ランナーズハイ




 走れ。

 走れ走れ疾く駆けよ、足よ動け。

 力の限り走り続けて、そうして追っ手を引き離せ。




一、


 建物の角を曲がって、スライディングをするようにして路上を滑る。

 天才錬金術師シゲ様の御御足が派手に傷ついた気がしたが、天才ゆえに問題はない。

 患部を素手でひとなでしただけですっくと立ち上がり、再び走り出す。

 錬金術師であるシゲは、怪我や病気には滅法強い。

 だが、不死身というわけではない。

 だから交通事故に遭えばきっと死ぬだろうし、銃で撃たれてもきっと死ぬ。

 やっかいなことになった。

 始まりは宗教家であるらしい。

 宗教家は表の顔である学園理事長としても裏家業の本業としてもそれなりに人脈を持っているため、権力者というものに縁が深い。

 そんな宗教家は酒池肉林の席を設けられて良い気分になり、好みの美男美女に接待される内についうっかり万能の手を持つ美少女の話とやらをしやがったらしいのだ。

 本当に、碌なことをしない男である。

 だが起こってしまったことは仕方がない。諸悪の根源である宗教家への報復はこの場を無事に切り抜けて、逃げ切ってからの話だ。

 シゲのスマートフォンに『ごめーんね☆』などと巫山戯た文章が匿名で送りつけられていた気がするが、もちろんそんなことでは赦さない。

 札束往復ビンタなどでは生ぬるい。

 一歩進んで頭髪ナイナイの刑か、それとも強制性転換の刑か。はたまた子供のように小さく加工するのも捨てがたい。

 天才錬金術師シゲ様を怒らせたならばどうなるのか、この機会に是非ともじっくりと知っていただこうではないか。

 背後から銃声がして、シゲは追っ手がまだ諦めていないことを知る。

 半グレ、と云うらしい。

 ヤクザ者ではなく、かといって善良な一般市民とも言い難い。そういった半端者のことをそんなふうに呼び表すのだと云う。

 暴力団対策法とやらの厳しい締め付けの影響か、昨今では裏社会の勢力図もそれなりに塗り替わり、ヤクザ者と言えども食いあぐねたあげくにつまらぬ窃盗に手を染める時代が来ていると聞いた。

 義理人情や任侠の考えはもはや忘れ去られて久しく、ヤクザと云えば今や絶滅危惧種扱い。空恐ろしいことに、ヤクザ者らの間でも高齢化が嘆かれているものであるらしい。

 そんなヤクザ者らに取って代わり裏社会でせっせと犯罪行為に精を出しているのが、半グレと呼ばれる者たちだ。

 暴力による金儲けを目的としている半グレに秩序らしきものはなく、ただ他者を蝕み租借しては金を集めていると聞く。

 ヤクザと半グレの大きな違いは、法の首輪が嵌められているか否かの違いでしかない。ヤクザ者は法により生きるために必要なあらゆることに制限がかけられているのに対して、半グレは名目上は一般市民でしかないだけにそれがない。犯罪が発覚するまでは正真正銘の一般市民だというのだから呆れた話だった。

 世の中とは勧善懲悪であるには難しく、ままならないものであるらしい。法という名の剣を振りかざしたことで一つの悪が滅びつつあり、そして別の悪がはびこり始める。

 その結果、シゲは宗教家に身元を売られたあげくに金儲けのために半グレに目を付けられたのである。

 まったくもって、忌々しい話だった。




二、


「オレらに必要なのは、お嬢ちゃんの手だけよ。オレらに大人しく両腕を切り落とされな」

 シゲを路地裏の袋小路に追い詰めた半グレ――もとい、スキンヘッドのチンピラは、歌うようにそんなことを言った。

 逃げ道をふさがれたシゲは、内心で悪態を吐く。

 たまには良いだろうと見知らぬ土地を出歩いたのが災いした。

 これはきっと、シゲという人間がニート道を極めるべきだという神のお告げであるに違いないのだ。

「あのさ。両腕を切り落とされたら私は死ぬよね。絶対にそうなるよね。同意するわけないでしょ。馬鹿なんじゃないの」

 実際の話、シゲのものではなくなった両手が錬金術を扱えるかどうかは怪しいところだった。

 それでも、何も知らない強欲者たちは切り取られたシゲの両手を巡って修羅の道を行き、奪い合うのだろう。

「馬鹿とは言ってくれるじゃねえか。余裕だな、おい」

「私は天才だもの。だから私の前にひれ伏せ、凡人ども」

「はっはー、言うねえ」

「あっはー、馬鹿って言葉通じないのよね」

「普通に通じてんじゃねえか」

 意外にも鋭い突っ込みを入れてきたスキンヘッドのチンピラは、ちょうどそのタイミングで駆けつけてきた他四名を相手にアイコンタクトやらアゴ使いやらで指示を出す。

 現在シゲは、五丁もの銃を突きつけられている状態だ。

 銃口はぴたりとシゲの方を向いており、逃げ出す隙は今のところ見当たらない。

 ピンチだ。

 ――と、思ったのはシゲのことではない。

 シゲとて裏の世界を闊歩する美少女の嗜みとして、奥の手の一つや二つは持っているのだ。

 じりじりとシゲが意味もなく後退りして……と、追っ手たちは思ったことだろう。

 だが意味がないだなどと、そんなことはありえない。

 シゲは奥の手をいつ使う?

 今でしょ!

 決断したシゲは、足の裏を意識する。

 だが、シゲが覚悟を決めたその時だった。

 にわかにスキンヘッドの背後がウォン! バウバウ! だなどとざわついたかと思えば、どこからともなく現れた人物が大柄な体格に見合わぬ身のこなしで跳躍し、現場に躍り出た。

 予想外すぎる成り行きに、シゲはらしくもなく言葉を失って呆然と立ち尽くす。

 人間とは、度を超えた予想外に遭遇すると言葉を失うものであるらしい。

 あまりのことに大きな目を限界まで見開いて凝視することしか出来ず、シゲは一瞬とはいえ天国を垣間見た気分がしたほどだ。

 よりによって、狼だった。

 たぶんきっと、シゲを助けに来てくれたのだろうことは間違いない。

 けれども、なぜこの時であるのか。

 嬉しいのだけれども、どうしてあと数分を待ってくれなかったのか。そうすればシゲは、自力で対処すことも出来ただろうに。

 切り札は、誰にも秘密のジョーカーであるからこそ意味を持つ。よってジョーカーのカードを切るならば、シゲとしては目撃者を黙らせなければいけないのだ。

 シゲに狼は殺せない。

 混乱したシゲは、うっかりと泣きそうになった。

「泣くな。守ってやる」

「あっ、と。う、ん………………ありがと…………?」

 言いたいことならいっぱいあった。

 でも、シゲは言えなかった。言えなかった時点で、シゲのジョーカーはカードを切ることもなく終了だ。

 そんなわけでほの暗い顔で何もかもを諦めたシゲだったが、予想外とは予想外を呼び込むものであるらしい。

 シゲにとってそれは受難に等しく、さらには幸運でもあった。

「全員動くな!」

 そう言って現場に押し寄せたのは、見覚えのある揃いの制服を着た武装集団だった。

 人は彼らをしてポリスマンと呼ぶ。

 つまりは、なぜだが現場に警察がなだれ込んで来たわけである。

 警察官たちはシゲと狼の様子に構うことなく任務をまっとうし、よくわからないうちに現場は制圧されてしまった。

 解せない上に迷惑極まりない。

 狼だけでも躊躇するというのに、大勢の警察官が居合わせては今後に差し障る。

 これで、もはやジョーカーは完全なるお蔵入りが決定したのである。強引に使用できないでもないが、それは悪手にすぎるというものだった。

 何だか見覚えがあるようなないような長くて細長い武器を構えた警察の人垣が割れて、見覚えのある小柄な老人が顔を出した。

 いつぞやの魔女の「会長さん」だった。

「久しぶりじゃのう、嬢ちゃん」

「あ、はい」

 何で警察の合間から登場するのだ。

 何でそれがよりによって魔女の「会長さん」なのだ。

 「会長さん」は、おそらくはヤクザ者と見て間違いない。それが、警察に見守られながら堂々と登場するとか笑えない。

 しかも、半グレの銃をほくほく顔で回収するとか、どんだけだ。




三、


 会長さんの登場でシゲはとても助かったのだが、代わりに視界がどんよりとしたドドメ色に染まったような気がした。

 そんなシゲの様子には鈍感な会長さんは、興に乗った様子で語り始めた。

「わしが若い頃は、ヤクザ者になるか警察になるか職を迷ったものよ。どちらにせよ暴力であることには変わりないからの。それをまあ、堅気の若いもんはわかっとらんわい。法律なんぞで極道を雁字搦めにした結果がこれよ。わしらヤクザは社会にそぐわない半端者の受け皿として機能しておったものを、それを無くせば淘汰される悪は嫌がってより濃縮されて奥へと潜るだけよ。なあ、嬢ちゃんや。法に縛られることを厭うなら、法の側に立てば良いだけのことだとは思わんか?」

「ど……う、かな?」

 頷くことはしたくない。でも、かといって否定できるような雰囲気でもない。

 なんともやりにくい相手であった。

「あと数年もすればおのずと答は出ようよな。おそらく、その頃にはヤクザと呼ばれるのはどいつもこいつも小さな悪事をしでかす小悪党しかおらんようになるだろうの。賢しいつもりでおるのだろうが、生憎と本当に賢い奴ってのは表に他人を立たせてのうのうと悪事に手を染めやがるものよ」

 ――この、わしのようにな。

 シゲの手にねっとりとした熱い視線を向けながら不敵に笑う会長さんの心の声が聞こえるかのようであった。

「たまには老体に鞭打って下のもんの手伝いもええものよな。まさか、あの嬢ちゃんが半端者どもに追われとるとはのう。奇妙な縁がもあるものだ。おうおう、嬢ちゃんの大事なお手々が無事でよかったわい」

 舌なめずりしそうな顔と猫なで声でもって呟いた会長さんは、シゲの手を取って頬擦りをする。

 とたんにシゲの背筋をうぞぞぞぞ、と何かが走り抜けたのはいうまでもないことだろう。

 シゲを餌にすることで雑魚を釣り上げて、骨の髄までしゃぶり尽くしては租借する。一つの悪が、別のもっと大きな悪に食い殺された形になった。これだから代紋を背負ったヤクザというやつは厄介なのだ。

 会長さんの頬擦りの感触に危うく魂を飛ばしかけ、心胆凍える心地になったシゲは、狡猾にタイミングを見計らって手を引き抜くことに成功する。手を背中側に回して、こっそり服で手を拭った。

 シゲのすぐ側をどう見ても真面目な刑事さんにしか見えない好青年が横切って、会長さんに走り寄るなり声を発する。

「おやっさん、片付きやしたぜ」

「そうかい。ではわしらは引き上げるとするかの」

 世の中、見た目だけではそうとわからないものだ。残念ながら、真面目な刑事さんは存在しなかったということなのだろう。




四、


 ヤクザと警察が手に手を取って和やかに現場から引き上げて行ったがために、シゲは狼と二人きりになってしまった。

 何が、どうしてこうなった。シゲは一番の当事者であったはずなのに、意味がわからない。頭の中が疑問符だらけになっていた。

 それでもシゲはどきどきしながら狼を見上げて、何かを言いかけたところで険しい顔をする相手を見て、口をつぐむ。

 ――どうして貴方がここにいるの。何か言ってよ。

 そんなふうに、いつもの調子で強気に言えるシゲはここにはいない。代わりにいるのは、物欲しげに相手を見上げて施しを待つ一人の女だ。

 相手の出方を待つ。ただそれだけのことなのに、苦しくて悲しくて、そして幸せだった。

 少しでも狼を近くで見たくて、ばれないように気を配りながら少しだけ背伸びをする。

 すると、またもやシゲにとって予想外のことが起こった。

 視界が影って――そして、唇が触れ合う。軽くついばまれて、もう一度。

 これは、キスだ。

 同じ体勢を保ったまま目を見開き、シゲは呆然と狼を見上げた。

 束の間、自分がどうやって呼吸していたかを思い出すのに苦労する。

「……違う、悪い。忘れてくれ」

 狼は手の甲で口元をぬぐって、そんなことを呟きながら後退りをして逃げるようにして走り去る。

 今度こそ現場に一人で取り残されたシゲは、言葉もなく立ち尽くす。

 頬を水滴が滑り落ちて、シゲは自分が泣いていることを知る。

「何だって、こんなことをするんだよ……ばーか」

 人気の途絶えた夜に、孤独な声が響く。

 無防備なシゲの足下から意図のない変革は始まり、波紋状に共鳴し合いながら浸食を深めていく。

 まずは靴下が消えて、次に靴が消えて、遮るものが何もなくなった素足がアスファルトの感触を踏み締める。

 世界が新しい色に塗り替えられて、曜変する。

 生まれ変わろうとする世界の中で、シゲはただ世界が崩壊する一望を夢想する。

 思い描いた世界で、シゲは全てを滅ぼし、あらゆるものが世界と融合する生と死が隣り合わせになった世界に裸足で立ち尽くす。

 果たして、生まれ変わった新しい世界に天才錬金術師の居場所は用意されているだろうか。




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