第5話 敵は本能寺にあり

 老の坂を越えた明智軍は、子刻近くに沓掛の地に差し掛かると、全軍を停止させ兵糧を使わせることとした。


 「物頭の天野源衛門を呼べ。」

 本陣にいる明智光秀は神経質そうに使番に命じた。

命を受けた使番が足早に本陣より出て行く。


 「源衛門、御身前に罷り越しました。」

 床机に腰掛けている光秀の前で片膝立ちになり口上を述べた。


 「源衛門近こうまいれ。」

 光秀はそう言うと手招きして源衛門を近くに招き寄せる。


 本陣内は人払いした様子だったが、光秀の後ろには斉藤利三だけが立っている。

 光秀は前のめりになった。


 「源衛門、心して聞け。これよりわしは織田前右府信長を討ち取ることとした。」

 斉藤利三に殺気がこもる。


 源衛門は本陣内を見回し利三を一瞬見ると微笑む。

 「殿、重畳でございます。して、それがしへのご命令をお聞かせ願います。」


 「うむ、良きかな。これよりそなたに京への先駆けを命ずる。味方内より裏切り京へ注進に及ぶ者や近在の者どもで、注進に及ぶ者があらば、情けをかけず切り捨てよ。」


 「は、先駆けの仰せ、委細承知つかまつりました。これより先駆けを仕る。ごめん。」

 天野源衛門は足早に本陣を後にした。


 利三の殺気はすでに消えていた。


 源衛門が先駆けてから四半刻(30分)程、経過すると子正刻(午前0時)になった。

 光秀は全軍に出立の下知を下し、明智軍1万3千は再び京を目指して行軍を開始する。


 この日朝から降っていた雨は明智軍が亀山を出陣したころには止んでいて、明智の兵たちは雨でぬかるんだ街道を行進していたが、ようやく月明かりが雲間から差し込んでくるようになっていた。

 兵たちの草摺りの音、ぬかるみを歩く足音、馬の息づかいなどが丹波街道に響いている。

 力強い行軍を見るだけでも明智の兵の練度の高さを窺い知ることができるだろう。


 一刻ほど行軍して丑正刻頃(午前2時)に桂川に差し掛かり全軍を停止させた。


 「馬の沓を切り捨てよ。徒立ちの者は新しい足半あしなかを履け。鉄砲の者は火縄を一尺五寸に切り、火をつけ五づつ火先を逆さまにして下げよ。」


 馬上のまま光秀は新たな命を下した。

 明智軍の使番が命を触れ回っていく。


 騎乗の者が馬のわら沓を切捨て、足軽たちは踵のない草履に履き替え、鉄砲を持った者は下命通り火縄を下げ始める。


 光秀の命は遅疑なく実施されていった。


 騎上の光秀は右手の軍配を前方に向ける。

 「渡河、開始せよ!!」


 明智軍1万3千は一斉に桂川を渡っていく。


 先駆けの天野源右衛門は20騎ほどで、すでに桂川を渡り、京の入り口である、丹波口へと差し掛かっている。


 「源右衛門様、あそこに百姓がおります。」

 騎上の武者が指を指した先の瓜畑には数人の百姓が収穫を始めている。


 源右衛門は家臣を呼び寄せる。

 「百姓と言えどもわれらの本体を見たら京に注進するやも知れん。ならば皆の者、情けをかけることなくすべての百姓を屠れ。いざ!!」


 源右衛門たちは馬を奔らせ、畑に乗り入れ無造作に百姓たちに槍を突けていく。

 収穫時のみずみずしい瓜畑の瓜は、馬蹄にかけられ血で赤く染まる。

 瓜畑の百姓すべてに槍を突けた源右衛門たちは馬を降り百姓一人づつ止めを刺して回った。


 桂川を渡り終えた明智軍は三度、行軍を停止した。


 「全軍、聞けぇー!!」

 光秀の傍にいた利三が叫びさらに続ける。

 「わが殿はこれより、織田前右府信長を討ち取る。かの信長の悪逆非道を殿が正す。者どもはここを先途と心得よ。手柄次第で恩賞は思いのままぞ。今日よりわが殿こそが上様とおなりになる。すべての者どもよ悦び勇め。己が討ち死にしたとて跡継ぎは立ててやる。」


 「おおーー!!」全軍は奮い立った。


 「わが敵は本能寺にあり。」

 明智光秀は馬上で言い放った。


 「おおーー!!」


 明智軍は三度、動き出した。


 月が闇夜を照らしている。

 月光は槍先や鎧を照らし、闇夜に浮かび上がっていたが、ただ、明智光秀だけは月光を嫌うかのように闇に沈んでいる。

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