第8話 初日
「この辺で一区切りかな」
段ボール箱を8割がた片付けて、私は言った。婚約者のユカが、頷きながら額の汗を拭う。
ここが、私たちの新しい暮らしが始まる部屋。古臭い言い方をすれば、私たちの愛の巣。来月の結婚を控えて、私が提案したのだ。「結婚してから『こんな人だとは思わなかった、やーめた』ではあまりに無残。せめてひと月、互いの価値観を擦り合わせるための時間を作ろう。一緒に住もう」と。ユカは「私が君と結婚してそんな後悔するはずない」とすこし眉をしかめたものの同意してくれた。そんなわけで、今日から私たちのふたり暮らしが始まるのである。
「ふたりでやれば、荷ほどきも意外とすぐに終わるね」
「でも、けっこういい時間になっちゃってる。そろそろ夕飯のことを考えないと」
窓の外を眺めながらユカが言った。まだ日が沈むには早いけれど、たしかにもう夕方だ。空っぽの冷蔵庫のことを考えると、買い物に行かなければいけない時間だろう。
「そうだね、じゃあ行こうか」
そう言って私が手を差し出すと、ユカは驚いたように目を丸くした。
「そっか。これからは一緒にご飯の買い物ができるんだ」
「毎日ではないだろうけどね。君も私も仕事があるし」
幸いにして、コンビニもスーパーも徒歩圏内にある。私とユカは、手を繋いで玄関をでた。
どこにでもあるスーパーでも、新しい街に来た今日は新鮮に感じる。私とユカはああでもないこうでもないと議論しながら、この先3日分弱の、空の冷蔵庫を満たす食材を買った。
夕食はカレーになった。気負わずに作れて味も保証されている。誰だって好きな料理だ。一人暮らしが長いから、私が作っても良かったのだけれど、今夜はユカが一人で作った。
「いただきます」
対面に座ってカレーを口に運ぶ。ごくごく普通の、ありふれた光景。けれど、この普通を共有できるのが嬉しい。これから家族になるんだ、そう思えるから。
ご飯を食べて、お風呂に入って、一足はやくベッドに入る。このベッドは、引っ越しにあたって新調したもののひとつだった。二人で寝られる大きなベッド。いま、ちょうどユカがお風呂から上がったようだ。ドライヤーの音が聞こえる。髪が短いためか、乾かすのにそれほどの時間はかからなかったようだ。数分すると、寝室のドアが開きユカが入ってきた。パジャマ、いやルームウェアというのが正確だろうか。暖色系のフードパーカーとショートパンツ、ラフで楽な格好だと思うけれど、それと同時に見ているだけで嬉しくなるくらい可愛い。ショートパンツから伸びるスラリとした脚にどきりとする。
「おじゃまします」
ユカはそう言って毛布をかぶり、私の隣に横になった。
「……」
しばらく黙って横になった後、もぞり、もぞりと動いて私の布団に潜り込んできた。
「どした?」
「んん」
ユカは曖昧な返事をして私の胸にひたいをこすりつけた。それから、腕を私の背中に回す。
「ね、キスしよう?」
「うん」
最愛の恋人に上目遣いでこうねだられて、断る理由があるはずがない。私もユカに応えるように腕を背中に回し、抱き寄せた。さっきまでお風呂に入っていたせいか、ポカポカと温かい。髪からシャンプーのいい匂いがする。唇が触れ合う。柔らかい。ユカは幸せに似ていると思った。ユカの手が僕の頭を撫でる。僕は撫でられるの、好きみたいだ。ユカの手が降りてくる。首筋、背中。腰、骨盤。前に回ってきて、下腹部、鼠蹊部。鼠蹊部をなぞるように下着の中に入ってきて、細い指先が——
「うひゃおうっ!?ガッ?!」
私は驚いて、奇声をあげながら飛び退いた。勢いあまって、頭を壁に思い切りぶつけてしまった。そんな私を見て、ユカはきょとんとして首を傾げている。
「どうしたの?」
それはこっちのセリフである。
「い、今なにを……」
私は涙目で頭をさすりながら言った。ユカの首の傾きがさらに大きくなる。
「何って……しないの?」
「何を?」
私の質問を聞くとユカは目を丸くして、口をパクパクさせた。それから頬を紅潮させて、うつむきながら言った。
「…………エッチ」
「…………」
言葉を処理するために数秒のフリーズ。直後、私はユカの3倍の速度で顔を赤くして言った。
「いや、しないから!!」
「なんで!?」
ユカが詰め寄る。なんでではないだろう。
「まだ結婚してないだろう!嫁入り前の娘さんを傷物にはできないよ」
「私たち婚約者でしょ!あとひと月で結婚するんだよ」
「それでもまだ結婚はしてない!」
「結婚してなきゃエッチしちゃいけないの!?」
「そうだ!婚前交渉なんてふしだらな行為はしないしさせない!」
「あ、UFO」
「なんで?」
あまりに唐突な言葉に、思わずユカが指差す方向を向いてしまう。その隙をついてユカが私にタックルし、馬乗りになった。
「君が悪いんだよ?君がこんなに固く、おっきくするから……」
そう言いながらユカは腰を前後に動かす。ユカの体重は、私の一番クリティカルな箇所にかかっていた。ぞくぞくするような快感が背骨を走る。
「やめろ止まれやめてくれ!!」
私が声を上げると、ユカは力なくうなだれて止まった。私はユカの下から這い出して体育座りになる。
「婚約者でも、たとえ夫婦でも合意のないセックスはレイプだからな?」
「……そんなに、私としたくないの?」
ユカが、肩を震わせながら言う。
「……したいよ。そりゃ私だってしたいさ。でも、するべきじゃない」
「ずっと楽しみにしてたのに!やっとしてくれると思ったのに!今日だって、一生懸命メニューを考えてきたんだよ……?」
とうとう、ユカの目から涙が溢れた。いやメニューって何?
「……わかった。ルールを決めよう。」
私は、ユカの頭を撫でてなだめながら言った。
「ルール?」
「『エッチは互いの了承の上で行うこと』。結婚前でも、ふたりが了承したらエッチしてもいい。これでいいね?」
ユカは黙りこくる。
「あと、『相手の許可なく大事な場所に触れてはならない』。そこは、一番大事なプライバシーだからね」
ユカがうなずく。それから
「じゃあ、私からもルール」
といった。私は首を傾げてユカの言葉を待つ。
「『キスとハグは断っちゃだめ』。エッチはできないにしても、これは恋人として最低限のスキンシップだよ」
「ああ、わかった。いつでもウェルカムだ。」
「それと『エッチを拒否してるときはオナニー禁止』」
「え゛っ」
思わず声が漏れた私を、ユカがジト目で睨む。
「何?私とはエッチしてくれないのにひとりエッチはするつもりなの?」
「いや、それとこれとは話が別というか……」
「そっか〜、君は私よりも、おかずのエーヴイ女優の方が好きなのか〜」
「ああもう!わかったよ!エッチしない間はひとりエッチもしません!」
私は耐えきれずに折れた。そんな私の様子を見て、ユカはふふっと笑った。
「ありがとう。ちょっと勝機が見えてきた」
勝機って何?何をするつもりなの?
「他に、決めておいた方がいいルールって何かあるかなぁ」
ユカがそう言って、私も考え始める。最終的に、決まった10個のルールを旧約聖書になぞらえて『暫定十戒』と呼ぶことになった。
議論がまとまって、もう一度ベッドに戻る。
「ふふふ、これでハグし放題、され放題ということだね」
私の腕の中でユカはそういった。
「あの、ユカさん?いつまでハグしてればいいんですか?」
「スーー、スーー」
…………
「(寝てる!?)」
起こさないように、私は小声で叫んだ。まずいことになった。ユカの柔らかい胸が私の体に押し付けられて、押しつぶされている。こんな感触を感じていては、眠るどころの話ではない。
「ユカさん、ユカさん!?」
ユカは起きる気配もない。やがて、窓の外の東の空が白み始めた。
「……寝られなかった」
私たちの戦いは、こうして始まったのです。
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