第26話 関東管領
関東御取次役を拝命した滝川左近将監一益は、上野国、厩橋を本城とし東国支配の基礎を固めている。
本能寺の変の直前には、北信濃を領有していた鬼武蔵こと、森長可は越後、上杉弾正少弼景勝の本城、春日山城に迫る勢いで、上杉勢を追い詰めていた。
上杉景勝の軍は、柴田修理亮勝家率いる北陸織田勢の攻める越中、魚津城の救援のため越中、天神山城まで兵を率い後詰していたが、春日山からはほとんどの兵を率いていたので、春日山城防衛のため撤退を余儀なくされた。
撤退の前に上杉景勝は魚津城の守将達一人一人に向け、これまでの武勲や忠義をほめたたえ、無念ながら撤退することを詫び、魚津城を織田方に明け渡しても苦しからずと書状を送る。
魚津城の守将十二人は、魚津城城兵は玉砕し、落城が近いと悟ると本丸にて自刃した。
織田軍四万と籠城衆四千は、三ヶ月にも渡る魚津城攻防戦はここに終了した。
森長可は、上杉軍の帰城と本能寺の異変を知ると北信濃、長可本城、海津城へと兵を返した。
武田滅亡後には、北信濃は上杉の扇動もあって大々的な反抗が起き、森長可は反抗勢、八千の立て籠る大倉城を攻め反抗勢を撫で斬りにし、鬼武蔵の名に恥じぬ、わずか二日で制圧し、反抗的な勢力を追放。国衆の家族を人質として海津城に住まわせ、一応の安定を得ていた。
明智の乱時、信濃は一時期不穏な空気が流れたのだが、信長の勝利により一応の安定は保たれている状況だった。
関東御取次役として一益は、国人衆には本領安堵を申し渡したため、国人衆はぞくぞくと一益の元に人質を連れ出仕した。また、北条氏に城を追われた佐竹家に身を寄せていた、太田氏、梶原氏は信長の直参となることを望み一益の元に身を寄せる。
さらに、下野国、宇都宮氏や皆川氏、武蔵国、成田氏、上田氏、北条氏邦なども出仕し織田家に恭順を申し出ていた。
関東御取次役として、北条家、佐竹家、里見家、伊達家、蘆名家とも連絡をとりあっていた。
このことから、自質的な関東管領といっても良い権力が一益の下に集まっていた。
沼田城主、滝川益重はこの日、前田慶次郎と伴い、厩橋城にきていた。
慶次郎は城内で槍を振るう一人の青年に目を留めた。
「お前、ちょっと俺に本気で突きかかってこい。」
いきなりの声掛けに青年は面食らうが、むかっ腹も立てていた。
そんなところは、若者の怖いものなしの特権だったりするが。
青年は槍を構え心気を研ぎ澄まし、慶次郎は両腕をだらりとたらし、仁王立ちをしている。
青年の丹田に気合が溜まっていき、慶次郎の全身に殺気が宿る。
青年にとって前田慶次郎の姿が大きく感じられ、額に脂汗を浮かべる。
慶次郎は青年の実力を荒削りだがスジは良いと判断し、わざと一瞬、隙を見せた。
「たぁ――――!!」
慶次郎の隙を認めた青年は裂帛の気合を上げ握った槍を胸をめがけて繰り出したが、慶次郎は身体を右にずらし槍をかわす。
かわされた槍は、慶次郎の左腕を横薙ぎにそのまま追っていく。
慶次郎は突きだけでなく、横薙ぎに振られた槍の意外な動きに一瞬、面を喰らうが慶次郎の巨体が、青年の手元に飛び込む。
青年は後ろに飛び退るが、慶次郎も青年の動きに合わせ手元につけ込む。
更にもう一歩、青年は飛び退ると壁に打ち当たると、慶次郎は大きく飛び退り、慶次郎が最初にいた場所に戻っていた。
壁に打ち当たった青年は背中をしたたか打ち慶次郎を追うことができなかった。
「は、は、は。やるね、青年。スジはなかなかいいぞ、その槍が直槍でなかったら俺も本気を出さなくちゃならなかっただろうな。は、は、は。」
慶次郎は豪快に笑い再び青年に近づく。
「あ、ありがとうございました。直槍でなかったらと言いますがどんな槍ですか。」
額に汗を浮かべた青年は慶次郎に率直に聞くと、慶次郎は地面に槍の穂先の絵を書いてみせた。
「こんな形の槍先で十文字槍と言うぜ。」
地面の絵を指さしながら慶次郎は言った。
「あ、ありがとうございました。私は、岩櫃城主、真田昌幸が一子、源次郎信繁と言います。」
源次郎は頭を下げる。
「俺は前田慶次郎利益だ。」
「おい、慶次郎なにしてる。」
沼田城主、滝川益重が声をかけた。
「やば、じゃぁな。源次郎また会おう。」
そう言うと、慶次郎は足早にその場を去った。
「あ、前田様ありがとうございました。」
源次郎の大声が慶次郎の背中に届くと慶次郎はそのまま右手を上げいなくなった。
真田源次郎信繁は真田昌幸が送り出した、織田家への人質だった。無論、一益に出仕した国人衆は人質として血縁者を預けていた。
滝川一益は、厩橋の町を数人の側近と共に巡察していた。
「水の豊富な地域だが度重なる戦乱に街の発展が遅れておるやな。」
一益は一人馬上でつぶやく。
上杉、武田、北条により、その領有を争われた上野国の重要地であり、律令体制時代には、この地に国府が置かれ政治の中心地でもあった。街の中心を車川(利根川)が流れ、そこに架かる橋を
戦国時代であれば、珍しいことではなく街が焼き払われるのは重要な地域の証だったとも言えたのかもしれない。
そんな町外れに立つ、一人の妖艶な女に一益の目が釘付けになった。一益は今年五十八歳、老齢の域に差し掛かっているにも関わらず、一益の男が以外にも反応した。
一益は自分でも信じられない感じだった。褥で若い女を前にしたのならば、男が反応するのは当然のことなのだが、町外れに立っていたただの女を認めただけで反応をしてしまったのだった。
一益は心気を凝らし冷静を装い、男をなだめると、馬から降り、フラフラと導かれるかのように、女の前に立った。
「そなた、名はなんと申す。」
一益の抑揚の感じさせない声が聞こえた。
「はい、得子と申します。」
少し甲高いが、妖艶な声が得子と名乗った女から聞こえた。
「そうか。身寄りはあるのか。」
「いえ、戦で父母は亡くなり、姉は行方不明となりました。」
「うむ。そうであったか。悪いようにはせぬ。そなた、儂の元にこぬか。」
「あい。私でよければお殿様にお使いしとうございます。」
得子は一益の手を取って自分の頬に押し当てる。
「んむぅ。では、参れ。」
一益はそう言うと得子をいきなり横抱きに抱き自分の乗ってきた馬に乗せ、自分は得子の後ろに乗り馬を城へと走らせる。
「と、殿―――!!」
一益の側近はいきなりの展開に口を挟む余地がなく、いきなり城へと走り出した一益を追って行く。
厩橋城に走り込んだ一益を滝川益重と前田慶次郎は、沼田城に戻るために厩橋城を出た所で鉢合わせしたのだが、一益は声もかけずに城内に入ってしまった。
「伯父貴、なんだいありゃ。うちの殿はおかしくなったのかい。」
慶次郎は馬上で隣の益重に話しかけた。
「ん、なんだなぁ。殿も色々忙しんだろうて。関東御取次役は激務だからかのう。」
馬上の益重は、曖昧な返事を慶次郎に返した。
「へぇ―――。そんなもんか。」
慶次郎は馬上で腕を組む。
「慶次郎、沼田まで走るぞ。」
「ああ。だが、なんか腑に落ちねえなぁ。それに連れていた女、きなくせいなぁ。」
慶次郎は一人つぶやくと、先を走る益重に追いつかんと馬を走らせる。
「伯父貴、なんか起こるかも知れねえぜ。」
慶次郎は大声で益重に言うと、馬を駆って益重を軽く追い越した。
「こら、慶次郎!!」
益重の声が虚しく慶次郎の背中を叩いた。
滝川一益はこの日より三日間、褥から出てくることはなかった。
その三日後に得子は、上質の着物をまとい、一益の寵愛を一心に受けるようになり、政務にも口出しする様になる。当初はどこそこの者が悪人だとか、あそこの役人が不正を働いているなどと言い、調査すると進言通りの事があったので、文句を言うに言えなくなっていた。
そのことがあってからは、ますます、一益の寵愛は深くなっていく。
ある日、得子は一益に褥で話をする。
「殿は関東管領でございます。今、殿の勢力は北条を従えさせ並び立つものはありませぬ。今とは言いませぬが、天下をお狙いになりませ。」
「得子よ。儂は上様より大恩を受け、今の地位を頂いた身。そんなだいそれた事はできんわ。」
一益は得子を諭す。
「さようでございますか。では、私は天下を狙う男の下へと行きまする。これで、お別れでございますね。」
得子はそう言うと褥から出て、身支度を始める。
一益は驚き褥から出て、得子に近づく。
「得子すまん。そなたがいなくなるのは困る。そなた無しではいられなくなってしまったのだ。だから頼む儂のそばにいてくれ、いずれ儂も天下を狙う。その機会を待ってくれ。」
得子は一益に向き直った。
「あらそう。じゃ、ひとつ頼みごとを聞いていただきます?」
一益は苦い作り笑いをした。
車川の川原に直径一間半の穴が掘られ、そこに無数の蛇が放り込まれていく。
その作業の様子を一益と得子はそれぞれが馬にまたがり見ている。深く掘られた穴の半分ほどが無数の蛇で埋まると、罪人を二人ほど突き落とした。
一益はその様子を無感情に眺めており、得子は食い入るように見つめ銀色の瞳が光り、舌なめずりをした。竹矢来を組んだ外側では、厩橋の民は、おぞましい光景を恐怖に打ちひしがれ声も出さずにただ、見つめていた。
その日の夜中、人気のない川原の蛇穴に銀色の大きな狐が現れ、罪人を食った蛇を喰らい始めた。穴の中の蛇を喰らい尽くすと銀色の狐は厩橋城の方へと飛び去った。
その日より、一益は極秘裡に各地にいる野武士や傭兵崩れ、盗賊、山賊などを集め分散させて一益の領国内に隠す。また、鉱山の採掘を活発にさせ、資金を集めさせた。
一益は慎重にことを進め、ごくわずかな側近のみに必要最低限の情報だけを与え準備をさせ、各地に送った。
それでも、一益は必要以外は褥で得子と過ごすことが多くなり、領内、国人達から訝しげに思われ始めている。
さらに、領国内での婦女子の行方不明や強盗、刃傷沙汰などが増え、民の怨嗟の声も聞かれるようになっていた。
「お姉様、待っててもうすぐ私が助けてあげるから。」
この混乱をほくそ笑んで見守っていたのは得子のみだった。
この混乱と人の変わったような一益の態度に異変を感じたものは少なからずいたのだが、行動に移したのは真田昌幸だけだった。
昌幸は城に戻る機会を得ると、馬を走らせ岩櫃城に戻る途中で真田家の忍び佐助に手紙を投げ渡す。その手紙は真田源三郎信幸宛てになっていた。
佐助から手紙を極秘裡に受け取った、源三郎は内容を確認すると、即座に岩櫃城を佐助を伴い安土へとたった。
佐助の案内により間道から間道へ道を辿り極秘裡に、上野を出、信濃を超えたのだった。
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