第22話 それぞれの乱後

 安土の織田信長は、光秀の叛乱に際して動かなかった、四国遠征隊の責任者、丹羽五郎左長秀を安土城に呼び出した。


 丹羽長秀、惟住これずみ五郎左衛門尉長秀、米五郎左と呼ばれる。

 米五郎左とは、非常に器用でどの様な任務でもこなし米のように上にとっても下にとっても毎日生活に欠くことのできな存在の意味がある。

 織田家宿老として家臣で最初の国持大名になり、軍事、政治両面において活躍でき、織田家二番宿老の席次を与えられている。柴田勝家と合わせて、織田家の双璧と言われている。


 本能寺の変時、神戸信孝(信長三男)と長秀は岸和田城にて蜂屋頼隆の接待を受けていたため、住吉に駐軍していた四国遠征軍とは別行動を取っていた。大将不在のこの時に、明智光秀謀反、本能寺に信長囲まるるの情報が届いたために遠征軍内で流言飛語が飛び交い混乱のうちに兵は四散し、それぞれの旗本隊5百づつが残るばかりだった。


 こんな失敗もあり、長秀は安土に呼び出され、気が気ではなかった。なぜならば、こんな失敗は即時切腹を命じられてもおかしくないほどの失態といっていいだろう。


 そんな趣で、長秀は沈む心に喝を入れ、信長の待つ安土城へと出頭したことになった。


 長秀は、緊張を隠せない様子で信長の前に出る。

 「上様、お召により、五郎左、御前に罷り越しました。」

 長秀は、額を床に擦りつけんばかりの勢いで平伏する。


 「米五郎左、大儀であった。さて、此度の失態、五郎左らしからぬ慢心が生んだ結果よのう。」

 信長は脇息にもたれかかり意地の悪い笑みを見せる。


 長秀は頭を上げられず、平伏したまま口を開く。

 「この五郎左、面目次第もございません。どのようなご処分でも甘んじてうけまする。」

 言い終えると初めて頭を上げる。

 信長の顔を初めてまともに見た長秀は、意地悪そうに微笑んでいる顔を見て、緊張が最高潮に高まった。


 「そうよのう。五郎左、しからばそちに、処分を言い渡す。」

 そう言うと信長は立ち上がった。


 「大坂、石山の地に総構えを持つ、城を築け。」

 信長は言い放つ。


 総構えとは、城の城下町一帯を含めて、掘りや石垣、土塁などで囲い込む城の構造を言う。


 長秀は、自分の予想と違う処分を言い渡され、緊張が一気に溶け全身の力が抜けその場で固まり返答をすぐに返すことができなくなっていた。

 信長は、そんな秀長の状況を知って、微笑をしながら立ったまま返事を待った。


 長秀は自分が沈黙していると悟るとようやく口を開く。

 「あ、ありがたき幸せにございます。五郎左、全身全霊を込めこの安土城を凌ぐ大きな城を築きます。上様、五郎左をお見捨ていただくことなく、このような大役をお与えくださって、五郎左、望外の幸せ者でございます。」

 長秀は感謝の念を最大限込めて返答した。


 立ち上がっていた信長は再び座に着く。

 「であるか。よいか五郎左、もう慢心は許さぬぞ。」


 「は!御意にございます。」

 長秀は深々と頭を下げた。


 「して、上様、一つお伺いしてもよろしいですか。」

 顔を上げた長秀は率直に質問をした。


 信長は顎を突き出した。


 「は、四国、長曾我部はいかが相成りますか。」

 長秀は少し緊張気味に聞いた。


 「仕切り直しに致す。もう一度、長曾我部には書状を送り土佐一国、阿波の一部、伊予の一部の領有を認めると言ってやり、帰属するよう申し出る。これでダメならば、その時こそ戦となろう。」

 信長はそう長秀に言った。


 「御意にございます。では、これより準備に入りとうございます。」

 長秀は頭を下げ信長の前を辞した。


 その他の地方にて前線の将にも今後の方針が書かれた書状が届く。


 織田家、筆頭宿老、柴田修理亮勝家、宛て。

 「越後の上杉弾正少弼景勝とは、越後一国、佐渡島の領有を認め和睦すること。また、不可侵条約を結び、同盟をすることは最も好ましいことなり。なお、これ以上の上杉との戦闘は反逆とみなし、討伐対象とする。織田家の後ろ盾を笠に着て横柄な態度で接することのないよう、誠実に対応すべし。上杉は義の家なり、これを味方とするは、越後をとるよりも重要と知れ。なお、交渉が難航する場合においいては、こちらより人を遣わす。」


 織田家、宿老、山陽道大将、羽柴筑前守秀吉、宛て。

 「毛利輝元とは大きな先端を開かず、秀吉の対処できる範囲内の戦闘行為のみ許可する。毛利家と和睦結ぶならば、安芸、周防、長門、石見、四カ国を安堵する。場合によっては、備後を加えても良い。絶対条件として、瀬戸内の商船通行の自由航行を認めること。基本的に軍船の通行はしない事とする。この交渉がまとまるのならば、不可侵条約同盟を結ぶこととする。なお、話がまとまれば、毛利輝元には従三位権中納言を奏請する。なお、大掛かりな援軍は今、山陽道、山陰道ともに送ることは現状としてはない。」


 織田家、関東管領、滝川左近将監一益、宛て。

 「東国においては、人心の安定をもっぱらとし、一揆、反乱など起きないように心がけ、徳川三河守家康と連携して、北条家との良好な関係を築くこととせよ。武田を滅ぼしてからそれほどの時が経っておらず、人心の不安は避けるべし。」


 信長は機内の安定を図るためにの方策を命じる。


 坂本城に城代として蒲生賦秀を置き、賦秀はこの時より、名乗りを蒲生氏郷とし、坂本周辺の安定に努めさせる。


 織田信忠は坂本城を離れ、一万三千の兵を持って、ほぼ無人だった、丹波亀山城を接収し、丹波衆の懐柔に務めるが、丹波衆は明智光秀についたことにより制裁を加えられると疑心暗鬼になり一部の豪族や武将が反旗を翻した。信忠は根気よく丹波衆を説得し時には脅しを使い、それでも聞かないもののみを容赦なく討伐した。

 このことにより、丹波の地に安定が戻ろうとしていた。


 また、細川忠興軍三千は京に入り、治安安定のために妙覚寺に常駐し、朝廷の安定をも務めた。

 明智軍が去った後の京は、治安安定に欠けており犯罪率も上昇していたが、細川軍が京に入ると、犯罪率も低下していった。


 信長は、岐阜より春長軒を安土に呼び寄せ、三千の兵と春長軒を伴い上洛する。

 上洛を果たした信長は、春長軒を再び、京都所司代に復帰させ治安安定を委託し、信長自身は朝廷にこの度の乱の平定を報告し、妙覚寺の忠興軍と合流した。その日のうちに、忠興軍を丹後宮津へと帰国させ、信長自身は、所司代の加勢に百人の兵を残し、公家衆から官位昇進などの煩わしい話に時間を取られることを避けるためその日のうちに安土へと帰還を急いだ。



 本能寺で明智軍に最後の突撃を敢行した、信長小姓衆のある者は突破できずに斬死し、またあるものは、突破したものの重傷により命を落とす羽目になったものなどがいたが、森乱丸成利は大怪我を負ったものの脱出を果たし、上京、一条戻り橋のあたりで気を失って倒れていた所を近くに居住する、本阿弥光悦に保護され治療を施されていた。

 乱丸は意識を戻したのだが、傷が元なのか、血を多く失ったことによるショックなのかわからないが、記憶を失い、自分が誰なのか覚えていなかった。

 乱丸の怪我は深く、順調に回復しているものの動き回るにはまだまだ時間が必要であった。


 本阿弥光悦は、代々刀剣鑑定と研磨を家業としてきた、京の上層町衆の一人で光悦は刀剣に関わらず、書に長け、陶芸、絵などを目指す芸術家肌の青年だった。


 光悦は彼を哀れと思い傷の全開するまで、いや、いつまででも屋敷に逗留することを快く認めており、乱丸自身も今のところ記憶を失い、頼れる者のないため甘んじて世話になっていたのだった。

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