万能薬の回帰1
囚われの鳥よ、彷徨える君よ。
鎖を引きちぎり飛び立つ時が来た。
一、
蹴り飛ばした使いかけのガムテープが、部屋の隅に転がっているのを見なかったことにする。
錬金術で手早く家具を作った。
気分は部屋の模様替えだ。視界の端で、ピンクのよくわからない布地がヒラヒラしているけれど気にしない。リボンがとってもかわいい。場違いだけれど、そんなことは気にしなければ問題はない。
不思議だった。普段は視界に入れることすら厭わしい両手が、何か美しいもののように見える。世界が輝いて見えるような気がした。
あれは、確か先週のことだった。狼にキスをされるという大事件があったシゲは、嬉しさのあまり感情を爆発させてしまったせいで、ついうっかりと近隣のビルにいくつか珍妙なる変化をもたらして、世間を騒がせたものだった。
あれからずっと、絶好調なシゲは、すでに五度の部屋の模様替えを敢行している次第だ。
北欧風になって、次が和モダンで、次が純和風、その次にカリフォルニアスタイル……どんなに錬金術を使ってもまだ足りない。身体の中を巡る心が、感情が、産声を上げて弾け飛びそうだった。
「私は……生まれ変わった……」
だって、あの狼がキスをしてくれたんだから。
きゃあ。
シゲは両手を頬に当てて奇声を上げ、一人床を転げ回ったものである。
二、
丸徳印のファミリーレストランのパンケーキが食べたくなったシゲは、物品を納品したその足で店に立ち寄ることにした。
ほどなくして、テーブルの上にはパンケーキとクリームソーダが並び、シゲは一人で歓喜の声を上げる。
満面の笑顔になって、ナイフでパンケーキを切り分けた。
外出は嫌いだ。手を使うのも嫌いだし、手を見るのも嫌だった。
だがしかし、丸徳印のファミリーレストランのパンケーキを食べるためには、店舗へ足を運ぶしかないのだから仕方ないのである。
店内は相変わらず騒がしく、ほぼ女子高生に占拠されている状態だった。若々しさが姦しく耳に付く……と、おっといけない、シゲもまた女子高生なのである。同類には優しくしなければならない。
「やばーい!」
ひときわ大きな声に気を惹かれて、顔を上げる。
もぐもぐ、とパンケーキを租借しながらシゲは女子高生たちの会話に耳を傾けた。
なんでも、巷の女子高生の間で痩せ薬なるものが流行しているということであるらしい。しかも、「錬金術師」が作っているのだというではないか。
目を剝いたシゲは、思わず自分の手を凝視する。
シゲが脳裏で過去の記憶を探っている間にも、女子高生たちの会話は続く。
「レンキンジュツシって何?」
「よくわかんないけど、ださーい!」
罪のない女子高生の一言が、計らずもシゲの心をえぐった。
傷心のシゲがどんよりとした空気を背負って歩いていると、どこからともなく言い争いをしている声が聞こえて来て、思わず立ち止まる。
声の方へと顔を向けて見てみれば、二人ともシゲと似たような年代であるようだ。
それぞれに違う学校の制服を着ていて、少年二人の見事なまでに対照的な着こなしがシゲの目を引いた。
一人は、見るからに優等生――というか、その制服はシゲにとってなじみ深い宗教家の狩り場……いや、箱庭……でもなくて、某学園高校で使われている制服であった。
偏差値が高く学費も高いとあって、制服は外国人有名デザイナーの作品であるのだと、宗教家は大層シゲに自慢していた。だがその外国人有名デザイナーが布屋の表向きの名前であることを知っているシゲとしては、世の中の狭さを思い知った気分になったものだ。
そんな不吉な制服を着た優等生(仮)くんに対し、先程からしきりに言いがかりをつけているらしいのが、ちりちり金髪頭な学ラン少年くんである。
金髪に学ラン……もはや絶滅危惧種……と、そこまで考えたシゲは、つい最近も別の絶滅危惧種に遭遇した覚えがあるような、はて? と首を傾げる。
シゲが遠ざかる記憶をどうにかして引き寄せようとしている間にも、少年二人の言い争いは続いていた。
「お前、何やってんだ。頭良いくせしてバカじゃねえの」
「マサオに言われるんじゃ、僕もおしまいだよね」
「ふざけている場合かよ。どうする気なんだよ。こうなったらもう、時間の問題だぞ」
「わかってるよ」
「わかってねえからこうなってんだろ。……しょうがねえな。オレがリクを助けてやるよ」
「どうやって」
「それは……お前が考えろ」
「何だよ、それ」
リクは笑う。
「うるせえ。オレは、頭が悪いんだよ」
と、ここまで男子高校生二人のやり取りを立ち聞きしたシゲは、うんざりした気分で顔を歪める。
よくわからない会話ではあったが、このまま立ち聞きしていても碌でもないのは確実だった。
まさかね、とシゲは独り言つ。
痩せ薬……時間の問題……言い争う二人の男子生徒……何やらキナ臭い気がするのは、気のせいだということにしておきたい。
最近やけに半グレやらヤクザなどといった輩に縁がある気がしてならないのは、きっと気のせいではないだろうだけに、余計にそう思う。これは、良くない傾向だった。
シゲはただ穏便に、平和に、無難に、暮らしたいだけなのだ。反社会勢力などというものは、お呼びではないのだ。
シゲは現場を離れることにした。
男子高校生二人のやり取りなど始めから聞いていなかった、ということにしておく。
どうせ縁も所縁もない、通りすがりに見た光景にすぎないのだ。シゲが忘れたとしても問題はないだろう。
三、
ところが、世の中はどういう仕組みになっているものか、それはいた。
「おうおうおう! おんどれ、誰の許可をとって商売しとるんじゃいっ」
片方は、半グレでもチンピラでもない。まがうことなき下っ端ヤクザだった。細身の着崩したスーツと剃り込みの入った髪型が、絶妙にヤクザであることを主張している。ちなみにシゲは、下っ端ヤクザの顔に見覚えはない。
結局はまたヤクザなのかと、シゲは半眼になった。
最近、妙にヤクザ付いていて嫌になるというものだ。
そして、そんな見覚えのない下っ端ヤクザが両手でシャツの襟を掴み上げて威嚇している相手はというと、なんとなんと先日目撃したばかりの男子生徒……不吉な制服を着た優等生(仮)くんである。
名前は、確か……リク、といっただろうか。
優等生(仮)くん改めリクの握りしめられた手から、ポロリと白い錠剤が零れ落ちたかと思えば、次の瞬間には大量の錠剤が地面に散らばった。
時刻は昼最中、黒いアスファルトの路上に散らばった白い錠剤は、たいそう目立っていた。
現場は、例によって人気の途絶えた裏路地だ。
ひと仕事を終えた天才錬金術師シゲ様がご帰宅あそばしていたまさにその最中に、事件は起こったのである。
「はっ、きょ……許可って……ぐっ、」
「おんどれ、誰がしゃべって良い言うたんじゃ。坊ちゃんのくせして、生意気じゃあのう!」
下っ端ヤクザ氏は、無駄に元気が有り余っているのか、額に青筋を立てて襟を掴み上げた両手に力を込める。
リクの顔色が色鮮やかに変化していき、目の焦点が合わなくなったあたりでふっとリクの目線がシゲの方を向いた。
あ、ちょっと待って、それはなしでっ!
――などと考えたシゲの希望もむなしく、下っ端ヤクザはシゲの存在に気が付いてしまった。
このように、世の中はわりと理不尽によって構成されているものなのである。
「おんどれは、誰じゃい? こっち見てんじゃねえぞっ」
歯を剥いて威嚇する下っ端ヤクザに、シゲはしぶしぶ名乗ったものである。
「えっと……天才美少女、ナナシノナナ子さんですよ?」
「でまかせを言ってんじゃねえっ」
「よくおわかりで。すごーい、てんさーい」
「ぶっ殺す!」
下っ端ヤクザはぐったりとしたリクの身体を放り出して、シゲの方を向いてファイティングポーズを取った。
ボクシングのプロくずれなのか、動きに無駄はなく、いかにも様になっている。少なくとも、素人ではないのだろう。
「ねえ、聞きたいんだけど」
「ああああぁんっ!?」
「……いや、その。凄まれても困るんだけど。えっと、ぐったりしてるそっちの彼は、何をしたのかなぁって?」
「おんどれもうちのシマを荒らしに来たんかいのう!」
「ああ、そういうやつね……」
ちらりと下を見ると、やはりそこには白い錠剤が散らばっている。
ヤクザものが関係する錠剤である以上は、当然のように違法薬物であるのだろう。
となれば、先日に立ち聞きした内容から考えて、リクが何らかの違法薬物を売買していたとみて間違いない。どれだけ荒稼ぎしたのかは知れないが、素人が手を出して良いようなものではない。何より、リクが着ている制服は某宗教家の箱庭で現役で使用されているものである。
シゲは、あの無茶苦茶な宗教家が殊の外自らの箱庭を大切にしていることを知っているのだ。万が一にでも己の箱庭を汚されたともなれば、リクの未来は風前の灯火がごときだ。
洗脳やマインドコントロールの専門家に喧嘩を売ったとなれば、おそらくは死ぬよりも恐ろし気な目に遭うに違いない。知らないとはいえ、無謀にもほどがあるというものだった。
「リク!!」
シゲがリクの常闇の未来に慄いていると、そこに新たな登場人物が加わった。リクのお友達のマサオである。
相変わらず着崩された学ランには、なぜか黒地にもそれと知れる血のような染みがあった。
「リク、無事か!」
「マ……サオ……」
「リクっ!! てめえこの、おっさんっ! リクに何しやがった!」
「何だこのガキは。がっ」
マサオが躊躇なく下っ端ヤクザを殴り倒した。
体重の乗った良いストレートパンチである。下っ端ヤクザは血反吐を吐いてよろけたものであるが、マサオはリクしか視界に入っていないようだ。その場に崩れ落ちたリクに駆け寄って上体を助け起こし、心配そうに揺さぶっている。
「リク! リク!! しっかりしろっ!!」
「…………っ、」
「リク!」
マサオはリクの身体を揺さぶり続けている。
その背後では立ち直ったヤクザものが幽鬼の形相でゆらりと両手を振りかぶって佇み、どこからか調達して来たらしい角材を振り下ろす。
ごっ。
嫌な音を立てて、マサオは前のめりにな――らずに、振り向きざま肘をヤクザの鳩尾に叩き込む。呆れた石頭ぶりであった。
そこからはもう、リクをそっちのけでのマサオ対下っ端ヤクザの血みどろの争いになった。どちらかが拳を繰り出すたびに血しぶきが宙を舞い、お互いの顔と握拳が腫れ上がる。
シゲの見立てでは、意外にも喧嘩は互角のようだった。だからどうということもないのだが、とりあえずこの場合は後々の報復を考えたならば、ヤクザものに喧嘩を売った時点でマサオの負けである。
宗教家に喧嘩を売ったリクと、下っ端ヤクザと殴り合いをするマサオ。
どちらがより不幸なのかと問われたならば、それはもちろんリクの方であり――。
「えっ、嘘でしょ!?」
この世の大部分の人間よりは不幸なはずのリクを見やったシゲは、驚愕のあまり言葉を発した。
なんとなんとリクは、マサオが下っ端ヤクザと争っている間によろよろと立ち上がり、自分のために傷付く人間を見捨てて一目散に逃げ出したではないか。
白い錠剤を踏みにじって、脱兎のごとく駆け出したものである。
「なっ、逃がすかっ!?」
驚愕したのは、シゲだけではない。
遅ればせながら 逃走を計るリクに気が付いたらしい下っ端ヤクザが、慌てた様子でリクの後を追う。
リクは、一度もマサオを振り返らなかった。
四、
シゲは、置き去りにされたマサオの背中を見詰める。
リクの姿が消えた方向へと顔を向けたまま、マサオは茫然と立ちすくんでいた。打ちひしがれているように見えた。
捨てられた子犬のような有様だった。無理もない。差し出した信頼を、無垢の感情を、蔑ろに扱われるのは誰だって辛い。平気だと嘯いてみても、心の中に在る何かは確実にすり減っていくのだから。
シゲは、マサオに手を伸ばして腕の中へと招き入れ、そのままめちゃくちゃに抱き潰してしまいたいような気分になった。
「マサオ」
シゲが声をかけると、マサオの肩が怯えたように揺れ動いた。そして、振り返った臆病な目がシゲを見る。
マサオは一瞬だけ泣きそうな顔をして、それから警戒する顔になった。
「……誰だ、お前。なんでオレの名前……」
「んん、リクがそう呼んでいたよね」
「ああ……リクの知り合いなのか……」
違うけど。
咽喉元まで出かかった言葉を寸前で噛み砕いて、シゲはあいまいに笑って誤魔化した。
「あ、うん。知り合い……そう。私は、知り合いだよ。そういうマサオは、リクのお友達だよね。追いかけなくてもよかったの? というか、本当に友達なの?」
「――どうせ、誰にも必要とされていない命なんだ。あいつのためになったなら、オレはそれでいいさ」
切れた口元を拭いながら、マサオは少し上ずった声で独り言つ。
その強がりながらも寂し気な風情に、シゲは思わず握りこぶしを作ってその場で地団駄を踏みたいような心地がした。
この時のシゲの内心を言葉にしたならば、こうだ。
もう、もう、この子ってば!
この子ってばっ!!
「……。マサオ」
あふれ出しそうな感情を抑え込んで、シゲは名前を呼んだ。
「なんだよ」
マサオが、応える。
「錬金術師って知ってる?」
「……何が言いたい」
顔を強張らせて動揺しているとあっては、知っていると言っているも同然だ。その素直な反応があまりにかわいらしく思えて、日常では外道ばかりと縁のあるシゲは感動すら覚えた。
ただし、この場合の「錬金術師」とは、おそらくシゲのことではない。シゲが錬金術師であることと、マサオが知るそれは違う。まったくの別物だ。
知っているからこそ、シゲはマサオに対して言いあぐねていた。
シゲは、言ってみればどこまでも部外者でしかない。たまたま目撃して、たまたま足を止めて路地裏の非日常を垣間見たのだ。
マサオとリクの事情に関わっても、関わらなくても、そこには責任も義理も発生しない立場だった。
シゲの中に在るのは、マサオに向けられた少しだけの同情と興味だけだ。
「んーとねぇ……」
さて、どうしようか。
シゲは首を傾げて、次に言うべき言葉を模索した。
だが、どうやらこの僅かばかりの時間がいけなかったらしい。
微妙な空気の最中、どういうわけだかそこに掃除屋の爺さんが居合わせた――否、やって来てしまったのである。
唐突にシゲの視界内に現れた掃除屋は、今日もまた野暮ったいサイズの合わないスーツを着ていて、いつものように吹けば飛びそうな影の薄い風情で佇んでいた。
掃除屋。
シゲが通り名を把握しているということは、そういうことである。
掃除屋はいつも茶虎の不細工な猫を抱いている枯れ枝のような体格の爺さんで、記憶操作のスペシャリストである。何度も捕まり、何度も逃げ果せた逃亡の達人でもある。
無害そうなのは見掛けだけで、その実態は有害を通り越して生きる災厄とも云うべきシゲの同類だ。
ちなみに掃除屋の得意先の一つは、どこぞの宗教家である。
となれば、宗教家はすでにリクを補足しているのだろう。
錠剤に、ヤクザに、掃除屋に、宗教家。
実に嫌な負の連鎖だった。
「飴、を……」などと言われて、よくわからないままに掃除屋の爺さんの震える手から飴を受け取る。
封を切って食べてみると、普通にミカン味だった。
シゲは、ミカン味が好きでも嫌いでもない。なぜミカン味の飴だったのかが謎だったので、念のために舌先で転がしてイチゴミルク味に変換しておく。
用心に越したことはない。
「もごっ……お爺ちゃん、誰の依頼で来たの?」
「んん……知ら……ん……」
掃除屋は、わざとらしく自慢の入れ歯をもごもごと動かして、白々しくも大嘘を吐いた。
この見た目だけは人畜無害に見える小柄な爺さんが、恐ろしい異能で都会の裏側を渡り歩く妖怪爺が、知らないなどということはあり得ない。
ならば考えられることは、ただ一つだ。この妖怪爺は、シゲの問いに答える気がないということなのだろう。
「この、くそじじい……!」
シゲが吐き捨てるように言うと、似ても焼いても灰色の濁っただし汁が滲み出しそうな掃除屋を自称する妖怪爺は、にやあと満面の笑みを返してきたのだから、腹立たしいではないか。
シゲがなおも言い募ろうとしたその時、ぶさいくな愛猫様がぶにゃあと掃除屋の爺さんに愛想をふりまく。
シゲが撫でてやろうと手を持って行くと、途端にふしゅー、しー、ぎゃーすと賑やかに自己主張する掃除屋の愛猫様は、相変わらずご機嫌な様子だった。
シゲがしかめっ面になっていると、マサオが嬉しげに手を伸ばして、驚いたことに掃除屋の手から茶虎を取り上げることに成功する。
「えー」
「なんだよ、こいつ可愛いじゃん。お前、猫相手に何をしてあんな威嚇されるほど嫌われたんだよ」
「何も、してないし……」
マサオは、掃除屋の愛猫に鼻先を舐められて嬉しそうだ。
猫と不良の組み合わせだなんて、反則だとシゲは思った。碌でもないことに加担しているマサオが良い人のように見えてしまうし、もっと碌でもないはずの掃除屋の忌々しい愛猫様がうっかりとかわいらしく見えそうになるではないか。
現金な猫に苛つくあまりに熱烈な犬派であることを自己主張したい気分になったシゲは、剣呑な口調で掃除屋に問いかける。
「それで、掃除屋は彼に何か用事があったりするの?」
通りすがりの掃除屋、などという偶然があるわけかないのだ。
となれば、掃除屋は何らかの依頼を受けてこの現場に居合わせたことになる。
そして、わかってはいたが掃除屋は何も語らない。
掃除屋は、問いかけたシゲに向かって歯を剥き出して笑顔のようなものを見せて、もごもごと口を動かす。
どうやら、掃除屋なりにはしゃいだせいで愛用の入れ歯が外れたようだ。
「良か……良か……喜……」
「掃除屋? 相変わらずだよね」
都合が悪くなると途端に言葉が通じないふりをするのが、掃除屋のいつもの手口だ。
掃除屋のぶさいくな愛猫様が、シゲを馬鹿にするようにぶにゃあと鳴いた。
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