安土城のゆくえ

第18話 風雲安土城

 その中年武将は、急な石階段を大急ぎで駆け下りてきている。

 「ご、ご無事でな、何よりです。はぁはぁ。ご無事で何よりです。上様ー。」

 中年武将は一人叫びながら石段を駆け下っている。

 中年武将は、安土城の留守を任されていた、近江、日野城主、蒲生左兵衛大夫賢秀だった。

 六角氏に仕えていたが、六角氏が信長に滅ばされた。その後も抵抗を続けていたのだが、織田家の武将に説得されその時より信長の信頼篤い家臣となった。


 この日、賢秀は安土城二の丸屋敷にて待機していたが早朝から何とも言えない不安を覚えずにはいられなかった。


 その不安が今、的中する。


 明智光秀が反旗を翻し本能寺を襲撃したが、信長、濃姫は脱出し今、安土城の百々橋口に到着したとの知らせを受け、すっ飛んできた所だった。


 安土城は琵琶湖の東岸にある標高約200メートルの安土山に築かれた日本初の五重七層建ての天主を持つ山城である。大手門から幅三間5.5メートルの直線石段が十間続いており、一般的には防御に不向きな城と思われている。

 だが、城の周辺を見ると百々橋口から大手門前にかけて琵琶湖の水を引き込んだ堀を備え、大手門前は最大幅六間の堀が切ってある。安土山は琵琶湖に半島状に突き出し、さながら水に浮かぶ鉄鋼船とでも言うべき山城で、強襲で落とすとなると相当の被害を覚悟しなければならない堅固な城塞だった。わずかながら南東部は観音寺山の尾根と安土山の尾根の狭間に当たる所に街道が通る部分があった。

 また、南西部には普段から城の出入りに使う百々橋口門があり、こちらは幅一間の尾根道になっている。東側の湖に面する場所は搦手口になっており、ここより、船で物資を運び込めるよう船着き場になっている。


 百々橋口から安土城内へよれよれになった状態の織田信長と妖艶な太ももを露わにした濃姫は堂々と連れ添って石段を登ってきていた。

 蒲生賢秀は信長と濃姫の姿を見とめると足をもつれさせその場で派手に転んだ。

 信長はあきれ顔になり濃姫は心配顔をする。


 「つつつ。上様、ご無事のご様子、賢秀ほっとしました。」

 強く打ち付けたであろう賢秀の額は赤く腫れあがる。


 「左兵衛、そちが無事ですまなかった所ではないか。」

 信長は意地悪そうな顔で笑う。


 「これは、失態、大変申し訳ありません。足がもつれまして鍛錬不足、まことに申し訳ありません。」

 額を懐紙で押さえながら賢秀は頭を下げた。


 「そこの総見寺で身支度を整えよう。賢秀、手配せよ。」

 信長はそう言うと安土城内の寺を指示した。


 「御意でございます。早速に申し付けておきます。」

 賢秀は頭を下げると降りてきた石段を今度は登りだす。


 寺の中で一応の身支度をしながら信長は賢秀に話しかける。

 「左兵衛、日野より忠三郎と兵を呼び寄せ、安土の民を城に入れろ。ただし、無理強いはいかんぞ、明智の兵と戦うための力を貸せる者だけと話せ。ただ、明智がくれば町に火をかけるやもしれんし、略奪もないとは限らん。安土の城に入らないのならば、逃げよと申せ。よいな。女子供老人とて籠城して安全を得たいと申し出があれば構わず入城させよ。」


 「御意にございます。」

 賢秀は頭を下げる。

 一応の身支度を終えた信長は寺を出て天主を目指す。その後ろを賢秀がついていく。

 「搦手へ至る街道を逆茂木を置き封鎖せよ。それと、大手道もできるだけ逆茂木を設置せよ。屈強な兵に大鉄砲を配布し、鉄砲はあるだけすべて出して鉄砲隊を組織せよ。」

 一度信長は言葉を切り思案顔になる。

 「よし、とりあえずはこれでよい。後はまた伝える。」


 「は、御意にございます。早速に手配させていただきます。」

 賢秀は頭を下げると石段を走り出す。


 「ふん。また、転ぶなよ。」

 信長はポツンとつぶやきそのまま天主を見つめた。


 信長は安土城天主に設けた広間に入り考えをまとめている。


 賢秀は額を気にしながらも信長に命じられた仕事を一つ一つ実行していくために部下に仕事を振っていく。


 濃姫は安土城奥の間に戻り疲れを癒す。


 「長岡侍従藤孝様、ご登城。」

 小姓の声が響く。


 信長の目が大きく見開かれた。


 長岡藤孝、元の名を細川藤孝という。始め室町将軍、足利義輝に仕えたが義輝が討たれると、弟、足利義昭を将軍に擁立し義昭が追放されると織田信長に従い、山城国、長岡一帯を知行し名を細川から長岡に改めた。

 また、信長の斡旋により嫡男、忠興と明智光秀の娘、お玉の婚儀がなり光秀の有力与力武将となった。その後、丹後国南部を光秀の加勢により平定し、丹後宮津八万石の大名となった。


 信長は藤孝を気軽に招き入れた。

 「侍従。安土にくるのがいくぶん早いな。それとその頭はどうした。」


 「貴船より知らせを受け飛んで参りました。それと手前、剃髪し家督を与一郎忠興に譲り幽斎と号しましてございます。」

 藤孝は頭をピシャピシャと叩くと大仰にゆっくりと下げた。


 「であるか。」

 相変わらず信長の返事は短かった。


 「光秀の娘、玉は山中に幽閉しました。」

 幽斎は背中に汗が一筋流れるのを感じた。


 「であるか。」

 興味のなさそうな声で信長は答えた。


 「上様。惟任光秀殿は魔につけ入れられて、このような仕儀とあいなりました。私めが魔の存在を早く気づいていれば、上様にご迷惑をおかけすることはなかったのやも知れませぬ。」

 幽斎の語尾が震えた。


 「いや、良い。幽斎そなたの責めではあるまい。つけ入れられたのは、かのキンカンの弱さよ。それはその方も長きに渡りあの者を見てきたからこそ分かるであろう。それよりもそなたも貴船に魅入られていたとはこの儂も驚いたぞ。」

 信長は脇息を自分の前に置き換え両腕をもたれかけ、顎を一度突き出した。


 「倅、与一郎は兵3千で坂本に向かい城を監視せよと申し付けました。それともう一点、手の者の報告によりますと三位中将様、妙覚寺を脱出し、近江に入ったとのことでございます。」


 「何、城介が生きてると申すのか。これは吉兆な。」

 信長の目が殺気を放って細くなる。

 「で、幽斎、その方の手の者とは如何に。」

 脇息にもたれかけていた信長の背筋が伸びる。


 「山城長岡におった、陰陽法師でございます。」

 幽斎は平伏した。


 「であるか。」

 信長の殺気は消え脇息に再びもたれかかる。


 「三位中将信忠様、村井民部少輔貞勝様。ご登城。」

 再び小姓の声が響くと幽斎は脇に移動する。


 信忠が広間に入ってくると信長は立ち上がり信忠のもとに近づく。

 「城介よく生きて戻った。大儀である。」

 信長は興奮気味に信忠の手を取り信忠の顔を見つめた。


 「上様もったいないことでございます。遅くなりまして申し訳ございません。」

 信忠は頭を下げる。

 信長は信忠の手を離し上座に戻る。

 信忠、春長軒は信長の前に座り、力丸は少し離れた場所で座ろうとするが、足の痛みのためかしっかりと座れず片足を投げ出して座る形になっていた。


 「力丸、苦しゅうない足はそのまま投げ出して座っておるがよい。」

 信長は信忠、春長軒を飛び越え、森力丸に話しかけた。


 「申し訳ございませんで……。」

 力丸は最後まで言い終わらないうちに気を失ってしまった。


 それを見た信長は近侍の小姓に話しかけ、近侍は力丸を背負い信長の前を去った。


 すると信忠は口を開く。

 「上様の無事何よりの幸せでございます。」

 信忠と春長軒は頭を下げる。


 「上様のこたびのご運の強さ春長軒、感じ入ってございます。」

 春長軒は信忠に続く。


 「であるか。」

 信長は短い返事を返す。


 春長軒が言葉をつなぐ。

 「瀬田にて山岡景隆殿に会いまして、明智軍が見えたら、唐橋を焼く準備が整っているとのことでございます。」


 「であるか。中将、急ぎ岐阜に戻り兵1万5千を率いて安土を後詰せい!」

 信長は命を下す。


 「は、御意にございます。ですが、上様は安土より動かぬご様子。ならば、上様がどのように明智を向い討つ所存か、お聞かせ願えますか。」

 信忠は恐縮しながら頭を下げる。


 信長はいつになく優しい声になる。

 「よいか城介。そなたが美濃、尾張より兵を率い東から安土を後詰すれば、大和の筒井は南から京を伺うか明智の牽制になる。和泉の神戸と丹羽五郎左が西より攻め寄せ、北の細川忠興がすでに兵を率いて南下していると聞いておる。ここ安土城には安土の町民6千を引き入れるが、そのうち3千は戦に役立たぬ、残り3千は雑兵として働かせる。甲斐・信濃は帰属したものがこの時とばかり反乱する可能性があるため兵は動かせん。北陸の柴田と中国の羽柴も前面に敵を抱えてるため急には役立たん。つまり、城介こたびの乱はそなたの力量にかかっておる。そなたは、すでに織田の惣領となったのだ。その責務を果たせ。」


 「かしこまって候。直ちに岐阜に戻り、一刻も早く兵を率いて戻ってまいります。」

 信忠は言い終わると立ち上がり信長の前を辞する。


 「春長軒、よく信忠を補佐せよ。」

 信長は早くいけとばかり手を振った。


 「は、御意にございます。」

 春長軒は頭を下げると急いで信忠を追う。


 だが、信長はそれほど悠長に事が進むとは思っておらず、信忠の援軍が間に合うとは思っていなかった。そして、信長の予想通り明智軍はすぐそこまで迫っていた。


 「さて、幽斎、そなたも安土の民兵を率いて戦ってもらうぞ、細川家の人質だからと申して楽はさせんぞ。」

 信長は笑う。


 「もとより、そのつもりでおりました。上様もお人が悪い。」

 幽斎も笑う。


 「少し相談がある。ついてまいれ。」

 信長は立ち上がり広間を出る。幽斎も一歩遅れ気味で信長の後を追った。


 信長と幽斎は安土城天主最上階に登った。

 「幽斎、あれをなんと見るか。」

 信長は安土城にかかる薄い黒い雲のようなものを指し示す。


 「瘴気でございます。」

 間髪入れず幽斎は答える。


 「であるか。幽斎にも見えるのであるな。」

 信長は幽斎を見た。


 「ですが、ご安心ください。この瘴気、薄れてきておりますれば、よほどのことがない限り早晩消えることでしょう。恐らくは上様の須佐之男の加護の力が働いているため瘴気が消えてきているものかと思われます。」

 幽斎は信長に説明する。


 「であるか。須佐之男か……。では特に陰陽の法師の手を借りなくともよいと申すのだな。」

 信長は再び薄れてきている瘴気を見つめるとさらに瘴気は薄れていった。


 「御意にございます。」

 幽斎は頭を下げた。


 「よし、幽斎そなたは大手道の守備につけ。儂も大手道にて戦う。その時儂は一手の武者ぞ、そのように扱え。よいな、幽斎。」

 信長は言うと大笑いをした。


 「上様、それだけはお止めください。」

 幽斎は慌てた。


 「幽斎。武士に二言は無しじゃ。安土の民を望まぬ死地に駆り出すのだから、儂が先に立たねば尾張のうつけの名が泣くわい。」

 再び大笑いした信長は天主最上階を後にする。


 「上様―――。」

 幽斎は悲鳴のような声を上げると信長の後を再び追う。


 信長と幽斎のいる広間に蒲生賦秀が到着した。


 「上様のお召しにより、忠三郎賦秀、兵2千を率いてまかり越しました。」


 蒲生忠三郎賦秀ますひでは蒲生賢秀の三男。信長のもとに人質として差し出されていたが、信長の目に留まり信長の娘を娶る約束をする。元服時には信長が烏帽子親となり、弾正忠信長の忠の文字を与えられ忠三郎と名乗る。14歳で初陣を飾り、その後信長の次女を妻とし、日野に帰国する。父とともに柴田勝家の与力となり各地で転戦、数々の武功を上げる。


 「忠三郎、大儀、大儀。よく参った。そなたの父、左兵衛をよくよく補佐せよ。何せそなたの父は、この安土城の総大将であるからのう。」

 言い終わると信長は大声で笑った。


 「上様は岐阜に参られるおつもりですか。」

 賦秀は遠慮気味に聞いた。


 「幽斎、説明してやれ。」

 信長は笑みを絶やさず幽斎に話を振った。


 「上様に諫言、申し上げたいのですが。」

 幽斎は怒り気味に言い放つ。


 「幽斎、諫言は許さんぞ。今、儂はただのうつけ信長じゃ。」

 信長はにこにこしたままだった。


 幽斎は深いため息を一つつくと説明を始める。

 「上様はこの度、侍大将として、大手道にて民と共に働くおつもりです。安土の民を死地に追いやるからには上様が先頭に立ってともに戦うと仰せです。大手道の責任者は、不肖この幽斎に命ぜられました。」


 「そう言うことでしたか。この忠三郎も上様とご一緒したかったですが、お邪魔になるといけませんから、父の手助けをいたします。大手道は上様にお任せすれば鬼に金棒です。大手道以外の守りは我らにお任せあれ。上様には負けませんよ。」

 賦秀は目を輝かせていた。


 「忠三郎の動き、儂も楽しみにしようぞ。大儀であった。」

 信長は扇を広げ賦秀を扇いだ。


 使い番が走りこんでくる。

 「ご注進―――。瀬田城より狼煙が上がりました。」


 「始まったか。幽斎、手はず通り進めよ。忠三郎は急ぎ、二の丸の左兵衛のもとへ行き指示に従え。両名行け。」

 信長は鋭く命を下す。


 「は、御意のままに。」

 幽斎と賦秀は同時に頭を下げ信長の前を下がる。


 その頃、瀬田の唐橋と瀬田城は猛火に包まれていた。

 それはこの先の激戦を予感しているかのようだった。

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