第2話 お風呂

 シャンプーをしている。

「Ave Maria, gratia plena,Dominus tecum,benedicta tu in mulieribus,……」

 お風呂というのは、心身ともに無防備になる空間だ。だから少しでも気を抜くと、先日のあの光景が脳裏に浮かんできて、暴発しそうになる。

(……おかわり、いかがですか?)

 甘い声、エプロンの隙間からのぞく深い谷間、くちびるに感じた柔らかな感触。

「……ora pro nobis peccatoribus,nunc, et in hora mortis nostrae.Amen!」

 そんなわけで私は、平静を保つためにアヴェ・マリアの祈祷を唱えながらシャンプーをしている。

「お風呂、40度なんだね」

 扉を隔てた向こう側、脱衣所から婚約者のユカが私に声をかけた。不意を突かれて、鼓動が速くなった。

「うん。もしかして、もう少しぬるい方が良かった?」

「ううん。私もいつも40度。ちょうど良かった」

 その返答に、急上昇した心拍数が少しだけ落ち着いた。お風呂の温度なんて些細な点でも、好きな人と好きなことが同じなのは、不思議と嬉しく頬が緩む。そう、この同居の目的は結婚前に価値観を擦り合わせることだ。決してユカが私を誘惑するために同居しているわけでは……

「ちょうどいいから私も入るね」

 扉が開いた。

「ドビュッシー!!!」

 作曲家の名前ではない、たんなる無意味な奇声だ。突然の事態に私は、ポリスマンに銃を突きつけられたアメリカの犯罪者のように鏡に背中を当てて手をついた。

「な、な、ななな」

 混乱のあまり語彙力を喪失する私をよそに、ユカは悠然と風呂場に入ってきて、後ろ手で戸をしめた。それから、少し目線を下げて

「……おっきいね」

 そういった。私の動揺と混乱をよそにそれは素早く反応して、最大になっていた。

「なんで入って来てんですか!!?」

 我に返った私はそう叫んだ。平静を保つための努力は消し飛んで、おっきいと言われたそれは両手で隠したものの、若干はみ出している。鏡を見なくても自分の顔が真っ赤なことは分かる。

「だって、一緒にお風呂に入りたかったんだもん」

 もん、じゃない。

「もん、じゃない」

「いいでしょ、もうすぐ夫婦になるんだし。それに、暫定十戒にも『同意なくお風呂に乱入してはならない』とは書いてないし」

 そう言われて思い返してみる

 1. エッチは互いの了承の上で行うこと

 2. 相手の許可なく大事な場所に触れてはならない

 3. キスとハグは拒んではならない

 4. エッチを拒否しているときに自慰をしてはならない

 5. 特別な理由なくベッドを分けてはならない

 6. 互いに偽ってはならない

 7. 互いに隠してはならない

 8. ……

「たしかにないけどさあ!」

 それは明文化しないといけないことだったのか。

「むしろソコを隠してるのは第7条に触れるかもしれないよ?」

「そんなこと言ったら、こっちは素っ裸なのにそっちは水着着てるのずるくないか!」

 そう、ユカは裸ではなかった。ビタミンカラーのビキニを着ている。でなければ、流石にここまでの余裕はないだろう。若干サイズが小さいのか、横からはみ出した胸に水着の紐が食い込んでいる。ユカは小さく首を傾げ

「見たいんなら、いいよ?」

 わずかに頬を赤くして言った。それから、くびれのあたりから手を這わせて水着の下に指を……

「脱がないでくださいお願いします!!!」

 絶対に耐えられない。間違いなく襲う。

「なんてね。エッチしてくれない人には、私の裸は見せられません」

 そう言うとユカはパッと水着から手を離した。それからもう一度視線を下げ

「でも、安心したよ。もしかしたらしてくれないんじゃなくて、できないのかもしれないって思ってたから」

 私が内股になりながら両手で隠してるそれを見つめながら言った。たしかに、夫となる人間が不能というのは問題だろう。とくにユカにとっては。

「それ確かめるのが目的だったらもういいよね。でていってくれない?立ちっぱなしっていうのもしんどいしさ」

「へ?べつに座ってもいいよ?それにまだシャワーも浴びてないんだけど……」

 不服そうにユカが言う。私は慎重に出方をうかがう。あまり強く出ることはできない。ユカはまだ気づいていないが、暫定十戒にのっとればユカはここからハグとキスを要求できるのだ。装備全解除防御力ゼロのこの状態でそんなことされたら、もうほんと自信がない。

「せっかくだから、背中ながして?そしたらでていってあげる」

 それがユカの要求だった。

 お風呂用の椅子に座るユカの後ろに立つ。右手にボディーソープのボトル。

「あ、タオルは使わないで手で洗って?肌を傷つけないようにいつもそうしてるの」

 ナイロンタオルに手を伸ばす私にユカが言った。

「……それは第6条に反してないか?」

 嘘だ。もしいつも手で洗っているなら、二本あるこのナイロンタオルは何なのか。

「あ〜…そうだね、嘘ついた。ごめんごめん。でも、手で洗って欲しいのは本当だよ」

 洗ってほしいな〜とユカが言う。私は10秒悩んだ。

「はぁ。わかった」

 観念して私は左手にボディーソープを出し、泡だてた。今はなるべくユカの要求を呑む方が賢明だと判断したのだ。決して下心ではない。

 改めてユカの背中と向き合う。白くて、滑らかだ。小さい。抱きしめればすっぽりと収まってしまうほど小さい。抱きしめたい。脱線しだした思考を振り払い、両手の泡を肩の後ろに乗せる。そこから円を描くように擦りながら肩甲骨の下に泡を伸ばしていく。水着を着ていても、後ろから見ると裸とほとんど変わらない。

「んっ」

 くすぐったいのか、ユカがかすかに喘ぎ声を漏らした。ピクンとあれが反応してしまった。指先が、ユカの肌の感触を伝える。すべすべとしていて、温かい。ところどころに肌の下の骨を感じる。滑らせる手が肋骨を通り過ぎ、ウエストにたどり着いた。

「背中洗い終わったよ」

「もう少し下まで」

「え、でも」

 その下はお尻。

「ギリギリまで攻めてみよう」

 笑いを含んだ声でユカがそう言った。今は要求に従わないと。慎重に手を下げていく。水着からわずかに見える割れ目に目が吸い込まれる。小指が、今までより柔らかな感触に触れた。

「はい!よく頑張りました!」

 突然ユカはそう言って立ち上がった。それからシャワーで泡を流して、飛び出すように浴室から出て行った。私と、大きくなった息子だけが浴室に残された。


 音を立てて浴室のドアを閉めた。足元に脱いだ水着が落ちる。水着を洗濯機に入れながら、お風呂から上がって服を脱ぐなんて、ちぐはぐだなと小さく笑った。それから、下着を着て、パジャマのボタンをとめて、脱衣所を出た。リビングを横切り、寝室の、ベッドに飛び込んだ。

(はぁああぁあ〜〜〜〜〜〜)

 勢いよくベッドの上をゴロゴロと転がる。

「気持ち良かった……」

 声が漏れた。自分の体を抱きながら、感触を反芻する。体がほてり、鼓動が速い。あのまま一緒にお風呂にいたら、絶対に耐えられなかった、襲っていた。理性が保てるギリギリだった。いっそのことアレをアレしてすっきりしてしまいたいけれど、彼は我慢しているはずなので、私だけするわけにいかない。変なところで律儀なあたり、実際似た者夫婦なのかもしれない。脱衣所のドアが開いた音がした。起き上がってベッドに座り、平静を装う。彼もベッドに向かってきた。

「上がったんだ。さっきの、すごく気持ちよかったよ。テクニシャンなんだね」

 冗談めかした言葉を投げかける。反応はない。そのまま彼が近づいてくる。近づく。そしてもたれかかるように私に抱きついてきた。

「結婚したら、今の何十倍も気持ちいいことしてあげるから、覚悟してね」

 体がびくりと反応したのは、耳に息がかかったからだけじゃない。言葉の底に込められた熱くてどろどろとした何かを感じたからだ。それだけで、よだれをたらしながら息も絶え絶えに許しを乞う自分の姿を幻視した。

(……お風呂に乱入するのはもうやめておいた方がいいかもしれないなぁ)

 頬を引きつらせながら私は思った。

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