呂に入るためにさっき脱いだものだった。脱いだものを脱ぎっぱなしにするようなことを私はしない。きちんと洗濯カゴに入れておいたものなのだが、引っ張りだしてきたらしい。確かに私が風呂に入っている間脱衣所で何やらごそごそしているなとは思っていたのだが。乱入してこなかったので安心していた。
さかのぼること数分。風呂から上がった私は寝室のドアを開けた。その目に飛び込んだのは
「はぁああぁあ〜〜〜〜〜〜」
と叫びながらベッドの上を転がるユカの姿だった。自分の体を抱きながら、足をバタバタさせて。それから体を起こし、私のワイシャツの胸の辺りを口元に当てて思い切り息を吸い込む。そのタイミングでユカは、何気なくという様子でこちらを向いて私と目が合った。
固まるユカ。
「え、えっと」
適切な言葉を探す私を前に、ユカはスライムのような動きでベッドから滑り落ち、床に体を丸めた。いわゆるジャパニーズ土下座スタイルである。
「ごめんなさい!!」
「ちょっ!頭を上げて!?」
至る現在。
「それでだね——」
「ホントに出来心なの」
私の言葉を遮ってユカが弁明する。
「君の匂いが染み込んだ服を着たら、君に包まれてるような気持ちになれるかなって思っちゃって。……実際着てみたらすごく良くて、はしゃいじゃってたの……。で、でも!まだ使ってないよ!」
「いや使ってないって何によ」
反射でつっこむ。ワイシャツに着る以外の使い方があるのか。だが、それは失敗だったらしい。ユカはさらに縮こまって、顔を真っ赤にして、消え入りそうな声で言った。
「…………オナニー」
はあ、なるほど。使ってないっていうのは、オカズに使ってないって意味か。
「はあぁぁあぁあぁ!!??」
私はユカに負けないくらい赤面しながら絶叫した。
「ちゃんと!ちゃんと我慢したから!」
「いや君がソレを我慢してること自体初耳なんだが!!?」
なんなら女性がオナニーするのはAVの中だけかと思っていた。
「だって、君が我慢してるのに私だけするわけにはいかないし」
言われてハッとする。確かに私は初日の約束通りに自分でしていない(暫定十戒その4)。正直に言えばとても辛いと思うことも多いのだけれど、まさかユカも同じように我慢してたなんて。
「……ってことは今月に入ってからずっと?」
「……今日は、ちょっとだけ。おっぱいとか、乳首とか……」
なんだこれは情報の洪水か?
「でもまだク——」
「それ以上言うとレーティングが上がりそうだから止めようね!!」
追い詰められて、セキュリティ意識がガバガバになったユカが大変なことを言いかけるのを制止する。いくら性描写ありにチェックを入れているとはいえ、カクヨムで言っていいことと悪いことがある。
「ごめんなさい……嫌いにならないで……」
鋭い私の声にびくっと身を竦ませ、ユカは消え入るような声で言った。私は、一度深いため息を吐く。
「ユカ、あのね」
「だって、君のことが好きなんだもん……もっと君を感じたい、もっと君と触れ合いたいって思っちゃうよ」
「ユカ」
両肩に手をかけて軽くゆすり、ユカの意識をこちらに向ける。
「嫌いになんかなるはずないでしょ?嫌いになる理由がないじゃないか」
言い聞かせるように、ゆっくりと言う。だって、そうだろう?私だって、ユカと触れ合いたいのは同じなのだから。
「だって、あんなところ見て引いてるでしょ」
「引いてない。びっくりはしたけどね」
「勝手に君の服着て、怒ってない?」
「怒ってない」
「そう、なんだ……」
ゆっくりと噛んで飲み込むようにユカが言う。よかった、ようやく落ち着いたみたいだ。
「わかってくれた?」
「うん、ありがとう」
私はもう一度ため息を吐く。さてと
「じゃあ、それは脱いでくれるかな?」
それを聞いたユカは一気に涙目に戻って私を見つめてきた。目で「やっぱり怒ってるんじゃん」と訴えている。
「いや、その、そうじゃなくてね?なんというか……その格好は扇情的すぎる」
ユカは小柄だから袖は手まで隠れる萌え袖になっているし、第二ボタンまで開いているから胸の谷間の深いところまで見えている。それでいて裾の丈は足りていないので、上も下もチラリズム極まりない。そんな姿でへたり込んで涙目で見上げられて、まだ押し倒していないことを、私は自分で褒めてあげたい。私の言葉を聞いて、ユカはキョトンとした顔になった。
プチッ。
私の理性が切れた音?違います。ユカが第三ボタンを外した音です。
「だから君はなんでそんなことするかなーーー!!」
さらに露出が増えた姿で、ユカは私に襲いかかる。私は跳びのいて寝室から出て、ドアを押さえつけた。
「開けて〜開けて〜」
ドアを叩きながらユカが言う。ホラー映画のワンシーンか何かか。
「君が着替えるまで開けないぞ僕は!!」
ドアを叩く音が止まる。数十秒後、今度はドアノブがガチャガチャ騒ぎ始めた。
「着替えたから開けて?ね?」
「……暫定十戒その6」
『互いに嘘をついてはならない』という項目だ。
「…………」
沈黙。ごそごそと、ドアの向こうで動く気配がする。
「今度はちゃんと脱いだから開けてー」
やれやれ、やっぱりさっきは嘘をついていたのか。
「まったく……」
ドアを開けた先のユカは、たしかにワイシャツを着ていなかった。
下着しか着ていなかった。
「えいっ」
小さく掛け声をかけて、ユカが私に抱きつく。
「はあぁぁあぁあぁ!?!?」
私は絶叫した。振り払う?いや、できない。暫定十戒その3から、ハグを拒むことはできないからだ。
「えへへ、やっぱりこっちの方がいいね」
そう言ってユカは、幸せそうに私の胸に頬ずりした。
嗚呼、理性が灼ける音がする。
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