第10話 風雲信濃

 岩村城の信忠と一益は伊那街道の北上を開始した。


 二月十七日に信忠軍は平谷村に軍を進め、その翌日には飯田まで侵攻した。

 この飯田の地で信忠は先鋒隊の森長可、団忠正、軍目付の川尻秀隆と合流し、すでに寝返っていた小笠原信嶺とも合流をはたす。

 飯田に織田軍を認めた武田方、飯田城の面々は元々寄せ集めの兵のためか恐慌に陥り、夜になると城兵が次々に逃げ出し、城主、保科正直も城を捨てて高遠城へと落ち延びていった。

 さらに飯田城の北方にある大島城の主将、武田信綱は身の危険を感じ城を脱出する。主将の脱出が城兵に知れると兵は戦意喪失して多くの城兵が逃亡していった。


 織田軍は、無人となった大島城に入城する。


 その頃、徳川家康は浜松城を出陣し掛川城入りし、その後、田中城を包囲、翌日には駿府城に進行し本格的に武田攻めに参戦した。


 信濃、大島城に入った織田信忠軍は、3万に膨れ上がっており、大島城内に収容しきれず、一部城外に野営をしている。


 信忠は大島城内で軍議を開いた。


 「小笠原殿、高遠城の情報を提供していただきます。」

 滝川一益は末席に控える信濃、松尾城主、小笠原信嶺に申し出た。


 「御意にございます。」

 信嶺は頭を下げ信濃の堅城、高遠城の状況を話し始める。


 高遠城は月蔵山の西側山麓が西に突き出した台地の上にある城で、南の三峰川が険阻な崖を作り北から西にかけて藤沢川が深い谷を形成し、三峰川に合流する天険の用地。

 高遠城の地形が兜に似ているところから兜山城と呼ばれ伊那地域での要衝の場所でもあった。

 城は本丸を中心として北に二の丸を配置し西に勘助曲輪、南に南曲輪、宝憧院曲輪を置き最外周部に三の丸を配置し各曲輪は空堀で囲まれている。また、西に大手門、東に搦手門がある。

 城主は武田勝頼の弟、信玄の五男、仁科薩摩守盛信、通称仁科五郎。武田信玄が上杉に寝返った信濃の名族、仁科盛政を攻め自害に追い込んだ後、安曇野支配のため仁科家の名跡を継がせて今に至る。

 盛信は武田親族百騎持ちの大将となっている。

 城兵は3千人程度、将は副将各の小山田備中守昌成、小山田大学助昌貞、兄弟、他十名程度。


 「上様より高遠城を攻める際には付城を築くようにと命がありましたが、小笠原殿はどこか適当な場所をご存知ありませんか。」

 一益が信嶺に再び話を聞いた。


「それならば、高遠より西二里の場所に貝沼原という地がございます。そこならば適当かと思われます。」


 「貝沼原ですか。中将様いかがしましょうか。」

 一益は信忠に向き直る。


 「では川尻肥前に物見を頼もう。信嶺と共に貝沼原を視察して問題なければ直ちに築城にかかってくれ。」

 信忠は川尻秀隆に下命する。


 「承知仕りました。」

 秀隆は頭を下げる。


 さらに一益が口を開く。

 「戦の前に城下町の焼き討ちをしてはいかがでしょうか。」


 「それは良いな。ただし、付城の状況を考慮して実施する時を決めよう。それで良いか将監。」

 信忠は一益に答えると一益は大きく頷く。


 「森長可と団忠正は川尻肥前の築城を手伝え。ほかに何かなければ軍議を終える。皆々大儀である。」

 信忠は軍議の終了を宣言した。


 二月二十五日武田一門衆筆頭にして武田二十四将の一人穴山信君梅雪不白は、甲斐府中にいた人質の妻(後の見性院)と長男を脱出させた。この時、梅雪の家人が府中からの追っ手20人程を討ち取ったことにより寝返りが露見した。

 諏訪、上原城にて織田の動きを見守っていた武田勝頼は穴山梅雪の寝返りを知ると本城、新府城の危険を慮り新府城に兵を返す。

 勝頼の退却により辛うじて保たれていた北信濃の均衡が大きく崩れることとなった。


 穴山梅雪の寝返りが露見した頃、滝川一益は甲賀忍びの工作兵を組織して高遠城城下町に侵入させていた。


 「叔父貴よ。今回の武田攻めまことにつまらんつまらん。ようやく活躍の場だと思ったらこんな影働きを命じられるなんて。叔父貴がうるさく言うからついてきたと言うに。やっぱり、つまらんつまらん。」


 「おのれ慶次郎。ゴチャゴチャ言わんとちゃんと見張りぐらいせい。」


 「へいへーい。ちゃちゃっと終わらして早く戻ろうぜ。」

 慶次郎と呼ばれた偉丈夫は頭の後ろで腕を組む。おおよそ忍びとは思えない派手な装束をしていた。


 慶次郎こと前田利益は滝川一益の甥と言われており前田利久(前田利家の兄)に再嫁した嫁の連れ子として子のない利久の養子になった。すでに、傾奇者として滝川家中に知られている。

 ちなみに、慶次郎が叔父貴と呼ぶのは滝川益重で一益の一族。


 「叔父貴、仁科五郎はこっちに寝返らんだろうか。」

 慶次郎は唐突に質問をする。


 「はー。慶次郎、今ここはその仁科五郎のお膝元だぞ、誘降の使者ではないんだがな。しっかしここでその話切り出すか、なぁ普通。」

 益重は呆れていた。


 「ここまで戦らしい戦してないから腕がなまってて、不便だ不便だと言ってるんだよ。今回は天下の武田相手だから気張って付いてきたのに、すっかり気が抜けたよ。」


 「まあ、慶次郎の気持ちわからぬでもない。でも恐らく仁科五郎は、あの信玄の五男坊、徒や疎かにできんぞ。信濃最大の激戦になるやもしれん。場合によっては安土の上様が出張ってくるかもしれん。そうしたらもう活躍できんだろうなぁ。」

 益重は高遠城を見ながら腕を組んだ。


 「滅びの戦か……。ならば派手に戦おうぞ。叔父貴あとは任せた。一足先に陣に戻る。」

 と言うと慶次郎は走り出す。


 「おい、こら、慶次郎、待たんかー。」

 益重は慶次郎の背中に呼びかけるが慶次郎は見る間に小さくなっていった。


 いつのまにか城下町は炎に包まれていた。



 信忠は籠城体勢にある高遠城城主、仁科盛信に向けて城明け渡しと本領安堵、黄金百枚(千両)贈呈をしたためた書状を使いの僧侶に持たせて城に向かわせる。


 高遠城に織田方の使者僧が到着し書状を渡し、城の外郭、待機所にて使者僧は待機させられた。


 「御大将、織田方の使者がきたと聞きました。」

 本丸御殿にいた仁科盛信のもとへ小山田兄弟が入ってきた。


 「備中、大学、耳が早いな。今、その書状が五郎の元に届いた所だ。」

 盛信は届いた書状を開きながら入ってきた小山田兄弟に話しかけた。


 盛信が織田からの書状に目を通していると主だった武将が集まってくる。


 盛信が書状を読み終わる頃合を見計らって小山田備中守が口を開く。

 「盛信様、この期におよび相談するにはおよびません。わられこの城に入った時より武田勝頼様にこの命差し上げております。飯田、大島の腑抜けどもが戦をする前から逃げ出してお家の名を貶めしただけでも悔しい限りなのに、この城までもが織田に尻尾を振って明け渡すなんぞ言語道断。そんな腸の腐れ物になりとうはありませぬ。たとえ、刀折れ矢尽きようとも城を枕に討ち死にする所存。皆々、甲州武者の意地、弱卒織田に見せて名を上げましょうぞ。」


 「よくぞ言ってくれた、備中、五郎盛信も同意じゃ。覚悟見せようぞ。皆のものそれで良いか。」

 盛信は右拳を高く上げる。


 「お―――!!」

 居並ぶ武将たちが信盛に倣って右拳を高く上げた。


 「織田の使いを呼べ。」

 盛信は大声で命じた。


 末座に座した飯田城主、保科正直は、面目を失い苦り切った顔をしていた。


 織田信忠からの使僧が入ってくると盛信は冷静な口調で語り出す。

 「われらにも織田方に恨みは多々あり申す。信濃の雪が消えたなら尾張、美濃に武田大膳大夫勝頼公と共に出陣しわれら武田の恨みを晴らそうと思っておったところに、そちらが先に来たということだけのことよ。高遠城内の者は武田の数々の恩義に報いるべく、すでに命は捨てておる。武田の恩義を忘れた腑抜け共と同腹と思われたくはないわ。それにしても、そなたは出家の身にて仏の使いではないか、それがこのような使者の役目を受けるとは何事ぞ。すでに出家失格と言わざるをえんわ。」

 盛信は小山田大学に目配せした。


 すると、大学はいきなり僧の両腕を取り身動きできないようにする。


 「そちの命は取らぬ。変わりに耳と鼻を所望する。再びこの城の門をくぐれば、その時は遠慮のうその首を所望する。備中やれ!!」

 盛信は小山田備中守に鋭く命じる。


 命じられた小山田備中守は脇差を抜きその場で耳と鼻をそぎ落とし僧を追い返した。


 方針が定まったところで、盛信はそれぞれ籠城のための準備をするようにと諸将に命じ、集まった武者を本丸より去らせ、小山田備中守と二人になった。


 「備中、松のことだが、逃がそうと思うておるがどうじゃ。」

 盛信は少し声を落として小山田備中守に聞いた。


 「それがよろしかろうと思います。それがしにお任せくだされ。」


 「相分かった備中に全て任せる。」


 松とは盛信の妹、信玄の娘、織田信忠の元婚約者の松姫。この時、偶然の産物だったのか必然だったのかは不明だが。織田との手切れになり婚約も破断になってからは、甲府に居づらくなり、ここ高遠城にて暮らしていた。盛信は不憫に思い松姫の安全を考え勝頼の新城、新府城へ逃がすため小山田備中守に任せたのだった。



 使いの僧侶が無残な姿を晒して大島城に戻ってきた翌日、織田信忠軍は完成した付城がある貝沼原の砦へと兵を進める。


 小高い丘に築かれた貝沼原砦は小さいながらも空堀を穿ち石垣を築いた堅固な砦に仕上がっていた。


 「将監いつもながらわれらの縄張り方も立派なもんだな。」

 信忠と滝川一益は砦を巡察している。


 「川尻様の縄張りですがなかなかのものかと思います。」

 丸太で組まれた塀や門をみながら一益は答えた。


 「設楽が原では丸太を担いで行軍した事を思い出したわ。その時は担いだ丸太が何に使われるか知らんかったがな。」

 信忠は積んである丸太をポンポンと叩いてみせた。


 「は、そうでありました。武田を攻めるには丸太が大いに役立つわけでございますな。」

  一益もポンポンと丸太を叩く。


 「中将様―――。」

 信忠と一益の元に川尻秀隆が走って近づいて来る。


 「いかがですか。小さいながらも堅固に作らせましたがお気に召されましたか。」

 

 「肥前気に入った。」


 「中将様ありがたき幸せでございます。しかし、武田攻めと丸太は切っても切れない物になりました。」

 秀隆が丸太をポンポンと叩いた。


 「ふふふふふ……。」

 信忠と一益は顔を見合わせ笑った。


 「何か気になる点でもございましょうか。」

 少し心配顔をして秀隆は信忠に聞いた。


 「肥前すまない。先ほど将監と同じことを申しておってのう、まさか、肥前までもが言うとは思うておらなんだったから、少しおかしくなっただけだ。この砦はよくできておる、きっと上様にも満足してもらえるであろう。」


 「は!ありがたき幸せでございます。」

 秀隆はゆっくりと頭を下げた。


 信忠は思案顔になり口を開く。

 「肥前、大物見に出る。団平八郎と森武蔵に脇を固めさせろ。わたしも母衣を連れて出る。信嶺に案内させろ。それと将監はここを守れ。」


 「は!今すぐ手配いたします。」

 秀隆は頭を下げると手配をするために走っていった。

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