第20話 明智光秀の最後

 信長は安土城、百々橋口にて稲葉一鉄を出迎えた。


 稲葉伊予守良道一鉄似斎は六男として生まれ、幼少期に僧として快川紹喜の下で学んでいたが、11歳の時、父と五人の兄が戦死したため還俗させられ、家督と曽根城を継ぎ、土岐氏から斎藤道三に仕え西美濃三人衆の一人として活躍する。ちなみに姉は斎藤義龍を生んだ。

 その後、西美濃三人衆は信長に内応し信長に仕え、各地を転戦して武功を挙げ、美濃清水城を新たに与えられる。

 天正七年、家督と曽根城を嫡男、貞通に譲り、一鉄は清水城に移った。

 斎藤利光を光秀に引き抜かれた一鉄は、利光の義父でもあったが、訴訟を起こし信長は利光を一鉄に返還するよう命じるが、光秀は応じなかった。再び家臣を明智に引き抜かれた一鉄は訴訟を起こし、信長は本能寺4日前に利光に切腹を命じる裁定を下していた。

 一鉄は斎藤家時代より茶を嗜み一流の茶人としても認められていた。

 あるとき信長に一鉄を讒言する者があり謀殺しようと信長は一鉄を茶会に招く。だが、一鉄は床間の漢詩を読み下しながら自己の無実を述べたので、信長は学識の高さに感心し謀殺の事実を打ち明け、無実を信じた。非常に頑固な一面があり一鉄号にちなみ頑固一徹の言葉が生まれたという。


 「一鉄よくぞ参った。そちのおかげで安土城は救われることとなった。礼を言うぞ。」

 信長は一鉄の手を取る。


 「上様、直々のお出迎えありがとうございます。ご無事の様子なりよりでございました。上様ならば一鉄なんぞこなくとも明智程度、退けておいででありましたでしょうが。出過ぎた真似をいたしまして申し訳ありませんでした。」

 一鉄は信長の手を離し大仰に頭を下げる。


 「して一鉄、この後、明智をなんとする。」

 信長は身を翻し百々橋口より城内に歩き出す。


 一鉄は信長の後ろをついていく。

 城内のあちらこちらには、戦の爪痕が残っていた。


 「後のことは後のことでございます。明智はもう終わりました。後は坂本に籠城するか、逃亡するかしか残っておりません。籠城するにしても兵がどれだけ集まることかと。云わば、俎板の鯉ですな。」

 一鉄は顎をなでながら答えた。


 「であるか。であれば今宵は城で一献、過ごそうぞ、一鉄。面白き安土の民もいるでのう。」

 信長は振り返って一鉄を見る。


 「畏まって候。」

 そう答えると、一鉄は揉み手をしながら信長と共に本丸に向かった。


 この日、安土城内すべての人々にささやかな祝いの膳と酒が振舞われた。

 城内の安土の民たちは信長に踊りや歌や音曲を披露し城内全てのものが楽しむ。少なからず民にも死傷者が出ていたが、戦国の世にて窮地に陥ったときに、これほど民を大切にした武将はいなかったため、民たちの感謝の念は本物だった。

 信長も返礼として舞いを披露し、喝采を受けた。


 安土の地に束の間の平穏が訪れた。


 明智軍は総兵力の約三割、4千人の死者を出し、4千人の重軽傷を出した。安土城の守備兵は1千人の死者と、2千人の重軽傷者を出した。


 明智光秀と5人の宿老は坂本城まで無事に落ち延びることができたが、明智兵は2千にも満たなく、半数は怪我を負った兵だった。

 光秀と五人の宿老たちは、夜の闇を蝋燭の微かな明かりで、言葉を発することなく脱力感に囚われていた。


 「おやおや、雁首揃えて信長の首一つ取れないとは情けない限りですなあ。その上、安土すら落とせぬとは期待はずれもいいところでした。そして今はおのが首が危ういと。」

 どこからともなく光秀たちの下へ声が降り注がれる。


 「おのれ、痴れ者どこにおる。隠れてないで出て参らぬか。」

 斎藤利光は、立ち上がり脇差に手をかけ周囲を見回すが人の気配はしていなかった。

 明智秀満は素早く光秀のそばにより警戒を始め、明智光忠、藤田行政、溝尾茂朝は立ち上がり警戒した。


 再び何者かの声が響く。

 「明智光秀よ。そなたは、力を欲するか。今、再び信長の首を欲するか。」


 光秀は立ち上がり秀満を押しやる。

 「得体の知れぬ者の力など欲せぬ。痩せても枯れても、我は武家、源氏の血筋なり。勝敗は兵家の常、最後まで立ち回り、事敗れれば、腹を切るだけのことよ。異形の者の手を借りて名分などたたぬわ。」

 そう言いながらも光秀の決意は固まった。

 「皆の者、防備を固めよ。二、三日中にもこの城は包囲されるであろう。城を枕に討ち死に準備を致せ。」

 光秀は力強く言い放った。


 坂本城四層天守の屋根の上にいた虎面、芦屋道鬼はやれやれといった顔をした。

 「この茶番劇も徒労に終わったか。あの方の力も完全には目覚めておらぬ様子。さて、傀儡の糸が切れてしまっては仕方なしや、諦めるか。道硯には苦労させられるわ。」

 道鬼は一人つぶやくとゆっくりと闇に溶け込んでいった。


 安土城の決戦が終わった翌日、織田信忠は岐阜より1万5千の兵を率いて安土に到着した。

 信忠は決戦に間に合わなかったことを信長に謝罪し、信長は問題なかったことを告げた。

 信長は信忠に瀬田の唐橋の補修と坂本城の包囲を命じる。

 また、この頃ようやく細川忠興軍3千は坂本城の北方、半里の場所にある聖衆来迎寺に陣を構えた。


 ちなみに、比叡山焼き討ちの際、坂本周辺の寺社は焼き討ちされ焼失していたが、この寺は信長の信頼厚かった武将、森可成の墓所だったため焼き討ちを免れていた。


 忠興は陣を構えたことを早船で安土に知らせ、それを知った信長は忠興軍を京の治安維持確保のために京へ向かわせる。


 瀬田の唐橋は光秀の手で仮船橋が掛かっていたが、川の流れに大きく崩れていた。信忠は5千の兵を督戦して唐橋の仮補修を始め、残りの兵で安土の戦場跡の片づけや再建を準備させる。


 唐橋の補修に2日ほどの時がかかり、仮橋を架け終えると、信忠軍1万5千は坂本城へ行軍を開始する。

 信忠の動きに合わせ、信長は安土城より稲葉一鉄と、長岡幽斎、蒲生賦秀と兵三千を琵琶湖の鉄甲船に乗せ坂本城を目指した。


 坂本城は信忠軍1万5千に包囲された。


 坂本城は明智光秀が比叡山焼き討ちの後、周辺領地を与えられた時、信長の命にて築城された。坂本城天守は四層天守と二層天守の連立天守を築き、全体に石垣を配した。本丸部分は琵琶湖に突き出し、二の丸、三の丸を持つ梯郭式構造で琵琶湖の水を掘りに引き込んだ水平城となっている。


 坂本に到着した信長は、鉄甲船の2門の大砲を坂本城天守に向け、幽斎と賦秀を伴い上陸する。

 信長は信忠が包囲する坂本城の大手門へ賦秀に信長の馬印たる金傘を持たせ、幽斎とともに近づく。

坂本城の守備兵2千は、未だかつてないことに唖然とし、呆然とし、恐怖すら覚えた。


 大手門にたどり着いた信長は大声で叫ぶ。

 「織田前右府信長である!開門せよ!!」


 坂本城の守備兵だけでなく坂本城を包囲する信忠軍もこの様子を見て騒然となっている。

 「何をしておるか!早う開門せぬか!!」

 信長は全身に殺気を込める。


 幽斎は沈黙を通し、賦秀はワクワクした。


 ようやく、ゆっくりと大手門が開かれる。


 槍、鉄砲を構えた守備兵が三の丸に並ぶ。

 構わず信長は三の丸に立ち入る。そのあとを幽斎、賦秀と信長の馬印が追う。


 「下がれ!!下郎!!」

 信長の全身に込められた殺気が放たれ、守備兵たちは信長の殺気に圧倒され道を開ける。気の弱い兵などはその場でへたり込んだり、ガタガタと震えるものもいた。


 信長は構わず、開かれている二の丸を通り、本丸御殿にたどり着く。

 そこで、信長は3度、叫ぶ。

 「織田信長である!!」

 そう言うと賦秀をその場で待機させ幽斎とともに御殿にそのまま立ち入った。


 広間に辿りついた信長は幽斎を部屋の入口で待たせ、そこにいる宿老たちを睨みつけ光秀の前に立つ。

 光秀は床几に腰掛けたまま信長を見るが、左右の握った拳が微かに震え続ける。


 「キンカン。そなた、魔につけ入れられおったな……。このたわけが!!」

 信長の全身に殺気がみなぎる。光秀は何も言い返すことができなかった。


 「光秀そちには生きてもらう。だが、表での立身出世は諦めてもらう。」

 信長はそう言うと、光秀の怯えた目が大きく見開かれた。


 「う、上様。それは、どういうことでしょうか。」

 光秀は遠慮気味に聞く。宿老5人も信長の申し出に驚きを隠せなかったが、事の次第を黙って見守っているしかなかった。

 今もって信長の殺気は衰えていない。その場にいる者が信長の衰えぬ殺気に少なからず恐怖を感じた。


 信長の目が大きく見開かれる。

 「そちが、光秀をあやつったか!!」

 信長は光秀の後ろに居たものの気配を感じ言葉を放った。

 光秀は床几を立ち上がり上座を降り信長を一瞬見ると、自分がいた場所の後ろを見る。


 上座の壁面に近い場所の空間より黒い闇が現れ亀面の顔が現れる。


 (信州、法華寺で会った男)

 光秀の記憶が一部、戻ったが己を恥、口に出すことができなかった。


 「織田前右府信長殿、初めて御意を得ます。」

 亀面の顔が口元を歪めて言う。


 「ふん。下がれ、下郎めが!!」

 信長が叫ぶと、殺気が神像の姿となって亀面を襲う。


 「須佐之男だと。」

 亀面は一声残してその場から消えた。


 「おのれ信長。」

 亀面の額部分が破壊され、傷を負い一筋血を流した。



 その場にいた明智のものたちは、今起きたできごとに驚き恐れた。


 一人幽斎だけは信長の秘められていた力を知っていた。


 信長は無造作に上座に上がり、光秀の使用していた床几を使う。

 光秀は反射的に下座に座り頭を下げる。

 「明智光秀は今この場で、死んだ。今よりそちは天海と名乗り己の恥を雪げ。溝尾勝兵衛を従者として連れて行くことを許す。残りの4人の宿老は腹を切れ。そちの息子と妻は出家させよ。忠興の妻、玉はそのまま忠興の妻とさせる。宿老どもの家族は好きにせよ。儂から害することはないと約束はするが、くだらぬことをしたならば根絶やしにする。」

 信長はそう言い光秀はその場で頭を下げたまま返事の返しようがなかった。


 「殿、さらばでござる。」

 斎藤利光は、おもむろに脇差を取り出し静かに腹を切り、首の動脈を断ち切った。


 「内蔵助すまない。」

 光秀は頭を下げ利光を見て言った。


 「殿、幸せでございました。」

 明智秀満も静かに腹を切る。


 (左馬助……。)

 光秀は目を瞑った。


 明智光忠、藤田行成も従容として腹を切った。

 (次右衛門、伝五郎……。)

 光秀は顔を上げる。


 信長は見届けるとその場を立つ。

 「天海、そこな、藤孝。いや今は隠居して幽斎じゃ。幽斎を頼りとせよ。」

 そう言うと幽斎を残し、再び船に乗り安土へと引き返した。


 残された光秀改め、天海と勝兵衛は坂本城を開城する準備をし幽斎は、坂本城を包囲する信忠にだけ坂本城の開城と光秀を天海として生かし続けること、明智家家臣の家族を害しないことなどを報告した。


 天海と勝兵衛は坂本城内の者全て立ち去らせ無人とし、二人は僧体となり城を幽斎に委ねた。

 幽斎は信忠に坂本城を接収させる。信忠は治安安定のため守備兵2千を残し丹波亀山城へと向かった。


 ここに、本能寺より始まった明智光秀の反乱は終わりを告げたのだった。

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