第5話 風邪

「ごめんなさい。君まで会社を休むことなかったのに」

 布団で顔を半ば隠しながら、申し訳なさそうにユカが言う。顔は赤らんでいて、目は潤んでいる。それもそのはずだ。ユカから受け取った体温計は、37.9℃と表示していた。実のところ、風邪を引いた原因には心当たりがあるのだけれど(あんなに長時間薄着でいれば、夏でも風邪を引くのは不思議じゃない)一番辛いのは本人だ。小言を言っても仕方がない。

「謝ることじゃないよ。いったい、私が何のために有給休暇がいつでも取れる会社に就職したと思ってるの?」

「何のためにしても、私の看病をするためじゃないでしょ?」

「いいや、君が病気になったときに、一緒にいてあげるためだよ」

 膝立ちになってベッドの上のユカに目を合わせながら私は言った。

「……風邪のときに一人でいると、とっても心細く感じるよね。風邪を治してあげることは僕にはできない。風邪は、君が自分で治すしかない。でも、君が苦しんでいるときはそばにいてあげたいし、そばにいるよ」

 そう言って私はユカの髪に触れる。ユカは子供のように目を細めた。

「うん、ありがとう…」

「とはいえ、何か昼ごはんを買ってこないといけないね。なにか、食べられそうなものはある?」

「プリンと…りんごくらいなら食べられるかな」

 考えながらユカが言うと、私は大仰にうなずいた。

「素晴らしい、最高のチョイスだ」

「そう?プリン食べたいって言って褒められたの初めてだよ」

 私の反応を見たユカが訝しげに言う。

「脂質、糖質、タンパク質。ビタミンにエネルギーに吸収の良さ、どれをとってもこんなに正しいチョイスはない。教科書に載せてもいいくらいさ。……じゃあ、買ってくるから、待っててね」

 そう言って私は、後ろ髪を引かれながら寝室を後にした。車を走らせ、近所のコンビニに向かう。生鮮食品もコンビニで取り扱うようになったことは、こういうときに便利だ。

「ただいま。大丈夫?泣いてない?」

「ふふ、大袈裟だよ。お帰り」

 息を切らせて帰ってきた私を見て、ユカは呆れたように微笑む。私はベッド横に座って、息を整えながらりんごを取り出した。

「さて、りんごを買ってきたけど、どうする?すりおろした方がいい?ユカが好きなようにするけど」

「じゃ、じゃあ……」

 私の言葉を聞いたユカは少し恥ずかしげにリクエストをした。私は少し眉をひそめながら聞き返す。

「ホントに?それでいいの?じゃあ、ちょっと切ってくるね」

 ナイフを使うために台所へ向かう。りんごとナイフを手に持って、私は少し悩んだ。やり方は知っているけれど、経験はあっただろうか。

「……ごめん。なるべく食べやすいようにと思ったんだけど」

 うなだれながら寝室の扉を開ける。手に持った皿に乗っているのは、うさぎ型に切られたりんごだ。しかし、イメージのものよりだいぶ薄い。あまり大口を開けさせるのもよろしくないと、12等分にしたのが間違いだっただろうか。

「たしかにずいぶん痩せてるね。ふふ、大丈夫だよ。ありがとう」

 ユカの優しい言葉に私は少しホッとする。それから私はユカの横に座って、うさぎをつまんで頭から差し出す。

「はい、あーんして」

「自分で食べられるよ」

 ユカは困惑と照れが混ざり合った表情をした。私はなおも、うさぎを推す。

「あーん」

「……あーん」

 シャクッ。観念して口を開けたユカの歯がりんごに食い込み、みずみずしい音を立てた。この時期に美味しいりんごが食べられるとは、科学の進歩は偉大だ。

 ユカは、はじめは渋っていたものの、食べ始めるとゆっくりとしかし着実に食べ進め、とうとう最後の一匹を食べ終えた。えらい。私の妻は世界で一番えらい。ずっとりんごを口に運んでいたせいで、私の手は果汁でベタベタになっていた。それを見たユカが私の指をぱくりと口の奥まで咥え込んだ。

「!?!?」

 ユカの口の中、あったかい。いつもより高い体温が直接伝わってくる。ユカが私の指に舌を這わせる。ちゅぱ、ちゅぱと音を立てる。ぞくぞくする、気持ちいい。

「もったいない」

 ひとしきり舐め取ると、ユカは口を離してそういった。驚いている私に「手に垂れたりんごの汁がもったいないからなめたんだよ」と説明したのだと思う。あまりの快感にもっと気持ちのいいことを考えてしまっていた私は、動揺を押し殺しながら手を拭いて、プリンを取り出した。少しだけ小さい、固いプリンだ。

「まだプリンは食べられる?」

「うん」

 ユカがうなずく。

「じゃあ、はい、あーん」

「あーん。ちょっと照れちゃうね」

 そういいながら、ユカはプリンまで食べ終えた。

「昼ごはんも終わったことだし、少し寝た方がいいんじゃないかな」

「うん。そうする」

 ユカはそう言って目を閉じる。呼吸が寝息になったことを確認して、私は自分の昼食に取り掛かった。


「おはよう。少し楽になったように見えるよ」

「うん。そうだね」

 目を覚ましたユカは、私の言葉を肯定した。顔の赤みも息の仕方も、ずいぶん楽になったように見える。

「じゃあ、ちょっと体を起こして。汗を拭くから」

 そういった私は、40度のお湯とタオル、バスタオルを用意する。ユカは慌てて両手を胸の前で振った。

「え。いいよそんなの」

「だめ。汗かきっぱなしにしてたら体が冷えるし、あせもができちゃうかもしれないでしょ?」

 観念したユカは体を起こし、パジャマの上を脱いだ。前はバスタオルで隠している。私はベッドに座り、絞ったタオルを背中に当てた。

「んっ…!」

 くすぐったかったのかユカが艶めいた声を漏らした。私は一瞬体を固くし、気をとりなおしてユカの背中を拭き始めた。

「あっ…はぁん…んっ…こしょばい」

 ユカが、いちいちいやらしい声で喘ぐ。私は平静を装いながらタオルで拭き続けた。背筋に沿って撫でる、脇腹、わきの下。このまま抱きすくめてしまいたい。私の舌が無意識にユカの耳に引き寄せられ、触れる寸前で私は正気に戻った。

「はい。背中は終わったよ。新しい肌着持って来たから着替えてね」

 そう言って、私は寝室と下着姿のユカに背を向けて、ようやく息をついた。ユカはいつも私を誘惑してくるけれど、今日はそんな余裕はないはずだ。素でこんなに蠱惑的なのは、もはや悪魔的だとさえ思った。


「ねえ?」

「どうかした?ユカ」

 夜、パジャマに着替えてベッドに入った私に、ユカが疑問の声をかけた。

「今一緒に寝たら、風邪が感染っちゃうよ?」

 その言葉に、私は首を横に振る。

「暫定十戒その5 『特別な理由なく別のベッドで寝てはならない』だよ」

「病気は充分、特別な理由だと思うけど」

「これくらいどうってことないよ」

 私がそう答えると、ユカは呆れたようにため息をついた。

「……君って、結構過保護だね。強情だし」

「そうかな?……そうなのかもしれない」

「大切にしてくれるのは嬉しいけど、でも……」

「でも?」

「おやすみなさい」

 意味深に言葉を打ち切って、ユカは眠る体勢に入った。


 翌朝。

「おはよう。もうすっかり良くなったよ」

「それは、よかった」

 私は絞り出すように答えた。ユカが目を丸くする。

「あはは……今度は僕が風邪みたいだ」

 それを聞いたユカは黙って寝室をでた。

「……?ユカ?」

「おまたせ!」

 勢いよく扉が開く。現れたユカは、薄ピンクでボディラインにフィットしたショートのワンピースを着て、帽子をかぶっていた。つまりは、男が理想とするようなナース服だった。

「……遊びで風邪引いてるんじゃないんだけど」

「私だって遊びでナース服着てるわけじゃないよ。それに、今回はかなり自業自得でしょ?次からは、ちゃんと感染らないように注意して看病してよね?看病してくれるのは嬉しいけど、君が健康でいてくれる方がずっと嬉しいんだから」

 ユカはそう言って、腰に手を当てながら私を叱った。

「……返す言葉もございません」

 私は答える。考えてみると、ユカは私に看病を受けている間も私のことをずっと心配していたのだ。

「わかったら、大人しく看病御奉仕を受けなさい」

 そう言って、ユカが私にしなだれかかる。パジャマの中にユカの手が侵入してきて、相対的に冷たいユカの指が私の胸を撫でる。そして、体温計を私のわきにはさんだ。

「……私、大ピンチ」

 主に貞操の。

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