第17話 不発

 桂川を渡った明智光秀本隊は三条堀川に本陣を構えていた。

 その本陣の中心で床几に腰掛け、目をつぶり微動だにせず、明智日向守光秀はいた。


 本陣は異様な静寂に包まれている。


 その光秀は思考の渦中にいたのだった。

 この明智十兵衛、上様に対し奉り、ご生害を思い立つことが全くなかったと言い切ることはできんが、それでも我が身を上様に捧げ参ったつもりであったが、よもやこのように軍勢を引き連れて上様のご宿舎を取り囲む仕儀になるとは思っても見なかった。

 武田攻めにおいて信州、法華寺で出会った僧の言葉は覚えておるが、あの僧の顔も名前すらも思い出せん。だが、あれより後に、上様を害し奉る考えが芽生え始めた。

 今この時が上様をご生害に追い込むには絶好の好機なのかも知れぬ。

 だが、今後の方針が、いや一体この謀叛人にどれだけのお味方が合力してくれるかは未知数だ。

 古来、天下人を叛乱によって害し奉った者が長きに渡り天下人、足りえたことなど恐らく無かったことだろう。だからこそ、この光秀に合力してくれる様、下準備に時間をかけなければ、ただの阿呆ではないか。

 細川藤孝殿の倅殿にわが娘、玉を娶せたが藤孝殿は天下一品のお人。どう動かれるかは正直言って私には知る余地もない。

 いや、十中八九、無理やもしれない。

 北陸の柴田殿は上杉と対峙しており、羽柴は中国で毛利と対峙しているから上京するには相応の時がかかる。しかし、河内の丹羽殿は注意せねばならんが、四国の長曾我部殿に助力を頼めば大きな問題にはならんだろう。


 「殿、殿……。一大事でございます。殿、殿ー。」

 溝尾成朝は光秀の真ん前で話しかけるが、返事は帰ってこない。


 「ごめん。」

 成朝は一言、断ると右手で光秀の左顔面を叩いた。


 「何事か!」

 といった光秀の顔がはっとなる。

 「成朝すまぬ。何事か起きたのか。」

 光秀は成朝を見た。


 「一大事でございます。信忠が妙覚寺におりません。一足先に逃亡したものと見えまする。光忠殿も斥候を出して行方を調べてるとのことです。」

 成朝は興奮と声量を抑えた様子で話す。


 「何と信忠がと。それでは、だが、信長の方はどうなっておる。首はまだ取れんのか。」

 光秀の顔に焦りの色が浮かぶ。


 「今、秀満殿の手で、本能寺を攻め立てておりますが、織田方の抵抗が予想以上に激しく思ったより時間がかかっている様子です。」

 成朝は頭を下げた。


 「むーん。こうなっては致し方なし、利光を本能寺に向け、光忠には信忠を追うように伝えよ。そして、一刻も早くここに、信長の首をもってこい!!」

 光秀は悲鳴に近い声を出していた。


 すると、突然大きな爆発音が続けて数回鳴る。


 「殿、あれを!!」

 指を差した先には炎を勢いよく上げる本能寺の建物が見て取れた。


 光秀はよろよろと立ち上がると南東に向き口を開く。

 「信長はすでに本能寺にはいない!!」

 およそ、光秀と思えないような冷たい声だった。


 その冷たい声を聞いた成朝は恐怖を覚える。


 光秀は一瞬、目を閉じた。

 「成朝、本陣を清水寺に移す。全兵を清水に集結させよ。」

 そう言った光秀の声は平素の声に戻っていた。

 光秀の平素の声に成朝も平静を取り戻し、使い番を集め光秀の下知を伝えた。


 すでに夜が明け辰刻(午前9時)も終わろうとしていた。



 明智軍に察知されず、間一髪で京を脱出した織田信忠、150騎は京七つ口の一つ、荒神口から山中越えの街道を近江に向かって走っている。


 山中越えまたは、志賀越えといい、古くから京と近江を結ぶ山越の道だった。信長はここが、東海道より京、近江に抜ける道として最短の道とし、沿道の村々に触れを出し整備させ、道幅三間5.5メーターとし、左右の沿道に松を植えさせた。


 「さて、信長の邪魔ができなくなったけどこっちは大丈夫のようかな?」

 亀面僧、弓削道硯が一人信忠たちを山腹から見下ろしてつぶやく。

 「オンナムダイコクテンバクウン。オンキリキリバサラウンハッタ。」

 真言を唱える低い声が山中に響く。

 「オンナムダイコクテンバクウン。オンキリキリバサラウンハッタ。」

 山道を走る信忠たちの馬の歩速がしだいに遅くなり、終いには立ち止まってしまい、馬腹を蹴ろうが鞭を当てようが馬は完全に動かなくなっていた。


 「どうした、何があったというのか。一刻も早く安土に戻らねばならぬと言うに。」

 信忠は山中に響く低い声を聞いた。


 「オンナムダイコクテンバクウン。オンキリキリバサラウンハッタ。」


 「一向宗か!!」

 「いや、念仏が違うぞ。それも一人の声か?」

 信忠に付き従う武者たちは周辺を見回し、信忠のまわりに集まってくる。


 春長軒は信忠に寄り添い力丸は刀を構える。


 「もう、馬は良い。走るぞ。一揆……。」

 信忠は途中で言葉を失った。


 街道の前後左右から白頭巾に黒染め衣姿の生気の感じられない僧兵が湧いて出てくる。

 僧兵たちの手には薙刀や槍、棒、大太刀などとさまざまな武器を携えていたが人を殺傷するには不十分な代物にも見える。


 (人が大地より湧き出るというのか。妖術なのか。まさか、比叡の僧とでも言いたいのか。ええい、ぐずぐず考えてても埒があかん)

 信忠は考えをまとめると叫ぶ。

 「突破するぞ、皆の者、われに続け!!喰い破れ!!」

 信忠自ら僧兵に斬りかかる。


 「御大将に遅れをとるな―――!!」

 信忠隊全員が四方の僧兵に向けて突撃をする。

 僧兵は繰り出された槍や刀など一切かわすことなく体に受けるが、その傷からは血が溢れ出ることはなく、ただ、黒いどろっとした液体が少量流れるだけだった。

 緩慢な動きの僧兵のためか信忠たちが致命傷を負うことはないのだが相対する数が多く傷を受けるものも少なからず出てきている。

 僧兵の手を切り飛ばし足を切り飛ばしするが、身体の一部を失っても向かってくる。

 歴戦の勇者である信忠の家臣たちでも軽く恐怖を覚えずにはいられなかった。


 春長軒は、目の前のことを信じられない様子だったが、人並に刀を振るった。

 力丸は無表情で、多くの僧を切り首を飛ばした。首を飛ばした僧は倒れ土と同化した。


 「首を落とせ。さすれば、相手は動かなくなる。」

 戦闘の中で気がついたのかあちらこちらで同様の声が上がる。


 「皆の者。首を落とせ!!」

 信忠は聞こえてきた声を集約して大声をで下知した。


 首を切られた全ての僧兵が地面に倒れ、土に同化していく。攻略法を見つけたためか僧兵は数を減らしていった。


 「オンナムダイコクテンバクウン。オンキリキリバサラウンハッタ。」

 再び低い声で真言が唱えられると、地面から再び僧兵たちが現れる。


 (きりがないわ。)

 信忠は恐怖を覚えた。


 (おのれ、どこのどいつだ)

 春長軒も恐怖を覚える。


 力丸は術者の方を正確に見た。無表情な目で。


 再び現れた僧兵を相手にしていると、街道に錫杖の金属音が木霊する。


 「オンカカカビサマエイソワカ。オンカカカビサマエイソワカ。オンカカカビサマエイソワカ。」

 先ほどとは明らかに違う高い声の真言が唱えられる。

 すると僧兵たちはゆっくりと黒い煙になり地面に消えていく。


 「ばかな。」

 道硯は一言放つと森の中に消えていった。


 信忠は敵対してるものではない誰かが現れ助けを出してくれたものと思い馬を調べさせる。

 その他の家臣たちは傷を負ったものの応急手当を始める。


 街道の近江側から白狩衣姿の涼しげな男が近づいてくる。

 家臣はそれを認め信忠に報告すると、信忠自ら、白狩衣姿の男の前に立つ。


 「先ほどは難儀のご様子だったので、いささか手をお貸ししました。」

 白狩衣姿の男は気負いもてらいも見せずに言った。


 「そなたのおかげで助かった礼を言う。」

 信忠も率直に言い頭を下げた。


 「それは良かった。私は安倍あきらと申します。えっと、傷を負った方は、後一刻ほどしたら痺れがきて満足に体を動かせなくなります。ただ、六刻ほど経てば痺れはなくなり自由に動けます。馬はもう助かりません。」

 そう、安倍明が言うと馬がバタバタと倒れ死んでいった。

 「大変申し訳ありませんが、先ほどの僧兵をけしかけた者の呪を馬に移させていただきました。本来ならば傷を負った方々のほとんどが一刻後に呪によって死ぬところだったのですが、よろしかったですか。」

 安倍明はにっこり微笑んだ。


 「重ね重ねありがたく思う。安倍明殿には再び礼を尽くそう。」

 信忠は再び頭を下げた。


 「良き大将でございます。私は行かねばならないところがあるので、今はこれまでといたしましょう。三位中将様なすべきことをなさってください。では、失礼します。」

 安倍明は言うと京へと歩き出した。


 信忠の家臣の中には無礼千万という声も聞かれたが信忠は取り合わなかった。

 信忠は家臣たちを点検すると傷を負ったものは150名中、60名に達していることがわかったので、負傷者60名、護衛30名を山中に隠れさせ残り60名で徒歩にて安土を目指すこととした。


 信忠と別れた、阿部明は山中越え街道を京に向かって歩いていた。

 しばらく行くと阿部明は口を開いた。

 「弓削よ。理を壊して歩いて何をしている。」


 数間先の森の中から弓削道硯ゆげのどうけんが現れた。

 「そなたは野に埋もれたままにいれば良かったものを。」

 道硯は苦々しく吐き出す。


 「そなたたちが、ことわりを壊した上、さらに壊そうとしているから、われも野に埋もれたままではすまなくなったのではないですか。」

 安倍明は眉根を寄せた。


 「ふん。」

 道硯は強気を見せた。


 「そうそう、芦屋道鬼あしやどうき蘇我智子そがともこ藤原薬子ふじはらくすこは息災ですか。」

 道硯は焦った。すでに四人が関係している事を悟られているとは。


 「知ったことか。安倍明、今日はここまでだ。」

 道硯はそう言うと再び森の中に消えた。


 「またいずれ、どこかで会いましょう。」

 安倍明はそう言うと再び歩き出した。



 清水寺に本陣を移した明智光秀は平静を失っていた。

 万全を期したはずだった、織田信長・信忠親子への謀叛計画はすでに、崩壊していた。

 信長の遺体は発見できず。一部の信長付きの小姓が包囲を突破して行方不明になり。妙覚寺の信忠は包囲前に京を脱出した様子だった。

 本能寺の小姓を捕らえていれば、まだ、情報を引き出すことができたのだが、包囲を突破できなかった小姓はすべて斬り死にしていた。

 これほどの失策を回復できるかどうか不安の渦中にあるからこそ、平静を装うことすらもできないでいる。

 斎藤利光が光秀に詰め寄る。

 「殿、このままでは我ら四方より押し包まれ、首台に首を晒すことになります。さあ、早く安土を制圧するために兵をお進めください。信長が本能寺にいないと言ったのは殿ですぞ。ぐずぐずしてる場合ではありません。さあ早くご下知下さいませ。殿。」


 「内蔵助か、もう終わりだろう。今さらじたばたしても始まらないだろう。」

 光秀は諦めの境地に陥っている。


 「ならば我ら全員ここで腹かっさばいて見せるのですか。殿、手をこまねいていては我らの中から反乱が起きみすぼらしい死が待っておりますよ。味方に捕らえられ首を落とされるくらいなら、いっそ武士として戦って死にとうございます。」

 利光は激高していた。


 平静を失っていた光秀の目に光が宿る。

 「……内蔵助、取り乱してすまなかった。私も惟任日向守と呼ばれた男だ、これよりは迷いを捨て安土を手に入れ天下をとって見せようぞ。」


 「殿、この内蔵助差し出がましくも僭越なことを申し上げ、誠に申し訳ございませんでした。これまで以上に命惜しまず粉骨砕身、働きまする。」


 「あい分かった。これより安土を目指す。出立じゃ―――!!」

 「内蔵助、皆の者には、信長は本能寺で灰になったと伝えよ。信忠は父を見捨てたからには天下人の器にあらず、我らが討ち滅ぼすと触れ回れ。内蔵助には先陣を申し付ける。急ぐぞ。」

 光秀の闘志は戻ったかに見えたが心の奥底の不安は消えてなかった。



 「やれやれ、世話の焼ける御仁だ。」

 清水寺の舞台から明智光秀の様子を伺っていた虎面の芦屋道鬼は一人つぶやいた。



 清水寺に再集結をした、明智光秀軍は先陣に斎藤利光を配し第二陣に明智光忠、第三陣に光秀本隊、後軍に明智秀満を配置し東海道を安土へと行軍を開始した。



 山中越え、近江口は光秀の本城、坂本城にほど近い場所にあったのだが留守部隊としての兵力は2百足らずのため、また、事前に謀叛のことを伝達していなかったため特に封鎖されている訳ではなかった。

 このような事情から信忠たちは問題なく大津を抜け瀬田の唐橋を渡り難なく橋を管理する瀬田城主、山岡景隆のもとへと寄ることができた。

 大手門にて信忠くるとの知らせを受けた景隆は家臣に色々と命じ、城主自らが走って出迎える。

 「信忠様ご事情は承りました。今、そこに水を運ばせました。また、湯漬けも持ってこさせました。馬も人数分お持ちください。ゆるりとはいかないでしょうが、まずは、ご収納ください。」

 景隆はてきぱきと準備をさせながら信忠に話した。


 「景隆の心づくし誠にかたじけない。上様の信任暑いそなたにここでまみえて百万の味方を得た心地だ。」

 信忠はその場に用意された床几に腰掛け湯漬けを流し込む。


 「景隆、ありがたき幸せでございます。一息ついたならば、これより安土へお向かいくださいませ。もし、謀叛人、明智光秀軍がきたならば橋と城を焼き、足止めいたします。」


 湯漬けを流し込んだ信忠は立ち上がる。

 「景隆すまぬ。よろしく頼むぞ。よし、皆の者これより安土に向かう。」

 信忠たちは再び騎上の人となると安土を目指して馬を奔らせた。

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