甲州征伐

第6話 序

 4ヶ月程前 天正十年二月十四日


 満点の星空に満月が高く昇りつつあり、その月光は琵琶の海を美しく輝かせ、湖面をなでるように吹く風が月光を揺らめかせ、まるで幽玄の境地にいるような心地さえさせる。


 この贅沢な風景を独り占めしている男がいた。


 安土城の天守最上階にて欄干に片脚胡坐で座っている男は贅沢な風景を何の感情をあらわずに眺めている。その男の名は、織田前右府信長その人だった。


 「お乱よ。城介は今ごろどこにおったかのう。」

 つぶやきにも似た声で天守最上階の部屋に控えている、お乱こと森乱丸成利もりらんまるなりとしに何気なく尋ねる。


 森乱丸成利もしくは森蘭丸長定は、攻めの三左こと猛将森可成の三男で、信長が最も信頼し気に入っている小姓であった。

 時に信長は、側近や諸大名に自慢できる物として一に奥州より献上の白斑の鷹、二に青の鳥、三に乱丸と話している。

 ちなみに、森可成は戦で亡くなっており、兄弟に次男、森長可(鬼武蔵、織田信忠の旗本)、四男、森坊丸長隆(信長小姓)、五男、森力丸長氏(信長小姓)、六男、森仙千代長重(信長小姓だが不都合を起こして幼すぎるとして3月に母のもとに返される)。


 「三位中将様は今ごろ、美濃、岩村城で滝川将監様と合流しているところだと思われます。」

 よく通る声で間髪入れずに乱丸は答える。


 「であるか。」

 琵琶湖を眺めたまま信長らしい短い返事を返した。


 この時、織田信忠を大将とした甲州攻め(武田討伐)が開始されていた。

 北を向いていた信長は何気なく東に目を向けた。

 安土城から東を望むと鈴鹿山脈が広がる。その山脈の更に東側が赤くボーと燃えるような天変が起きている。一瞬、日の出かと思われたが時刻はまだ亥刻(午後9時)だった。

 ちょうどオーロラ現象に似たような現象が観測された。


 「お乱、東の空を見よ。赤き光りが現れておるぞ。これは、もしやすると城介の武田攻めの吉兆やもしれん。」

 信長にしては珍しく少々興奮気味に話していた。


 乱丸は「ごめん。」と断ると部屋より外に出て信長のそばに座り東の空を見る。


 「上様のおっしゃる通りと思います。おめでとうございます。」

 乱丸は信長にきっちりと頭を下げた。

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